Ingrid Monson、コミュニティーとしてのジャズ

ジャズはバックが放つリズムと、そのうえに演じられる即興のソロとで構成される音楽である。ソロは各奏者同士によるインタープレーとして交互に繰り替えされ、それぞれに演奏のクライマックスが演出される。リズムがジャズのゲシュタルトを構築しつつ、その空間にソリストが入れ替わり立ち現れるのがジャズの典型的なパターンであり、すべてのジャズに共通する演奏スタイルである。

自身演奏家でもあったアメリカの音楽学者Ingrid T. Monson(1955 -)は、このようなジャズ演奏をある種のコミュニティーだと解釈し、ジャズを多面的に分析する。Monsonは、本質主義的な音楽のあり方やそれを支える文化の単一的な見方に対して、懐疑的な姿勢を示す学者である。そこで彼女は、ローカルな文化、覇権的な高等文化、世界共通の文化、個人的な要素等を相同的に扱わず、それらの境界を揺さぶるような、各分野の交差に主眼を置いた分析法を選択する。相同的な見方はジャズのような相互文化的な行為においては不適格で、ジャズの議論において何かに固執するのは適切ではない。

分析において、Monsonがとりわけ注目するのが、即興演奏に内在するイロニーである。即興演奏における白人のスタンダードソングのアレンジ、作曲やソロ演奏における注釈行為、よく知られる各種の黒人音楽に対する滑稽な属性の強調等、イロニーはどこにでも存在するのだが、それを分析することで、断片的な音楽のディテールに埋め込まれた複雑な文化的構成が顕在化する。即興演奏には音楽的、文化的、社会的、政治的な文言が含まれており、演奏者と聴衆への意味の明確化、伝達、そして受領の痕跡が、イロニーに刻み込まれている。ジャズの即興演奏は、演奏家がその伝達プロセスにおいて選択的に用いる社会的アクションの様式であると理解できる。したがって、その音楽表現に潜む異種混交性と、黒人(アフリカ系米国人)の音楽コミュニティーにおける文化的同一性の中に潜む異種混交性との間の連続性、密接な関係の解明が必要になる。

以下はMonsonの論文からの抜粋だが、直訳とはせず、読みやすいように要約した。

ジャズの世界においては、高等文化と黒人のコミュニティーにおいて象徴的な役割を持つサブカルチャーとの間にある既存の音楽的関係が転倒されるのだが、その転倒が、分析において重要な意味を持つ。ジャズ奏者は、彼らを無教養、本能、非言語的、インモラルというような形容詞で修飾する白人の文献が示してきた見方を受け入れない。そのような論説は、ジャズを野蛮との関係から論じ、伝承されてきたアフリカ文化との比較において結論を導き出そうとする。加えて、ジャズを低い階級の生活や神秘的なサブカルチャーと比べることで、彼らの文化的生活の姿を歪曲する。彼らは、純粋で、感情的で、直截的な高貴な野蛮人(noble savage)として登場する演奏家の姿を、未開主義者による神話が作る人格だとして否定する。ジャズは標準的な中流白人の文化に対する降伏などではなく、黒人の主張なのであり、彼らの意識は自身の歴史に加えて、西洋的な社会文化的象徴を会得した進歩的な感覚によって支えられている。実際に黒人は既に中流的な環境に置かれており、都会に付きものの貧しさとは縁遠い存在である。

ジャズを支えているのは、そのような実状から生み出される二重の意識である。ジャズは切り離すことができない二つの異なる世界を内包し、その明瞭に分離されてはいるものの、絡み合う二つの世界のイメージは、アメリカにおけるヨーロッパ人とアフリカ人の出会いを象徴する。出会いは黒人対白人の構図の中にある部分的なオーバーラップとして、単純な黒と白との対立の構図とは異なる複合的な声、二重の意識を表象する。ジャズはコラージュ的な様相を示す音楽で、無数の固有の同一性(アイデンティティ)が帰する、二重の意識の上に成立する論理的空間なのである。二重の意識とは社会的同一性が構築される場を意味するが、従来の相同的な文化の策定においては、そのような同一性における複合性は学術的に十分に他者的ではなく、また、音楽学においては他者的に過ぎるものだった。そのような中間的な位置づけとその結果による疎遠化が、黒人の音楽と文化の重要性を覆い隠してきたのである。

