キルケゴール、単独者の時間感覚

キルケゴール(Søren Kierkegaard、1813 - 1855)は彼が住む西欧社会を、優柔不断な大衆によって支配され、その大衆が率先して行う平準化が進行する、消極的で欺瞞に満ちた世界であると認識していた。分別と反省、差異の水平化に覆われた社会。キルケゴールはそのような社会に深く絶望し、ひとりキリスト教的殉教者として単独者への道を志した。単独者とはある種の場所としても機能する超現世的意思のことで、それを契機に世界の生起全体が還元される。単独者は超越者として自己を歴史的に理解し、自己を時代と共にある者として、歴史的意思の抹消を画策する。そのような単独者の超現世的意思を支えるのが、彼独自の時間感覚だ。

時間感覚は全体的な時間の考察を通じて、彼を取り巻く時間がそれへと浸透してゆく有様を考察することで確認される。単独者は時間を永遠の中へと浸透してゆくものだと前提するので、永遠性=永遠的なものを、世界を計る尺度にする。単独者は時間を考察する際に、まず永遠的なものと時間的なものとを互いに相反するものだとして切り離し、次に両者を再び結合することで、理想とする時間の姿を描き出す。

切断と再結合の過程において、時間のあらゆる時点とその総和は、単なる通過点であると規定され、時間の現在、過去、未来といった区分は否定される。どの時点も、時点の総和も、それらはみな等しく通過し、過ぎ去ってゆく一瞬の時にしか過ぎない。したがって、そこには現在性が見出せないので、時間はこうした区分けが不可能な、動く進行として理解される。時間は無限の連続として連なるものであり、そこに何らかの視点を持たせることができない以上、時間は無意味な無限の連続体だと解釈される。

対して、永遠的なものには動きが伴わないので、その進行は現在的だ。永遠的なものも同様に時制の区別を持たないので、時間的に推量することは不可能だが、内容豊かな表象がそれを保守する。永遠的なものの動きの無さは、それを止揚された連続として留まったまま定立させる。そこで、永遠的なものは同時に現在的なもの、連続性を失った連続だとする解釈が可能になる。時間的なものと永遠的なものとは相反するが、両者の谷間に瞬間(Augenblick)という概念を配置することで、結合の道が模索され、それを通じて時間は充実を取り戻す。

瞬間とは、単なる過去の断片とは異なるものだ。瞬間は時間を規定してしまうので、現在的なものにはなり得ない。また、瞬間を時間の内部に発見しようとしても、そこに映る時間や永遠は抽象的なものにしか過ぎないので、それらの真の姿を通じて瞬間を確認することは不可能だ。だが今問われている瞬間とは、そのような萎縮した瞬間ではなく、両義的な存在として時間に充実をもたらし、その中に時間と永遠とを結合させる、そんな開かれた瞬間である。そこでは時間と永遠との間で互いの遮断と浸透が繰り返され、その繰り返しが時間性の概念を定立させ、過去、現在、未来という時間の区分を実現する。そのような瞬間を媒体として、時間に時間的なものと永遠的なものを据え付けることで、時間は区分され永遠へと浸透する。時間は過去から現在そして未来へと続く流れのうちに置き換えられて、無意味な無限の連続体から脱却し、その充実を獲得する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977
死に至る病:キェルケゴール、斎藤信治(訳)、岩波文庫、1957

キルケゴール、ブルクハルト(単行本文庫

Top