ロラン・バルト、日本文化とエクリチュール

日本に関心を示す西洋の文化人は少なくないが、ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)もそのひとりで、彼はいくつかの論文で日本の文化に触れている。中でも重要なのは、1970年に出版した、「L'Empire des signes(表徴の帝国)」で、彼は日本の印象をその一冊にまとめている。本書は、すきやき、箸、すもう、俳句や庭園から学園紛争に至るまで、日本を代表する文化を、各章ごとに描いてゆく。だが本書は紀行文や東洋文化論等とは異なるもので、1957年出版の「Mythologies(神話作用)」を彷彿とするが、しかし今回は個々の内容が西洋と東洋の差異の中に展開される「エクリチュールの本」として、異なる観点を下地にして書き上げられている。

1966年代半ば、バルトは当時関心のあったエクリチュールの問題に取り組むための詩的素材を探していたが、フランス文化使節の一員として招聘された日本の文化にそれを発見した。首都からして、すでに中心が空虚な国。そこに展開する諸々の記号は意味の空白に戯れ、意味=中心から隔たる周縁で生を得ている。バルトはそのような日本の文化に、脱中心化の意味を据え付ける。彼は日本の文化を「革命的実践」だととらえ、そこに散在する「無」をテコにして、西洋的な表徴=記号体系を揺さぶろうと画策する。哲学をテクストとして読み込むデリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)に対し、バルトは本書で文化においてそれを実践する。

バルトは出版後に行われたプロメス誌とのインタビューで、本書の意図に触れている。もっとも誌はインタビューを、「記号内容を展開し、詰め込むための修辞学的様式」を踏襲するものだとして、それに否定的な見解を示している。そこで誌は対談に、「もうひとつのテクスト的セリー(音列)の展開を可能にする」、読書のしおりとしての役割を期待する。下記にその内容を、前半部を中心にまとめてみた。

インタビューをはじめるにあたり、誌はまず本書の主題を規程する。東洋を物質的地勢から切断し、そのテクスト的解釈を通じて西洋のイデオロギー的姿勢、東洋を見る目に寄り添う帝国主義やキリスト教的思考とともに、それへの無知と思い込みにクサビを入れること。本書はそのような主題に沿って、日本を「象徴的なものの裂け目」を記す、問題解決への糸口を探るためのテクストとして再考する。したがって、各章では諸文化を「象徴体系の固有性の変革」を示唆する事象、「抑圧された外部への抜け穴」として紹介する。

本書は西洋を「意味の帝国」だとする一方、日本を異なる象徴体系を擁する「記号の帝国」だと解釈し、テクストの織物、エクリチュールという「別個の記号表意的結合関係」として再読することで、両者の対立構造を解明する。記号空間とは「記号表現と記号内容と指向対象からなる記号の基本的階層組織」を意味するが、諸々の解読において、その組織は凌駕されてゆく。そこでは意味は定まる「と同時に逆流し、与えられると同時に拒否され」、すべての記号内容が瞬時に記号表現へと収束することで、「諸コードの正確な編物でありコードの概念を基礎づける階層関係」は、空虚な記号の素性によって消滅する。

バルトはそのような誌の解読を受けて、本書における試みの出発点を、フォルマリスムにおける文学的隠喩との共通点に基づく、東洋に対するフォルマリスト的視点の再考であると解説する。フォルマリスト的視点は内容、主体、原因や主義主張という、その記号内容によって批判される。批判は形式による内容の転位と後退を目的とするが、彼はそれが行う内容の相対化や時間の延期に着目し、そのような「基準枠の不確定性」に文学的な隠喩との共通点を感じ取る。文学は、唯心論的で固定的な哲学や神学という記号内容から回避するために隠喩を用いてきたのだが、それは起源の消滅へとたどり着く。

そのような隠喩はテクストのエクリチュールに潜む無(空虚)として、中心の欠如を示すのだが、本書の核心部分もそこにある。悟りとして読まれる東洋のエクリチュールはパロールを無にすると同時に、その空虚なパロールがエクリチュールを構成する。その無化と空虚が、西洋との差異を集約する。内部が「男根の、父の、呪文の強迫によってこれを埋めるように促される」西洋の知性は、そのような主体を揺るがす「無意識的回収」を伴う空虚を拒否せざるを得ず、それをひとつの中心へと改変する操作、いわゆる「神秘的還元」を実行する。そこで誌はバルトの解読をそれに打ち勝つ「空無化の実践」として、その「空虚を表現することなしに書く」という手法に賛同する。

