ドゥルーズ、ベルクソンの記憶と芸術

記憶

ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)は運動それ自体の土台となる固定したモノの存在を否定する。運動とは物質的な動くモノではなく、動きそのものなのだとベルクソンは解釈する。身体は環境の中に位置するが、環境とはモノが集積する特権的な中心を持たない場所である。運動は身体を中心に作用し、身体は運動により他との交信が可能になる。そのような動きそのものとしての運動による交信は知覚によって行われるが、その知覚に宿るのが記憶である。ベルクソンにとって知覚とは記憶であり、その中に思い出を伴う持続である。したがってモノは空間だけではなく、時間にも絶えず関与する。

ジル・ドゥルーズ(1925 - 1995)は、そのような記憶を「思い出としての記憶」と「収縮としての記憶」として、ベルクソンを考察する。前者は現在と過去との深い断絶、知覚と思い出との間の性質の差異であり、後者は現在と過去とを統合し未来へと開かれる時間存在だ。それは、科学に基づく量的な差異は、知覚においては質的な差異として現れる働きなのだということを意味している。ベルクソンが述べる持続とは真の時間であり、そこでは過去と現在の質的差異や深刻な亀裂が示される一方、相互の交感と亀裂を越える力が示さる。そのような記憶は実際には不可視であり、普段は見えない差異として現れる現実の、存在根拠になっている。今知覚される感性的性質の差異の根元で働いているのが記憶であり、記憶は過去からも現在からも、差異を存在させるものとして常に要求され、モノの時間の交信に関与する。

芸術

ベルクソンは、持続としての記憶が抱かえる時間的な観点から芸術を定義する。現実とは差異そのものであり、それを見ることは不可能だ。しかしその存在は記憶によって示される。今知覚されている感性的性質の差異の足元では、常に記憶が働いている。したがって記憶は過去からも現在からも、差異を存在させるもの、モノの時間に関与するものとして、常に要求されている。

現実にかけられた覆いを剥ぎ取るのが芸術の役割なのだと仮定すると、芸術による隠蔽からの解放は、知覚の拡張だと言い換えることができる。そのような拡張が可能なのは、知覚に連接する物質世界が未定な要素から成るもので、動きそれ自体によって構成されているからだ。運動とは物質的なモノが動くということではなく、動きそのもののことである。そのような前提において、運動と時間とは離れることなく動き絡み合いながら差異を生みだす多様体として、持続をつくり出してゆく。そこで、持続は新たなものの源泉として、創造性そのものであると解釈される。したがって芸術とは予見不能性へと開かれたもの、そして創造性とは予知できないものだと定義することができる。

時間論的な考察において、予知できないものは、未来へと帰結する。ベルクソンは未来を「予見不能な無」と定義するが、予見できる現在の延長でも過去の投影でもないそれは、まさしく芸術の創作過程に類似する。芸術作品を、知性の働きを介し物質へと昇華されるモノだとするならば、細かな記憶しか持たず、新たに何かを加えるわけでもなく現状をただ反復するという予見不能な物質と、すべてを既知なものとして予見可能なモノとする知性との間に生じる緊張感関係によって生み出されるのが、芸術だということになる。

参考文献
ベルクソンの哲学:ジル・ドゥルーズ、宇波彰(訳)、法政大学出版局、1974

ベルクソンの哲学ベルクソン

Top