J・カラー、脱構築とフロイトの理論

精神分析それ自体は保守的な制度であり、フロイトの理論もそれに準じたものである。脱構築はその理論の中に階層秩序の逆転という、思考や行動を変貌させる力が秘められている点に着目する。フロイトの理論には、その実践を含むさまざまな制度や前提に対する批判を提供し、それを継続的に実行する力が秘められている。制度化とは、ある理論における最もラディカルな力による圧迫を意味している。その力は理論や言説が制度に疑問を投げかけ反省を迫る場面において、最も顕著に表面化する。それに対抗するのは、むしろ一風変わった理論であることが少なくなく、それが功を奏すると、不変を特殊で周縁的なものへと変貌させる契機をつくり出す。そのような意味において、フロイトの理論は諸々の対立を逆転し歪ませて、ある領域全体を変貌に導くという脱構築の戦略に符合する。

精神分析の保守性を引きづるフロイトの理論は、まず一連の階層秩序的な対立から開始する。したがって、あらゆるケースにおいて対立の第一項が充実したものとして優先され、第二項はその否定や混乱として保持される。第二項は不必要な変異形として第一項の周縁部に置かれるが、フロイトの理論はこの対立を自らの内に脱構築する。第二項を抑圧する欲望が本来目指していたものとは何なのか。それを露にするわけだが、そこで明証されるのは、第一項とは実際には第二項が表現するそれよりさらに根源的な何かが抑圧される過程で変形され生み出される特殊型だったという事実である。

フロイトは病的症状の実例の研究から精神の最も一般的な働きを発見するのだが、その研究においては、周縁的で変異的な項の理解が、先立つ項を理解するための条件になる。発見が示すのは、正気とは神経症の特殊な兆候であり、ある種の社会的要求と調和した一種の神経症にしか過ぎないということで、その事実は社会的にも広く認知されている。フロイトが行う神経症の研究では、このように不健全な適応を通じて健全な適応が示されるのだが、脱構築ではフロイト理論におけるそうした衝撃的な逆転の力を、中心と周縁との逆転の契機を模索する脱構築的な逆転の理論に並走する力であるとしてとりあげる。

デカルトをはじめとする人間主義の伝統においては、主体としての人間は(我とは思考し、知覚し、感覚するものとして)意識によって規程されてきた。フロイトは人間の生の中で果たしている力の中心を、無意識を要因とする構造とすり替えることで伝統を問い直し、意識の方を無意識的過程から派生したむしろ特殊なものだと規定した。無意識とは意識が決して到達できない領域であり、それは単なる抑圧された現実の経験の層や隠された現前性というようなものではない。無意識は一次抑圧において、抑圧されると同時に抑圧を加えもする。それは能動的な動きであり、抑圧によって構成されると同時に、積極的に抑圧を行い他を構成する。脱構築はそのような機能を受けて、無意識を根源とはなりえない根源として、その内に秘める差異化の中に差異の、差異の中に差異化の、非在の根源を見つめる差延の機能に着目する。

無意識の機能を見てゆくと、そこにはテクストに似た差異的な動きが発見される。人間主体においては何ひとつ単純なものはなく、思考も欲望もあらかじめ二重化され、分割されているのだが、同様に無意識そのものも単純な隠された現実などではなく、つねに複雑で差異的な様相を示している。無意識とは隠された虚像、潜在的な自己などではなく、そこに現前性は存在しない。無意識とは自らを差異化し遅延させる、差異の織物なのである。この遅延の効果はフロイトが例示する症例の中に端的に示されている。フロイトが例示する患者の症状の原因となる本来の場面は、それ自体が直接に外傷を与えることはなく、後に見た場面が原像を新たな場面へと変形するのだが、それが遅延の効果を説明する。記憶はそのような遅延の効果によってのみ、外傷となり抑圧されることになるのだが、その効果は起源となる出来事や原因の遡及性(過去に遡って現前させることはできない)、ひいてはそれらの非存在(それはどこにも存在しない)を示している。

無意識による差異化や遅延化は代理への委任を行うことからはじまるが、それを委任するのは自己でも、他のどこかに存在するものでもない。その点においてわれわれは意識を持つことが不可能になる。それが示すのは、現前を建前とする形式に寄り添う根源的な他者の存在、あるいは他者性であり、遅延が産み出す効果はそれを表象する。無意識に潜む他者性の中にわれわれが発見するものは、一連の変形された現在ではなく、これまで一度も現前しなかったし、これからも決して現前しないであろう過去であり、その未来はそれが生産するものでも、現前性というかたちをとって再生産するものでも決してない。そこで、純粋な生気に満ちたものだと思われていた現在のイメージは覆され、単なる再構成されたものとして、その体験は不可欠なものでも、充実した生きた絶対的なものでもないということが理解される。

フロイトの理論から導き出されるのは、遅延の効果の他への還元不可能性である。無意識とは意味と力の結合する純粋な差異の痕跡が織りなすテクストなのであり、それはすでに転写された古文書によって構成される、どこにも現前しないテクストなのである。それは同時に最初からすべてが複製で成り立つ根源としてのコピーであり、一度も現前したことのない意味を保管する、意味内容の現前性がつねに遅延によって事後的に、また補遺的に再構成されてゆくような意味の貯蔵庫なのである。

フロイトが彼の「快楽原則を越えて」の中で示した死の本能は、このような脱構築的な思惑の一例としてあげられる。快楽原則が死の本能に奉仕しているように見えるのは、そこに脱構築的逆転が潜んでいるからだ。生を積極的な項、死をその否定項として、生対死という二項対立が成り立つが、フロイトは無機的な状態へと向かう死の本能こそが、最も強力な生命の力であると訴えた。生とは生の終着点に対する遅延の連続にしか過ぎず、そこで死の本能が反復脅迫のかたちをとってあらわれる。死の本能は生の本能の活動を、反復と消耗という普遍的形式の中の特殊なケースへと置き換える。

注)執筆にはカラーの著書を参照しているが、文章の性格上、クオテーションは省略する。

参考文献
ディコンストラクション I、ディコンストラクション II:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985
On Deconstruction: Jonathan Culler, Cornell University Press, 1982

ジャック・デリダ

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