バルトは空虚が示す観念を、「脱中心化の観念」を支えるものとして、その下部に据え付ける。彼の言う空虚は充実する。一般的に「充実したもの」とは、忘れ得ぬ過去や父のような主観的な記憶、神経症的な反復、大衆文化的なステレオタイプなどとして例示される一方、空虚はそれに相反する「肉体、事物、感情、語などの」欠如であると定義される。しかしバルトはそのような分類を、「旧物理学」の侵食がもたらしたものだとして一蹴する。世界を起源によらない「一時的な差異の体系」だとする構造主義に根ざす彼の思考の中で、空虚は「新しいものへの回帰」、「世界の自己生成性」と呼ばれるものへと読み替えられる。

バルトが示す空虚の意を受けて、誌は本書に登場する俳句を例に取る。俳句においては、記号表現と記号内容が完全に一致する。一方、西洋の詩的ディスクールにおいては、その「活発な多様性、記号表現の深さ」によって、記号は戯れ疲弊する。誌の指摘に対してバルトは、「記号の反対物、非記号、無意味」のような一連の反対物による正面的な攻撃、意味の廃棄、言語の転覆といった手法の非力を例示する。彼が求めるのは、固有性の希釈化による廃棄、パロディー化、模擬といった、「ごまかし、盗み、かすめとる」といった手法なのであり、彼はそれらと俳句の機能との一致を強調する。俳句は、「ある種のテクニック、韻律的コードによって、記号内容を消滅させる」と同時に、その「最後の反転によって読み得るものの仮面を着け、良い(文学的)メッセージの属性、つまり明晰さ、簡潔性、優美、繊細さを模倣しながら、実はこれらのものから一切の指向を」剥奪する。そのような能力は彼の言う「古典的エクリチュール」にも存在するが、そこには現代的な、「パラグラム、剽窃、テクスト相互関連性、偽りの読みとり可能性」などの、「理論的可能性」が欠けている。

誌はバルトの言葉に対し、「日本という語が示すエクリチュールの唯物論的係留の問題」に触れる。係留とは「成層組織をなし、相互の支配・限定関係に規制された、わりあいに自律的な諸系列」による「文節された複合的実践」を意味するが、バルトはそれを言語の内側から開始する。彼が行うのは、「あらゆるイデオロギー的なもの、無意識的なもの」を包含し、それらを中心として伝達により強迫を仕掛けて来る言語の脱中心化である。そのような前提において各章では、諸々の文化に存在する身振りや痕跡といった、「一般的エクリチュール」を示す言語が検証されてゆくのだが、そこでバルトが問題としているのは、「標定された種々の記号表意的実践の、弁証法的に秩序立てられた射程内における、その位置」である。

インタビューはまだ継続し、より包括的に本書の概要が示されてゆく。

本書が語る核心は、日本という物質文明のテクスト化を出発点としているが、バルトにそれを引き出させたのは、他国にひとり置かれた外国人が味わう特殊な疎外感である。本書の各所に示されているように、バルトは日本に滞在中、常に自らを外国人として疎外し続けた。だが、その疎外の原因、彼を取り巻く不可思議な言葉や作法、その無意味、理解不能性が、彼を意味の強度から解放し、「悦楽」という重要な感覚を彼に目覚めさせてゆく。本書における日本のテクスト化とそのエクリチュールとしての読み込みは、そのような疎外がもたらす「悦楽」を起点とするものだ。

かつてバルトは、ある種の西洋文化における記号の明瞭さが示す意味の透明化、そこでのシニフィアンとシニフィエのみごとな癒着の表象を、現実生活とは異なる現代の神話として解読した。一方、シニフィアンがシニフィエ=意味を超越する日本においては、そのようなシニフィアンの豊かさが、シニフィエとの結合を不要なものにしてしまう(記号が空虚なのでシニフィエへと導かれない)。それが西洋人であるバルトを意味の理解から開放し、そこはかとない「悦楽」を彼に提供した。

参考文献
Empire of Signs: Roland Barthes, Richard Howard (trans.), Hill and Wang, 1982
物語の構造分析:ロラン・バルト、花輪光(訳)、みすず書房、1979
神話作用:ロラン・バルト、篠沢秀夫(訳)、現代思潮新社、1967

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