黒人の言葉で書かれた文学では、その言語に内包される二重の声の仕業によって、本流の文学にある既存の文学的、言語的な様相が逆転する。そのような文学では、変容、つまり正統性の改訂と間テクスト性が常に意識されている。そこで重要な意味を持つのが反復で、それにはパロディーとの関連性が指摘される。パロディーとはイロニカルな(反語的な)文脈化や倒置のことで、反復には差異が含まれる。元のテクストとそのパロディとの間にある批評的距離がイロニーとして理解されるのだが、それは遊戯的であると同時に卑下的、建設的であると同時に破壊的な性質を示す。両者はユーモアとして受容され、その度合いは、誇張された親近感とその逆との間の距離と、読者がすでに持つ原本への信頼度に比例する。イロニーが示す表象は、ふたつの散漫な白さと黒さが示す表現を、具象的な方法で安定させる。白人の散漫な世界の言語の語法の、黒人の散漫な世界の表現的様式への転換は、そのような差異を伴う反復の基礎であり、黒人が具象的表現形式を用いて行うすべての変換を象徴する。そのような文学の場における反転、矛盾、意味の再考はまさにイロニーの典型であり、行われる反復と逆転は、距離と間テクスト的な誇張という、イロニーにおける重要な変容を代表する。

イロニーの骨子は本質と前衛、二つの相反する美学的な均衡のもとにあり、また、そのようなイロニーはあちこちに存在する。それは、美と醜、規律とその破壊、黒人の心中にある二つの衝動の間に位置するある種の駆け引きとして、また、受け入れ可能な枠の外側に位置する彼らの立ち位置の発見としても理解される。それは、彼らに与えられた社会的地位の反映として、社会に正式に受け入れられない彼らに社会が与える距離の明証でもある。

そのような文学の場におけるイロニーと比較して、ジャズ音楽の底部に流れるそれは、より複雑な様相を示すものだ(*)。ジャズにおけるイロニーの実践とは、黒い顔をした吟遊詩人が、彼ら自らを風刺する踊りを風刺するというようなもので、ジャズにおいては、異文化的なものと単一文化的なイロニーとが交差する。前者におけるイロニーは、西欧のポピュラー音楽の即興演奏や、それ自体がイロニー的なスタイルをもつ現代音楽を主題とするもの、そして後者におけるそれは、ジャズの伝統的なスタイルを滑稽に参照するものとして例示されるのだが、それらはすべてイロニーの実践としてジャズの即興演奏に深く関わっている。黒人の音楽におけるイロニーは、彼らのアメリカ社会における位置を音楽的に再現し、即興演奏を行う奏者が世界の見方、同一性、美学を音楽的リソースの操作によって明瞭に表現する方法の証として、また、文化的に重要な事柄のシグナルだとして理解される。

ジャズの即興演奏のような言葉のない器楽曲においても、種々の文化的に特化された意味と同様にイロニーが伝達される。イロニー的な差異は、音楽的参照を用いるジャズの演奏において、むしろ強調される。言葉を使わない聴覚的なリファレンス、器楽的な手法による伝達は、音楽における間テクスト的な側面としてとらえられ、間音楽的な関係として読み替えられる。読み替えは、音それ自体を通じて引き起こされる伝達の過程を強調する。特定の曲のメロディの利用、音色の放散、悦楽の表現によって形成されるのがジャズである。レパートリーの内外からの素材の取り込みという参照行為が聴者との結び付きを確立し、彼らをコミュニティー(演奏者と観衆を含む)に融合させる。参照行為は、音楽的知識のある演奏者と観衆との反応の間にまたがる間音楽(間テクスト)的な連携を顕著に差し示す。理論的には、コミュニティーのメンバーである解釈者がその継続性を認める限り、ほとんど全ての音楽的細部や合成から何らかの参照が伝達されるのだが、そこで重要なことは、演奏者と解釈者が共有する文脈のその音の細部には、社会的に意味がある何かが潜んでいるということである。

