アドルノの大衆音楽、文化論

芸術音楽においては、その歴史的形式と音楽内容との間に、弁証法的関係が成り立っている。また全体は、それを形成する各部の連関によって構成され、内容は全体から細部へと流れてゆく。一方、大衆(ポピュラー)音楽に、そのような弁証法的関係は存在しない。あらかじめ決められた形式の中で編曲作業を繰り返しながら、単純化されたメロディーによって聴衆を誘惑する。大衆音楽は概して飽きやすく、単純なパターン化された音楽である。だが、寄せ集めとして作られた部品の各部を入れ替えたり、そこに陳腐な仕掛けを加えたりといった擬似個性化を図ることで、問題を回避する。

聴衆の音楽に対する努力や集中力を阻害するのが大衆音楽の効果、目的であるが、それは同時に聴衆に無個性な機械的労働に対する免疫力を植えつけるのにも役立っている。大衆音楽は退屈で過酷な機械的労働を、ひと時でも忘れさせるための気晴らしとして存在するかのようにみえるが、その仕組みはまさに機械的労働の過程そのものである。そのような二重性がそれと気付かぬうちに聴衆の変革意思を萎えさせ、単に欲望するだけの擬似主体となることへの暗黙の了解を打ち立てる。大衆音楽の図式の中で、個人は社会へと働きかける意欲を失いながらも、挫折することなく、ただ生きながらえてゆく。欲望の循環という環の中で、産業のニーズとしての自身の存在を快楽のうちに確認しながら、ただ粛々と日々を過ごす。

大衆音楽はその魔力を減じないよう内に秘める仕掛けを隠蔽し、商品的性格を美的性格に対して常に優位に保つ必要がある。そこで、音楽の物神崇拝を巧みに利用した宣伝やショーアップが用いられる。音楽における物神性とは、その交換価値が使用価値に取って変わられることを意味している。聴衆は音楽の所有という錯覚と引き換えに、音楽の意味内容を忘却し、企業の利益欲求を自ら後押しする。聴衆はあらゆる意味において、単に企業のニーズとしてのみ存在し、それに呼応するために、聴衆自らが個人の内面性や価値といったものを無力化し、人生に、また社会に対する欲望や価値感を、気付かぬうちに捨て去ってしまう。

アドルノの大衆音楽論が強調するのは、彼が音楽の物心崇拝の裏側として位置づける、聴取能力の退行である。聴取能力の退行は、大衆音楽の受容による人々の現状の運命に対する肯定の強化に結び付いている。大衆音楽は様々な手札を用いて聴衆に生じる複雑な思考を阻害し、聴取方法までも規格化することで、聴衆の自律的思考を阻害する。聴取が退行する中で、聴衆は単にその生産者の都合で操作され、個としての自立性を失ないながら、社会集団へのさらなる帰属意識に目覚め、その確認作業に没頭する。

交換価値の世界を表現する物質的現実世界の受容を否定することで、世界を健全なものへと組み替えるのが、文化の担う役割だと言われている。しかし文化が理想とする自由で公正な交換とは実際には虚偽であり、見せかけにしか過ぎない。文化を通じて幸福の実現をもたらそうとしても、社会の物質的諸条件への依存が、その実現を阻害する。

精神的労働にたとえられる高級文化と、肉体的労働にたとえられる物質的生活様式に依存する大衆文化は、たえず分裂を繰り返す緊張関係の中にある。その関係において、大衆が単に一見難解な高級文化を否定し、安易に与えられる大衆文化に傾倒するだけでは、階位関係を解消し克服することはできない。否定は徒労に終わり、その上、高級文化の内部に潜む開放的勢力の実現をも阻害する。

アドルノは大衆音楽の典型として、現代社会における生存の苦痛の表現の極みとして、ジャズを例にとる。ジャズを典型とする大衆音楽は、高級文化の内部に潜む革命的要素の実現を阻み、まやかしの革命によって、大衆を暗黙のうちに卑下し続ける。彼は音楽におけるサドマゾ的性格を強調するが、それは大衆音楽に留まらず、芸術音楽の中にも存在するもので、一例としてストラヴィンスキーの音楽が示される。

アドルノは現代社会における絶望的な状況の中、シェーンベルク等の音楽に代表される自律的芸術に一抹の望みを託す。だが、彼の自律的芸術の擁護には、アヴァンギャルド芸術に対する冷やかな姿勢が見え隠れする。

アヴァンギャルド芸術は、芸術の自律性とそのイデオロギーへの批判として、芸術と生活の融合、高級芸術の大衆芸術への接近を企てた。だが、結局その目論み自体が自らを解体へと導くことになり、ひいては社会にもたらされるその影響が、反動としてファシズムを生みだし、それを助長した。アヴァンギャルドの挫折は、理性や文化に対する新たな疑念を投げかけ、産業へと堕落した文化の暴力的な実態を暴露する。文化とは普遍的なものだが、それは特殊としての人間や自然に対して同一性を強要し抑圧することで成り立つ普遍である。文化とは決して公正なものでも、解放を約束するものでもない。その実践とは主体を弱体化し、特殊や多様性を剥奪する野蛮にしか過ぎない。一見その文化が尊厳に満ち溢れたものであればあるほど、そこには非同一性に対するより強力な抑圧の芽が隠されている。

芸術は文化の一部として、そのような性格を直接的に引き継いでいる。芸術もやはり野蛮な抑圧なのであり、その戦略には同一性の強要が絶えず見え隠れする。芸術は既存の支配に抵抗を企てるが、非同一のみならず自己の内部にある自然に対してまで抑圧的で、社会的矛盾を告発するというその動機の礎である内部的な自然的欲求を、現実との断絶による苦難の忘却とすり替えてしまう。

アドルノはそのような見方から、芸術、とりわけ生活との融合を目論むアヴァンギャルド芸術に見切りをつけ、それが対峙しようとした自律的芸術、彼らのいう非現実的で欺瞞にみちた自己完結的な芸術に一抹の望みを托す。アドルノは制作の立場から芸術をとらえることで、芸術に悪をもたらす現実的な社会との関係を切り離すと同時に文化の批判へと切り込むことで、文化の否定的側面を効果的に利用しながら、自律的芸術の両義性を強調する。文化や芸術は現実の悲惨を美によって覆い隠そうとする虚偽的な目論みによって成り立っている。その虚偽の存在は事実を比喩的に表現するが、それに加えて、現実と虚構との対比が悲惨を超越し得るという、ある種の真理が予見されている。

注)本文はアドルノ(Theodor W. Adorno、1903 - 1969)の大衆音楽論を、アドルノ自身と他の著者による書籍を参照し、簡単にまとめたものである。クオテーションは省略した。

参考文献
"On the fetish character in music and the regression of listening" in The Culture Industory: Selecten Essay on Mass Culture: Theodor W. Adorno, Routledge, 1991
プリズメン:テオドール W. アドルノ、渡辺祐邦・三原音平(訳)、ちくま学芸文庫、1996
アドルノ:マーティン・ジェイ、木田元・村岡晋一(訳)、平凡社、1992

アドルノプリズメンアドルノ(マーティン・ジェイ)

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