文体と誤読

一般的に文学における文体とは言語の表記法や様式を意味し、作家やその作品に個性をもたらすレトリックのひとつであると定義される。文体の構成は複雑で、それには文の長さ、改行、読点の状況、調(文語調や口語調)や体(常体=である、敬体=ですます)、そして使用言語の種類や比喩におけるバランス(隠喩と換喩)などが列挙される。作家はこうした基本を個々の文学研究を通じて体得し、そこから独自の表現へと跳躍する。

「文体とは、作家という個に特質を与える鍵である」。文学においてはそのような意味で用いられる文体だが、文学を独自の解釈で読み取ろうとする諸々の思想において、文体はどのように理解されているのだろうか。

モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot、1907 - 2003)は、「ある時点において、なんらかの世界の場所へのわれわれの帰属に応じて、われわれ全体の各々に与えられるようなものとしての共通の語りの状態」をラングとする一方、文体を「血とか本能とかの神秘に結び付いた薄暗い部分であり、強烈な深みであり、像(イマージュ)の濃密さであり、われわれの身体とか欲望とか自分自身へと閉ざされた秘められた時間とかの好みが盲目的に語る場であるところの孤立性の言語」であると述べている。

ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)は、エクリチュールを欲望にまとわり付かれた文字に代わる自動詞的な、自己目的に供する言語活動であると定義するが、それは彼が言うゼロの地点における文体概念に隣接する。バルトは言語体であるラングを民族の体系、スタイルとしての文体を個人の体系に位置づける一方、文体を伝統的で個人的な言語から離れ、生産性の概念としての唯物論と主体分割の概念としての精神分析との両方に影響される言表行為だと定義する。構造主義においては、テクストは意味を形成する場としての引用の織物、差異の産物として、作り手から受け手へと渡され、そこで作者は消滅する。作者の消滅に伴い登場するのが読者だが、それは実際どのようにテクストを受け取っているのだろうか。読者の受容は、誤読に終始する。

ジョナサン・カラー(1944-)は、テクストにおける文体の難解さにはかかわらない、あらゆる読みにおける誤読の発生を指摘する。彼はあらゆる読みを誤読であると前提し、読解を同一性、誤読を差異として、両者を対称的に配置する。すべてのテクストは隠喩の逆転や拡張が可能であり、加えて読者は読みを部分的なものとして捕捉せざるを得ないので、選択と組み立てを行う誤読という行為から読者が開放されることはない。理解と誤解の関係において、前者は後者の特殊なかたち、つまり誤りを問題視する必要のない誤解であるとして、誤読は読解と解釈の歴史において、繰り返し絶えることなく行われてきた。読解が理解を通じて同一性を維持するために、その意味内容を保持しようとする一方で、誤読は誤解を通じて意味をねじまげ差異を捻出する。

誤読は差異を強調するが、それが示すのは、理解を肯定として、誤読を否定として、前者を常に第一項に配置してきた制度の問題である。誤読による理解の、誤読の階差的な関係との逆転が、階差を下地に真理や諸制度を支える構造に裂け目を入れる。逸脱を特殊なものとして下位に置き、それへの抑圧と排除を通じて、正常といわれるものを捻出する。そのように仕組まれた階層秩序を基礎とする社会の諸制度が、誤読を通じて表象される。

正常を旨とする階層秩序においては、誤りを利害や欲望により傷付いたものだと前提する。そこで秩序は、読解に真理としての役割を期待する。とはいえ、いかなる読解にしても、それは到達できないような場所にある唯一なものであるはずはなく、また真理にしても、それは痕跡として誤りの中に保存されているものにしか過ぎないので、誤読は反発する。だが誤読が真理概念を否定することはない。誤読には真理の幻影がとどめられているが、そのようなありかたこそが、形而上学的な観念化への抵抗に結びつく。

参考文献
エクリチュールの零度:ロラン・バルト、森本和夫・林好雄(訳注)、筑摩書房、1999
物語の構造分析:ロラン・バルト、花輪光(訳)、みすず書房、1979
ディコンストラクション I:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985(誤読に関する部分)

ロラン・バルト

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