ハプニング

現在では一般的となったパフォーマンスアートだが、それが美術の世界に登場しはじめたのは1950年代末であり、当時それはハプニングと呼ばれていた。ハプニングは、1950年代にロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg、1925 - 2008)を中心に盛んに制作されていたアセンブラージュが、画家であったアラン・カプロー(Allan Kaprow、1927 - 2006)によって再解釈され、キャンバスが舞台に、画面に塗られた色や貼り付けられたオブジェが道具へと置き換えられ、動く絵画のような趣きで上演されはじめたのがその起原だといわれている。

ハプニングは生活と芸術との間に横たわる境界線の撤去を念頭に、当時の社会運動とも連携しながら、従来の演劇の枠を越え、ギャラリーや街頭でも盛んに演じられた実験的な試みである。ハプニングは一般にコラージュ的な構成を持ち、視覚的要素に加え、聴覚や嗅覚にも訴えかけ、混沌とした環境の中で、奇抜なアクションを展開する。台本(マスターとしての作者の意向)に基づく、現実を誇張したストーリーをベースに、それを際立たせる演技を通じて観衆に働きかける従来の演劇とは異なり、ハプニングの多くは複合的な環境の中で、単純な筋書きにしがって淡々と演じられてゆく。

ハプニングには、演劇には定番のクライマックスといえる部分が存在しない。何らかのストーリーが完結して終わるわけではなく、上演時間が定められていないこともある。とはいえ、ハプニングは即興劇とは距離を置き、周到な準備の上に演じられる。舞台台本、テクストという中心を否定するハプニングにはプロットがなく、同じ語句が反復される等、夢の構造に似た部分があり、それが観衆の時間的感覚を喚起する。ハプニングは役者ではなく、それを立案した芸術家自身によって演じられる。パフォーマンスとしてその場で消費されるハプニングには、絵画のような商品価値が存在しないが、そのような芸術からの物神的性格の排除も、ハプニングの目的のひとつである。

ハプニングは、それを創造する芸術家自身によって演じられてはいるものの、その主役はむしろそこで使われる舞台道具なのであり、芸術家は演技を通じてその舞台道具の一部になる。諸々のセット、プロップ、コスチュームはヒエラルキーを介することなく、単なる道具として舞台上に散りばめられているが、そのカオス的で乱雑な舞台環境は、美術作品を収蔵し展示する場としての美術館が持つ均整とは対極をなすものだ。

以上は一部スーザン・ソンタグ(Susan Sontag、1933 - 2004)の論文を参照しながら、ハプニングの概要をまとめたものである。彼女はハプニングを実際に観た体験をもとに、それをシュールレアリズムやアントナン・アルトー(Antonin Artaud、1896 - 1948)の「残酷劇」と比較し、両者の類似点を指摘する。ソンタグはハプニングをコラージュと見立て、そこに息衝くシュールレアリズム的感覚、狂気、コメディー、笑いといった表現の中に、その本質を発見する。

ハプニングの舞台には道具としてガラクタが積み上げられているが、そこでは役者も道具と化してシュールレアリズム的な意味生産に協力する。それは異なる対象を並置しコラージュすることで、その衝突の中から新たな意味を引き出そうとするのだが、それが最後に描き出すのは感情の最後の拠り所とされる恐怖感に他ならない。シュールレアリストの描く恐怖とは、現実のパロディーとしてのコメディーが持つ笑いの中にある恐怖、人が最悪の事態に直面したときに示す笑いに似たものであり、シュールレアリスト的コラージュとは、コメディーの本質である関連性の無さに酷似する。

アルトーは、劇場を生活と同次元に存在するものだと規定するが、彼は同時に劇場を非人間的で残酷な場であると位置づけ、そこに立ち上がる夢を、暴力、狂気、悪夢を表象するものとして、ファンタジーから切り離す。ハプニングにおいては人間が非人格的な扱いを受ける一方、言葉は形骸化され、奇観やノイズが強調される。乱雑なステージで繰り広げられるパフォーマンスは、様々なかたちで観衆を攻撃し、笑いを誘い、パフォーマンスと一体化させることで、彼等をスケープゴートへと転落させる。現実を生きる観衆の確信は打ち砕かれ、無味乾燥な機械的な状態となり、諸関係との断絶が示唆される中、彼等は改めて現代の意味を理解する。

参考文献
"Happenings: An art of radical juxtaposition" in Against Interpretation: Susan Sontag, Vintage, 1967

ソンタグアルトーAgainst Interpretation

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