辻邦夫、小説への序章

辻邦生(1925 - 1999)は、初の長編小説「回廊にて」(「近代文学」1962年7月号から翌年の1月号に連載)において、虚構としての語りの中に、彼独自の芸術観の解説を試みた。主人公の画家、マリア・ヴシレウスカヤの生涯が、彼女を知る日本人の画家による回想録として再生される過程の中に、困難から始まり最終的な姿へと到達する、芸術の姿が描かれている。辻の試みは、続く「夏の砦」(1966年)へと発展してゆくが、1968年に発表された「小説への序章」おいて、その詳細が小説論として語り直されている。

辻は本書で、芸術を軸に、文学を「書くという行為」として、小説の定義を規定しようと試みる。そこで彼がまず訴えるのが、小説と現実との密接な交わりである。彼にとって、「現実の無意味な、無数の、偶然的な空間が小説の空間になかに現れているという意味で、現実と小説とは無関係ではありえない」のであり、「この現実の達成したあらゆる人間活動の成果を、全的に、しかし象徴的に、目に見える形で提出するというところに成立する」のが、小説という虚構である。辻は、有効な現実を洞察し、そこに生きることが真の自由であるというヘーゲル的現実を見据えるかのようにして、虚構と現実との密着を小説の核に据え付ける。

虚構は現実の頂点に位置することで、それを収斂し統括する。「廻廊にて」においては、虚構の下に積み上げられる現実とは危機であり、それが芸術家と芸術の真理を予見する。主人公の画家は、幾多の絶望や苦難に遭遇しながら、芸術の契機をとある作品表現の中に発見する。それを手始めに再生への道を歩むことになるのだが、その再生とは、芸術家を更なる投企へと導くものである。しかし、その死への接近という、一見破滅的な状況の中にこそ、主体存在の有り様の確認とともに、芸術誕生の秘密が隠されているのである。

芸術は絶対性への希求とともに、主体の存在とその極限的な危機を糧に、「人間存在の根拠を感覚的形象によって示す」ことで、「新しい価値を意識化」し、自ら展開し発展する。一方で芸術家には、真実と虚構との差異をどう捉え直すのか、主体としての人間が神を失った永劫回帰の中で、どのようにして真理へと接近することができるのかといった、哲学的なアポリアが課されることになり、それを克服しながら、芸術家は自らと芸術の開始へと到達するのだが、そのような普遍的主体への到達過程は辛辣で、芸術家には極限的な苦渋が課せられる。

辻の言う普遍的主体への到達過程とは、「一般的な知的体系の拡がりの中」において、芸術家が自ら、「一片の個物、個別的な偶然的な制約された事物」へと貶められた存在であるという事実を確認することで、「一本の薔薇に潜む無限の宇宙が感じ取れる」時へと至る道筋のことである。それは危険な投企なのだが、その先に現れるのが、「宿命的ともいえる自己実現の中に現れる真の世界の実在」としての本質なのであり、そこで主体は、「歓喜の風をはらんだ晴朗な領域に達した」ことを確認し、自身を貫く「永遠の歓喜と晴朗」に満たされる。だが、そのように「普遍的主体が純粋な世界の実在をあらわすものとして立ち上がる」場とは、「死の静粛がひろがる絶対的な虚無の世界」に他ならない。そこで芸術家には、「小さな私」と「現象」との間にある対立項の破壊という、苦渋の道が要求される。

芸術家の実在は、そのような対立項の破壊によって得られる本質によって確約される。自己の放棄は現実逃避とは異なるもので、それは「自我主義」としての私=実在を肯定する。そこで私は、個の破戒による歓喜と自由を手中にすることになるのだが、そのためには、私に与えられた存在の宿命の自己完結としての「明るさ」を確保することが必要になる。その「明るさ」はアノニム、つまり匿名性へと収斂され、「明るさの成熟として内面化した全体が、一種の無私の主体から眺められる」という状況がつくり出される。

そのような状況とは、私の単なる内面への転回とは異なるものである。「小さな私」とは、常に対極としての外界を保持しつつも「外界に対して単に対立的」な存在で、「認識や実践をとおして自分を外界に適応させる」私を意味している。したがって、そのような個の、内的な領域への移行は、孤立した主体への埋没、外界を拒否し内面へと逃避する行為として、否定的に受け止められる可能性が存在する。しかし、ここでいう内的領域への転回とは、個の自らの意識を超越した透明な存在への転換を意味しているのであり、個は意識の喪失と自らの無化によってこそ、善悪や美醜を越えた、あらゆる存在が現前する場への移行が可能になる。投身の果てに訪れる自己の喪失による個の透明化によって、はじめて「小さな私」は、「あらゆる存在のなかに偏在する能力」を持つ、「大いなる自己」へと変貌する。

芸術創造の開始は、私という実在が「明るさ」という匿名性の中へと収斂してゆく過程の中に記されるのだが、文学において、それは書くという行為を意味している。書くという行為は、透明な私によって照らし出されると同時に、それ自体によっても明るさを保ち得る、「ロゴスとしての言葉の領域」の基に確立される行為である。それは「存在が変転しつつ内部照明を成熟させて達する最後の段階」、「明るさ」が私を超越する段階として、「明るさ」の領域を保持している。存在は私を借りて、その宿命を成熟させ完成の域に達すると同時に、私はこの「明るさ」というアノニムへと昇華されてゆく。

注)文中の「」はすべて「小説への序章」から引用した辻の言葉。引用の詳細は省略する。

辻邦生小説への序章廻廊にて

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