あやに愛しき、私小説とリアリズム映画

俳優で舞台演出家の宇野重吉は1950年代に五本の映画を監督しているが、そのうちの一本に新藤兼人が脚本を担当した「あやに愛しき (1956年)」という作品がある。上林暁(かんばやしあかつき、1902-1980)が1946年に発表した短篇、「聖ヨハネ病院にて」を原作とする現代劇で、戦後の混乱が未だ冷めやらぬ頃、妻の助けを借りながら売れない私小説家として生計を立てる文学者の姿を通じて、時代がもたらす貧困とともに、その貧困に依存する芸術を描くユニークな映画である。貧困は当時のリアリズム映画の根幹的な主題だが、映画はその厳しい現実を原動力とする私小説を芸術の典型としてとらえ、媒体独自の視点からその価値と真意を問い掛ける。信欣三が演じる主役の作家は、虚構を廃し虚飾のない現実の中に文学の真理を探求する。その現実がいかにきびしいものであろうとも、彼は妥協を許さない。

私小説作家の小早川武吉は、彼が信じる文学と引きかえに、耐乏の道を選択した。やがてこの貧困がもたらす過労は妻を精神病院へと追いやることになるのだが、彼には作品への妥協に応じる意志はない。虚構や創作を幻惑的な捏造であると断言する小早川にとって、文学の同一性は、自らが知り得る真実のなかにしか存在しない。文学と創作との関係は二次的なものにしか過ぎず、まず自らの真実のうえに構築されるものこそが、彼の信じる文学の姿なのである。虚構に身を任せるということは、真実にベールをかけ美化することに他ならず、彼はそうした文学的虚構に生活のすべてを賭けて立ち向かう。

小早川の言う真実。それは彼の文学の犠牲となり精神を病む妻の姿に他ならない。精神の淵に漂う彼女の姿から一人の人間が生き抜く生の真実を導き出そうと、小説家は彼女の現実を主題に据える。「皮を一枚一枚剥かれて、神経を削られて、血管が腫れ上がる」ような生活を強いられ、ついに限界を迎えた妻。普通の女である妻に同情しつつも、彼は文学の名のもとに、彼女の生活、彼女の哀れな姿を描き続ける。

胸中では彼の振る舞いに反省する小早川だが、もう一つの現実である作家としての限界、私事しか主題にできないという妻の指摘には、断固として動じることはない。妻は貧しい自らの家族のことしか書けない彼の力量を才能の無さとして非難するが、彼は私事への傾倒を創作の不得手によるものではなく、自らの存在の証を子孫へと受け渡すという重責によるものだとして肯定する。新鮮な感覚や語彙の欠如、感情の振幅の狭さといった弱点は、彼に言わせれば執筆の持続力を与える糧なのだ。

そのように自信に満ちる小早川だが、「泥んこの生活そのもの」と言う汚れた真実が、逆に真実としての純粋性を混濁させるのではないかという疑念が残る。また、「そこにあるものからさらに昇華したところに動いている内的実体」が変幻し出没するその瞬間を捕えることが文学の責務であるのだとすれば、彼の美学は文学の本質への接近を阻むものとなるはずだ。

とはいえ、小早川の信念が揺らぐことは全くない。彼の言う生活を描く行為とは、目の前にある現実をそのまま捕える行為なのではなく、生活の奥にあるものを人間の底部に光り輝くものとして、それへの接近を企てる崇高な行いだ。傍から見て彼の行為が事実の記録に過ぎないとしても、そこに人間の生の姿が存在する限り、行為は「そういう事実を生み出した私自信の実体の記録」として真をなす。「私」の真意やその思いへの信憑性と言った事柄には目もくれず、彼はとにかく作品を書き続けることで才能の限界やあらゆる疑念を押しのけ、自分が私小説に帰する原因を真理として追求する。生い立ち、教育、環境、そして思想を横目に見つつ、彼自身と彼の文学の内容の理由を確かめるために、今目の前にある彼の現実と向かい合う。それは困難な仕事だが、その克服こそが彼の文学に新たな生命を吹き込むと同時に妻への謝辞にもなるはずだと信じつつ、彼は今日も書きつづける。

