ヴォリンガー、抽象と感情移入

ウィルヘルム・ヴォリンガー(Wilhelm Worringer、1881-1965)の「抽象と感情移入」は、それが出版された1908年前後のドイツ表現主義や、当時の西洋社会に認知されはじめた未開芸術の新たな解釈を試みた芸術論である。本論は二十世紀のモダニズム芸術が本格的に動き始めた頃、その将来が先鋭的な芸術運動として嘱望されていた時代の論説として、抽象的表現の動機としての恐怖感や抑圧のモデルを通じ、具象、抽象を問わず、新たな作品とそれから派生してゆく作品のひとつの真理を暗示する。以下はその名をヴォリンゲルと記す古い和訳から、いくつかの部分を参照し簡単にまとめたものである。ここではクオテーションは省略する。

ヴォリンガーは芸術の歴史をギリシャ、ローマからルネサンスへと進む西欧の伝統、外界の科学的な観察によって統合される芸術的技能の歴史としてではなく、美的享受を客観化された自己享受だと規定するアロイス・リーグル(Alois Riegl、1858 - 1905)が指摘する、芸術意欲の歴史としてとらえ直そうとした。未開のものとして退けられてきたアフリカやアジアの作品が、多大な影響を及ぼすようになった今、もはや感情移入(Empathy)という主観的方法だけで、芸術を説明するには無理がある。

20世紀初頭のヨーロッパは不安と不確実性が支配する時代だった。そのような環境にも影響されながら、芸術家は人間の予期不能な状態から抽象的な対象を探求し、それを絶対的な超越した形態へと変化させるという試みを重ねていた。フランスではフォーヴィスムが、ドイツではブリュッケが生まれ、ヨーロッパの芸術はその拠り所を、野性的で抽象的な未開の芸術に求めるようになる。

ヴォリンガーはそのような同時代の芸術を読み取る指標として、各時代における形態への意欲が、不安や恐怖をかきたてる人間を取り巻く世界にどのように反映するのかを、リーグルの芸術意欲に加え、基礎的な心理学にも頼りながら考察する。結果的にこの考察は、芸術を絶えざる不安を克服するための方法であると規定しつつ、恒久的な美学的形態を創造し、矯正することで達成される衝動を、抽象衝動として提起させることになる。感情移入の要求が常に有機的なものへと向かうのとは逆に、芸術は自然からは独立したものなので、抽象衝動では無機的な形態へと進行する。

抽象衝動を起こさせる心理的な前提は、諸民族が有する世界感情の内部にあり、それは彼らの宇宙に対する心理的な態度によく反映されている。諸民族とは原始民族に始まり、それから多少の進化を遂げた東方民族を意味しているが、一方、文化的段階にあるとされる、ギリシャに始まる西洋民族においては、すでに抽象的な衝動は克服されており、西洋民族は感情移入衝動によって支配されている。感情移入衝動で説明される高次の文化的段階における人間は、外界の現象と親和関係にあり、汎神論的で親和的な宗教観を持つ状態にある。反対に、抽象衝動で説明される原初的な文化的段階では、人間は未だに外界の現象に脅かされており、それがもとで内的不安が惹起されているような状態にあり、宗教的には超越的な強い観念に支配されている。

抽象衝動が起きるような状態とは、ある種の異常な精神的な空間的恐怖にさいなまれた状態で、そこで生まれる不安の感情が芸術的創造の源泉となる。人間は外界の現象相互間の関係を観察するとき、その不明瞭な状態や恣意性、あるいは現象の変化に富んだ状態だけを感知する。そして、そのような不明瞭で理解不能なものを取り除き、そこに必然性と合法則性の価値を見つけ出そうとするのだが、それは自然の内部にそのような価値を求めようとする心理が働くからではなく、むしろそれとは反対に、外界の只中に放逐されることで途方に暮れ、精神的な無力に陥るからである。自己の精神的な認識力によって外界の現象と親しくなり、それと親和関係を結ぶような機会が少なければ少ないほど、最高の抽象美が一層強く求められるようになる。