ジャズの即興演奏における参照は、パース(Charles Sanders Peirce、1839 - 1914)の記号論における三分法のうちのインデクスとアイコンに習って説明される。各パッセージはインデクスと同時にアイコンとしても伝達され、それが過去と現在の演奏の関係の中で、そこに潜む社会文化的知識を認識させる。参照した音楽の詳細がインデクスとして他の演奏を示唆することで、両者は社会的な相互作用として音楽的な対話の中に並置される。それと同時に、アイコンとしての類似または反射効果によって、インデクスは原曲と演奏、その両者の意味を中間的に差し示す。参照で重要なことは、アイコンとしての瞬間が単純な類似ではなく、すでに類似したものの更なる類似を示しているということだ。即興演奏が行うある曲の変換においては、原曲と演奏二つのヴァージョンとの間の類似と、その奏者のバージョンとの差異とが同時に伝達される。そのように、即興のイロニーには、二重の差異を伴う反復が含まれている。

ジャズ演奏という音楽的会話における言語の交換プロセスは、まずグループのある一人があるアイデアの全体かその開始部分を述べ、次に他の一人がそのアイデアを受け取り、その聴取の感想を反映させつつ、それと同じアイデアに基づく解釈を発展させるという順序で繰り返される。したがって、その会話は断片の中に開始され、それへの反応としての異なる部分、異なる声で合成されたものとなるのだが、交換においては、間音楽性に関わるいくつかの条件が示唆される。非言語的な器楽曲として、ジャズにおいては、原曲の歌詞もジャズのリズムへと変換されるのだが、そこで成立する音楽的な関係は器楽的なものである。ジャズの伝達形態において共有されるものは、言語のように正確かつ明白なものである必要はない。他の奏者のアイデアを拾う、他の奏者が先導しようとしていることを予測可能にする、ある奏者が発展するアイデアを共に演奏する、そのようなプロセスとは、同じものを同じように演奏する能力に支えられたマジカルで錬金術的なものである。ジャズの演奏においては、同じフレーズを同時に思考すること、他の演奏家の演奏法の熟知を通じて先を予見することが重要で、各奏者には音楽的イベントのふくらみを、それがはじまる前に理解することが求められる。

そのようなジャズ演奏における連携、音楽的な伝達プロセスは、理論と実践両方における間音楽性の骨子を示している。リズム、メロディ、ハーモニー、構造、身振りというような隣接する要素の認識が、バンド各奏者の間における音楽的アイデアの発展という社会的行動の基礎となる。聴覚的な認識とは、連続的な社会化のプロセスを意味しており、それは個々の場合によって異なる各奏者のサウンド世界との重なり具合によって知覚される。そのようなプロセスにしたがう分析は、音楽を自律的な、あるいは具象的な生産物として眺める姿勢を回避する一方、それを議論の場へと差し戻すことを可能にする。その議論においては、音楽的イベントにプロセスとして埋め込まれた歴史が強調される。

西洋の自律的な高等芸術の複製とその具体化を、作品の底部に流れるものだと仮定し、ジャズ音楽を表面的に分析することは、必ずしも間違いではない。だが、それはジャズ奏者が音楽の知識に没頭する行為とは相容れない。黒人のジャズコミュニティーは音楽の表面的な理解を否定するが、多くの意味おいて、それにはイロニーが関与する。音楽イベントを社会的なものだとする見方は、音楽を生産物ではなく、プロセスとして考察させる。演奏を音楽家特有の会話にたとえて分析することは、散漫な会話を単なるテクストとしてではなく、コミュニケーションにおける社会的相互作用のプロセスとして強調する。ジャズコミュニティーの文脈において、黒人の散漫な表象に対する見識を適用すること、それは単なる知的な隠喩の生産を目的とするものではない。