映画、とりわけリアリズムのそれは、個の特質と天才を信奉し、ひたすら個の内面に真理を求め固有の宇宙を描き出すという十九世紀的な形式主義美学に対峙するのだが、本作においてはリアリストの意志が小早川の決断として、私小説という媒体の意味を通して語られる。本作は私小説という媒体をある社会的現実の表象として主題に据え付け、真理を追い求める私小説それ自体に潜む真理を映画的な視点から、両者共通のテーマとして鑑賞者に提示する。

文学と映画とは、主観による内的独白と物語における説話とを、時空を越えて表現するという意味において並列する。だがその構造は真逆の姿を呈するもので、文学が言葉が表象する観念や心理から読者に形態の模索を要求するのに対して、映画は逆にイメージが表象する形態から観念や心理の模索を鑑賞者に要求する。宇野はこの作品を通じて、文学の観念的で内向的な性質と、映画の直感的で外向的な性質という両者の違いを強調しつつ、リアリズム的手法を通じて芸術の本質を追求する。

この映画が制作された1950年代は映画における社会主義リアリズムの全盛期だったが、それは文字通り反ブルジョア的な芸術指向を内包する動きだった。当時活躍した映画評論家の岩崎昶(いわさき あきら、1903 - 1981)は、人間の内部に潜む闇の部分を本質に据える自然主義を標榜する十九世紀的な長編文学に相反する媒体として、人間の本質を今ここにある生の外皮に求め、そこに本質の姿を発見し、それを社会的な真理として表象するリアリズム映画を、現代芸術の典型であると位置づけた。そんなリアリズム映画の過程は多分に弁証法的であり、現状における真理をジンテーゼとして獲得する。

岩崎が示す図式において、本作品では妻の病という現実と小説家自身の葛藤とが弁証法的な過程を創出し、小説家自身とその家族の現実がリアリズム的な真理、つまりジンテーゼとして提示される。抽象、虚構、創造、物語を矮小化し、現実の根底のそのさらに底部を表象することで、現実そのままの姿を通じてその内部に横たわる真実を描き出すという社会的リアリズムの定理が、小早川が信じる私小説をリアリズム映画の目的と結合されている。

岩崎も指摘するように、社会主義リアリズムは体制迎合的な娯楽性に準じるものではなく、むしろ逆にそれを排除することで大衆の堕化を防ごうと試みる一種のイデオロギー的媒体である。小早川が虚構を拒否するのはそれが大衆迎合的な目論見を持つからで、そのような場所に真実を据え付けるのは困難だと直感するからだ。虚構の美学が行き着く先は、階層化や貧困を背後から促すツールでしかないのだという、その真実をリアリズムは非難した。文学は一方では作品の映画化や作家の脚本執筆を通じて、また他方ではより深く心理を探求する新たな長編小説を創作することで、このようなリアリズムに対応した。

近代以降の日本的な美学は自虐的な感覚を糧として、かつて自然主義が標榜したような心の闇に真理を求めてきた。対して次世代の芸術には、最終的には封建主義を導くそのような希求を振り切る新たな美学の提示が求められたのだが、それに程よく対応したのが戦後のリアリズム芸術だった。とりわけ総合芸術としての映画は、真理をジンテーゼとして視覚的に効率よく表現することで、堕化を避けつつ大衆にもアピールできる芸術の創作に貢献した。本作品、「あやに愛しき」は、小説と映画という相互補完的な芸術をリアリズムという概念のもとに統合し、両者の特徴を介して戦後という時代の価値と真理を表象する。それが描くのは、日本的な精神の内部に存在する退廃的かつ封建的な意識であると同時に、それに対立し葛藤する芸術の試みの寓意なのではないだろうか。

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