原始的な思考との因果関係によって引き起こされる抽象衝動が生み出す芸術を、最も純粋で合法則的な芸術だとヴォリンガーは規定するが、それは無機的な芸術として現れる。感情移入の要求は常に有機的な形態へと向かうが、反対に抽象衝動によるそれは、無機的な形態へと進行する。純粋な抽象は自然の原型には依存しない。自然を原型とする芸術的再現を強要するのは、模倣への願望である。抽象衝動は古代の文化民族の芸術意欲の基礎として、外界に存在する個々の表象を、他の様々な物との結合関係や依存関係から解き放ち、生成の過程から離脱させて絶対化する。

それら二つの衝動は、享受や自我という観点から見ても、互いに相反するものである。感情移入衝動を基礎とする美的経験=美的享受とは、客観化された自己享受である。感情移入衝動を美的経験の出発点とすると、そこでは自己破棄の衝動が示されることになるので、自我はその美点や芸術作品が放つ幸福感を減殺するものとして、否定的にとらえられる。一方、抽象衝動を基礎とする美的経験においても自己の放棄が求められるのだが、それは個人的存在を否定するためにではなく、衝動の必然性を満たすために放棄される。その理由は、抽象衝動では対象を確固とした不動なものにすることで、人間存在一般における偶然的なもの、とりわけ一般的な有機的存在にあらわれる恣意的なものを放棄しようという衝動が強く働くからであり、その衝動は、生命そのものが美的享受の妨げであるとする思考へと行き着くからである。そこで芸術作品は、自己の生命を自我のみから得ることになり、自我との緊密な結合が図られる。

平面化

抽象衝動を引き受ける個々の芸術作品においては、作品の平面化が最低限必要な条件になる。ヴォリンガーは抽象衝動に興じる作品を、平面へと収束させているが、すでに古代の造形芸術においては、対象を質量的現象として、空間的にではなく、平面的に確立することに主眼が置かれていた。

芸術意欲の結果としてまずあらわれるのが、空間的描写の抑制による描写の平面化である。単一の形態を平面の中に再現する行為とは、完結した質量のある物体の三次元的性質の把握には相反する行為である。したがって、そのような状況で立体的空間を把握するには、それに連なる悟性や習慣の強い援助が必要になるが、結局そのような援助は客観性に主観性を呼び込むことで、純粋性を損なう結果を導いてしまう。

古代の文化民族はそのような状況を悟り、純粋性を保つために平面化を推し進めた。彫刻の場合においても、立体から煩わしい要素を取り除くことが第一の課題となり、立体でありながらも、そこに平面感を与えることが、芸術的形式を獲得した証であると考えられた。立体における煩わしい要素とは、不明瞭で変化の多い外界の事物に接する時に人間を支配する、困惑や不安の痕跡のことである。不安と不確実性は、あらゆる芸術的創作の出発点であり、また、抽象衝動を引き起こすための最後の想起である。

平面化を達成するためには、質量のある個体をできるだけ客観的に表現する作業が要求される。その作業を通じて、個体の質料や存在感を否定する空間の再現をでき得る限り回避する。空間においては諸々の個体が結合され、各個体の個別的な完結性が失われる。空間はモノに曖昧な時間的価値を与え、万有的な現象の中へとそれを引きずり込んで束縛する。

空間はモノの個別化を妨げるので、あらゆる抽象への努力においては、それを排除する必要がある。何かを描く場合には、空間を抑制するために、いかなる第三次的延長(奥行)を規制しなければならず、したがって描画は高さと幅への延長だけに制限される。奥行きを表現する手段としての線の省略や陰影による効果は、描写が平面へと向かうことで、それによる輪郭や陰影による対象の満足した表現が不可能になる。深さの関係をできるだけ平面の関係へと置き換えることによってのみ、質量的な個体の形象を維持することが可能になる。

平面化への取り組みから理解できるのは、自然の原型を質量ある個体として知覚するだけではなくそれを再現する、芸術意欲の真意である。純粋に視覚的な過程は、散漫だが確実な知覚要素の時間的継時と表現される。そして、その過程が示す知覚要素の複合体によって、表象の全体像が獲得される。完結した表象全体の再生産によってのみ、人間は自身だけでは知ることのできない、物質の絶対的な質量的個体性に最も近い代償物を見つけ出すことができるのである。

参考文献
抽象と感情移入 - 東洋芸術と西洋芸術:ヴォリンゲル、草薙正夫(訳)、岩波文庫、昭和28年

抽象と感情移入ヴォリンガーリーグルグリーンバーグ

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