ジャズの即興演奏におけるイロニー、または二重性の概念には、黒人音楽の枠外にある音楽によって描き出される、黒人音楽の美学の主張が記されている。黒人の音楽文化の知識は、黒人と白人の両方の音楽に対する親しみに由来するもので、ジャズの演奏はそのすべての知識をもとにして立ち上がる。黒人の美的スタイルの実践とは、支配的文化が行う人種差別に対する対話的な反応である一方、そこには文化の混合主義的な形態の進化を通じて形成される、成熟した文化を借用する行為が含まれる。ジャズの演奏における音楽的要素の二重性には、黒人の文化体験における二重性との深い関連性が指摘される。ジャズの体験とは、一般に信じられているそれよりも多様なものである。

黒人の真性の同一性は、決して単一的なものではない。その美学は反対側にあるそれをも包含する、二重の意識によって支えられている。各個人は等しく幅広い文化的知識を有し、その知識を選択する姿勢は多様であり、彼らはテクストからテクストへと跳躍する。そこで、ジャズ音楽の何が白で、何が黒かの分類を柱にする研究は無意味になる。どの部分が各美的カテゴリーにおける白や黒に属するのかを検証するかわりに、ジャズ演奏家がどのような方法で異質なものの文化的表現、特有の美学と音楽のイデオロギー的位置の表現に必要な音楽的知識を引き出すのかということが検証される。どのようにして多岐に渡る人種的グループに帰する参加者から、特定の美学的境界を定めるのか。多くのジャズ音楽家に見られる多重的な音楽性=複数の音楽形式を演奏する能力は、文化的同一性の溶解としてではなく、多くの文化的他者と接近する、文化的同一性の重要な構成要素であると判断される。異質な音楽と文化の要素が重なり合うこの美的な体系と価値の体系は、統合され評価されることで、文化の同一性としての分析が可能なレベルに達することができる。

ジャズの即興演奏は、社会的な行為であると同時に象徴的なシステムでもある。奏者は音楽を通じて、感じられる何かと同時に学理やレパートリーを学び、そこで生まれるサウンドそれ自体によって文化的な評論を明確に示す。ジャズの相互作用が生み出す美学は個人よりは大きいが、大枠としての文化と比較すると、全体制に欠ける非歴史的な何かと参加者を結びつけ、力強くエトスを具体化する。即興演奏を行うに際し、奏者はそのレパートリーにあるすべての種類の音楽を借り受け、参照し、変化させ、展開する。奏者は聴衆と他の奏者を、その音楽と社会的知識をもって満足させる。ジャズにとっては音楽それ自体がすべてであり、またそれは、社会的意味の構築という部分においては周縁的なものである。ジャズとは、文化的活動として定義される共有された社会知識と、より伝統的な分析的カテゴリとしての人種、性差、民族性、階級、文化とによって形成される社会的同一性との間における相互作用なのである。

(*)Monsonはそれを説明する理論として、ミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin、1895 - 1975)がドストエフスキーの文学作品を解読する際に用いた「内的対話」を例示する。バフチンが説く内的対話においては、意味は複合的に互いに変化させ、またさせられるのだが、その交換は、意味とその意味を正当化する文化的背景との関係の要求によって可能になる。意味はそのような交換を経て、互いの言説の歴史との関連において、物事が表現される時間的背景の上に構築される。特有の声として発せられる言葉は、一方では統一された中心へと向かい、他方ではそれから遠く離れた場所で理解される。言葉はそのような自己矛盾のうちに引き裂かれるが、その断裂から意味が再構築される。内的対話を支えるのは他者の声=演奏を聴くという行為であり、それが話者と他者との間に展開する、弁証法的定式を繰り返し立ち上げながら、対話を形成する。

参考文献
Doubleness and Jazz Improvisation: Irony, Parody, and Ethnomusicology: Ingrid Monson, Critical Inquiry, Vol. 20, No. 2 (Winter 1994), pp. 283-313
Saying Something: Jazz Improvisation and Interaction: Ingrid Monson, University of Chicago Press, 1997
ドストエフスキーの詩学:ミハイル・バフチン、望月哲男・鈴木淳一(訳)、ちくま学芸書房、1995

Ingrid MonsonSaying Somethingミハイル・バフチンドストエフスキーの詩学

Top