他者に関して

人間はどのようにして自己同一性(アイデンティティ)を確立してゆくのだろうか。その第一段階としてよく指摘されるのが、ジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901 - 1981)が1936年に提唱した「鏡像段階」である。人間は当初、限定された視覚の中に自身を断片的に見ているが、やがて鏡に映る自分や他人の姿の中に統一した自身を発見する。生後6ヶ月から18ヶ月の間に味わうその体験を起点にして、幼児は対象への思考を開始し、自我への意識を芽生えさせ、言語を取得する。言語を取得することで世界は象徴的次元へと移ってゆくが、差異に覆われるこの世界においては、自己の同一化さえもが「他者」との差異を起点とする。ちなみに、ラカンは構造主義を下地にした精神分析で著名な学者である。

「私は他人の存在なしでは生きられない」とはよく聞く言葉だが、それは奇しくもフロイトが指摘する他者の実存と合致する。フロイトは他者をまず欲望との関わりから考察する。彼の考えでは、わたくしの欲望とは対象へと直接的に進むものでは決してなく、必ず他者を経由する。そこで、わたくしの欲望は他者の欲望、他者の欲望の模倣にしか過ぎないのだと示唆される。わたくしは無意識のうちに他者の欲望を模倣し、他者に従属するのだが、それが唯一のわたくしを主体として実存させる方法なのであり、その点において、実存における他者の重要性が際立ってくる。

両者の存在は関係の中で希釈化し無化されてゆくが、そこには無化に対抗し続けるわたくしの姿があり、その姿の中にこそ、わたくしの実存が発見される。フロイトはそれを拡張し、わたくしの他者への組み込みを、他者と共に言語や文化を共有する、つまり他者が自ら確定する象徴的領域に接近する契機であると指摘する。

フロイトの他者=欲望の図式はラカンの鏡像段階と同様に広く知られるものだが、ドゥラカンパーニュ(Christian Delacampagne、1949 - 2007)は、フロイトのアイデアの源流をヘーゲルの中に発見する。ヘーゲルは意識を精神が共に知る能力だと規定するが、その能力とは言語を通じて行われるコミュニケーションとしての内的対話を維持する力のことである。その力には外的他者の現前が含まれており、外的他者に別の意識が定義されることで、それが連鎖的に外部へと拡散し、言語や文化、ひいては国家という到達点へと達してゆく。

そのように、形而上学においても他者は常に登場してきたが、それが独立した問題として幅広く論じられるようになった今、他者の問題に関してある種の方向性を与えてくれるのが、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906 - 1995)の思想である。彼が掲げる他者の概念は多少の難解さを伴うが、その神学的とも言える語りは示唆に富んでいる。

レヴィナスは他者をわたくしに同化することのない他者、指向性によって対象化、概念化されることのない絶対的な他者として規定する。他者とはわたくしの想像が及ばない、視覚を越えた存在であり、目によって存在が確かめられるものではない。そのような物質を越えた現象である他者を、レヴィナスは「ヴィザージュ(visage)」=顔(顔貌)と呼ぶ。「顔」と表現される他者とわたくしとの間にはアプリオリな前提は存在せず、両者はその場で対面し問い掛けるのだが、物質を越えた現象との交わりとは、まさに超越した語りそのものでしかない。わたくしにとって「顔」とは未知の理解を越えたモノであり、有限から解き放たれた「無限」であると考えられる。認識すら不可能な無限との差異は絶対的で、あらゆる問いかけにおいて、すでに共通の基盤は失われている。わたくしと他者の間に横たわるのは意味作用だけなのだとすると、わたくしにはただ無限の彼方から響きわたる他者からの語りかけに耳を傾けるしか術がない。

フロイトとヘーゲルの関係を指摘したドゥラカンパーニュだが、彼も他者に関して独自の概念を展開する。彼は他者を二つの相反する経験を通じてわたくしに与えられる、両義的な存在であると定義する。両義的な他者とは、わたくしを自己破壊へと導くような、情念的な関係を構築する鏡面反射的な他者と、そうした鏡の戯れから逃れさせてくれるような第三者として、法の番人のようにその外部に存在する他者という、ふたつの他者を擁する他者のことである。他者がこのように両義性を帯びるのは、わたくし=自己の両義性に対応するからであり、したがって、わたくしには主体の凋落からの救済が見込まれるのである。

ドゥラカンパーニュによると、そのような他者の両義性が最も顕著に現れるのが芸術だ。芸術において、凋落へと突き進む主体を、同時に奈落から引き上げ救済するという他者の両義性が、最も顕著にあらわれる。芸術は表現に対する衝動とそれを抑える法則とが同居することによって成し遂げられる。それが可能になるのは、ふたつの他者が一体化することで芸術を善悪の彼岸にとどまらせ、主体に自己の同一性の回復をもたらしているからに他ならない。芸術がどのような感覚に身を委ねようとも、他者の両義性が、死の淵からの生還を可能にする。

注)執筆にあたり、「現代フランス哲学12講、浜名優美その他訳、青土社、1986」及び、筆者のノートを参照した。個々の出典は省略する。

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