カント: 判断力批判と美的想像

判断力批判

カントの哲学において主体と客体の基本的な対立は、知性と感性、認識と欲望のような、純粋理性と実践理論との二律背反的な構図の中に描かれる。前者の目的は道徳的で、道徳律の下に存在する自由を構成し、一方で後者は因果律に支配される自然を構成する。自由の領域と自然の領域とは全く異なるもので、主体の自律性が因果律を侵食することはなく、感覚的な素材が主体の自律性を決定することもない。

現実の客観的な主体の自律性に何らかの効果を加えると、主体が設定する諸目標は幾分現実的なものへと変化する。付加によって自然の領域は自由の領域に支配されることになるが、そこに自由と自然が媒介する新たな次元が出現する。判断力とは、自然から自由への移行、低次と高次の能力、欲望と認識の能力を結びつける力として出現する次元のことである。純粋理性は認識の先見的な原理を与え、実践理性は欲求や意志の先見的な原理を与えるのだが、判断力は苦痛と快楽で二律背反する両者を媒介する。

カントは媒介としての判断力を快楽と結び付け、芸術分野における美的判断へと応用する。彼の判断力批判は、中心となる自然は自由からの影響を受け入れ、必然性は自律性からの影響を受け入れる。実践理性は道徳における自由の範囲内で自己実現を図るのだが、美は現実の自由を直感的に表現し、その領域を象徴する。判断力批判は、自由を感覚や知覚と対応できないひとつの観念として規定するので、間接的に、また象徴的に、類推によってそれを表現する。

美的想像

美の秩序、つまり美的次元における体験や知覚は、概念的あるいは観念的なものではなく、感覚的、直感的なものである。とはいえ、美的な機能それ自体は道徳性と感性両方の領域に妥当する原則を含むので、両者が規定する人間存在の中間に位置することになる。

快楽は対象の質量や目的とは関係なく、対象の純粋な形式の知覚から生じてくる。一方、美的な機能は感性と内在的な関係にある。美は対象の純粋な形式として、想像力によって表象され定義される。それらが意味するのは、想像力と同様に知覚も感性的ではあるものの、知覚は想像力を越えたものだということだ。

主観に依存する快楽だが、それが対象それ自体の純粋な形式によって生じるものである以上、知覚する主体にかかわらず必然的に美の知覚を伴うことになる。したがって、美的な想像力は創造的であると同時に感性的(=受容的)なものでもあり、自由な構成のもと、感性にある客観的な秩序が、普遍妥当性を伴う原則を生じさせる。

カントは、対象が美しく自らを表現する場としての形式として顕現する秩序を伴う形式のことを、「目的なき合目的性」と呼ぶ。それは美の構造を規定する形式的な合目的性として、抑圧のない秩序の本質を描写し、人間と自然に潜む可能性の開放を模索すると同時に、その内容を定義する。

日常や科学とは異なり、美的想像における対象の判断は合目的性や完全性に依存することはない。美的想像は対象からそのような特性を切り離し、対象を自由に表現された姿として判断する。対象は想像力によって自由に表現されることで、純粋理性や実践理性との結合を保留し、自由な存在として解き放たれる。美はそのような対象の経験の中に出現する。形式における純粋で多様なものの統一として、それ自身の法則によって機能する美は、さまざまな運動や関係が一致する快楽の純粋な顕現を意味している。

悟性が認識する観念と想像との一致によって、美的な対象の自由な受容にほどよく反応する、心的な諸能力の調和が確立する。その一方で美の秩序は、想像力を支配する秩序から生じたものでもある。だが、そのような二重性にもかかわらず、調和そのものは自由である。それは抑圧的に押し付けられたものではなく、そこで特定の目的達成を強要されているわけでもない。それは存在そのものの純粋な形式として、美的な法則が存在それ自体の純粋形式と一致することで、一旦保留されていた対象の純粋理性や実践理性との関係、相反する自然と自由、感性と知性、快楽と道徳性を結合する。美の秩序における、そのような相反する関係を媒介する第三の心的能力。それが想像力なのである。

参考文献
エロス的文明:ヘルベルト・マルクーゼ、南博(訳)、紀伊國屋書店、1958
判断力批判(上):イマニュエル・カント、篠田 英雄(訳)、岩波書店、1964

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