アンドリュー・ベンジャミン、グリーンバーグの抽象絵画論

美術作品には一定の分析能力が備えられており、個々の作品は社会の一断面を表象し、それを批判するツールとしての役割を担っている。現代美術は大衆芸術を取り込み、媒体を拡張させ、その能力と役割を拡大したが、そのような展開に対する危機感をあらわにする批評家も存在する。クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg、1909 - 1994)もそのひとりで、彼は芸術のポピュリズムを頑なに否定し、独自の形式主義的な抽象絵画論を発展させた。彼の論文は二十世紀の抽象美術、とりわけ抽象表現主義絵画を語るときの欠かせない資料として、各所で引用され、解説されているが、ここではその中から、哲学者、美術史家として活動するアンドリュー・ベンジャミン(Andrew Benjamin、1952-)の著書に記された、グリーンバーグの理論の概要を訳出し、まとめてみた。翻訳は直訳ではなく、読みやすいように編集、要約した。また、文章に付加されている副題は、筆者が任意に記したものである。

はじまりと精神

グリーンバーグの本格的な芸術論は1939年に発表された「アヴァンギャルドとキッチュ(Avant Garde and Kitsch)」から始まった。当時欧州ではファシズムが台頭し、ユダヤ人が公然と排斥されていたが、本論にはそれが支持する芸術形式の進入に対する危機感が如実にあらわれている。ファシズムが支配する社会における芸術の状況を念頭に語る論文で、芸術の継続性と、それを維持するための形式の提示を主題とし、ファシズムと大衆の関係から、芸術のありかたが議論されている。

ファシズムは集団として機能するが、それを構成する集団や大衆は未熟であり、ファシズム自体を自ら調停する能力や役割を保持していない。したがって、ファシズムそれ自体は、その成長段階において徐々に大衆との接点を失ってゆく。本論では、そうした未熟な集団による芸術の占拠の可能性を念頭に、ファシスト的作品との対比の中から、グリーンバーグが守ろうとする芸術(高等芸術=ハイアート)の姿が論じられる。本論では、そうした集団による芸術の占拠、ファシストの侵食への抵抗として構築される場としての芸術を、いかにして延命させるかに主眼が置かれている。

全体主義は芸術が活動する場を占拠し、芸術はその占拠に対する抵抗を続けようとする。全体主義が攻撃のデバイスとして用いるのが、論文の表題にあるキッチュである。とはいえ、本論でグリーンバーグが描こうとしているのは、アヴァンギャルドとしての高等芸術と、キッチュとしての大衆芸術との拮抗ではない。彼の論文の趣旨は、芸術のポピュリズムによる政治的脅威からの救済と、その戦略の探求である。実際、キッチュに対する攻撃の必要性、また芸術が持続可能になる場を維持するための必要性も、共にどのようにファシズムに対抗するのかを決断するための問題の一部にしかすぎない。

グリーンバーグは、美的価値とつながり合う作品の完全性に、その価値を求めようとする。彼の言う価値とは、精神性や超自然などに依存しない完全性であり、芸術のための芸術として、その発展性の中にこそ見出すことができる価値である。彼が想定するそのような価値を有するモダニズム的作品とは、その内部でそれ自身を信任し自ら肯定する、自己完結的で自律的な作品である。自律的な作品は、自らの内部で自ら解釈し、その完全性を自ら追求する。彼はモダニティー(現代性)を歴史的な芸術活動(実践)と並置するが、その並置が絵画の歴史を実践との関連から解釈する事を可能にした。

歴史と同時性

グリーンバーグは抽象を趣味の段階で肯定も否定もしないが、それは彼が抽象の必然的な進化が、歴史の力によって裏書されているものだと信じているからだ。抽象は常に美術史の内部において、今ここで体験されている状態、美術体験の内部へと引き込まれてゆく感覚を味わう中で、その転換点が告げられる。そのようにして抽象は、歴史の中でアヴァンギャルドとして語られる。だが実際にはアヴァンギャルドと呼ばれる美術作品には様々な形式の作品が含まれているはずで、また当然すべての絵画がアヴァンギャルドであるというわけでもない。にもかかわらずグリーンバーグは、アヴァンギャルドの意味を、絵画における抽象あるいは抽象性に限定し、絵画なしでの歴史の発展を否定することで、独自の美術史を形成した。

グリーンバーグが想定する美術史の形成では、メディウム(媒体)の特質が重要な役割を演じている。彼はメディウムの優位性という観点から絵画の特殊性を論じるために、レッシングのラオコーンを参照するが、メディウムがもう一方のメディウムを要求し、互いにもたれ合う状況を通じて語られるレッシングの理論とは異なり、徹底して絵画を文学的要素から引き離し、絵画の特性を侵食する文学性に関連するメディウムをすべて消去することで、絵画の優位性を確立する。アヴァンギャルドの特性を常にメディウムに関連付けることで、それ単独での芸術の進行を可能にするのだが、絵画の場合、特定のメディウムへの集中は、フレーム内部での空間の操作、メディウムと空間との関係性へと関連付けられる。グリ−ンバーグは、彼の理論の正当性を確認するための契機を、十九世紀における絵画空間の衰退と、その再生の物語の中に求めている。

19世紀の絵画史は、その進化の道筋を概ね三段階に分ける事ができるのだが、グリーンバーグはとりわけその第二期を、衰退期として評価する。その時期の絵画は逸話や伝言に頼るようになるので、あたかもレリーフや彫像のような、そこに描かれる画像には、鑑賞者の想像する何かへと変化してゆくことが要求されている。画像はまさに、フレームと四角いキャンヴァスの内側にある空虚な漠然とした空間に、ただ単に存在するモノになる。絵画は生き生きとした画像(Pictorial)から、ピクチャレスク(明美、絵画的)な画像へと、退行したのである。

だがそのような状況は、クールベによって覆えされる。彼の絵画には、メディウムと空間との関連性のなさが確認される。彼の絵画では、マネや印象派へと引き継がれてゆく、それまでにはない新たな平面性が始動している。彼の絵を見つめる鑑賞者は、画像を見るという行為から切り離されている。鑑賞者は、単に作品の外側に佇み作品を見つめ、想像によって作品を形成するという、受動的な行為から開放されて、代わりに、共に作業を行うための能動性が要求される。その過程で重要なのは、鑑賞者の芸術作品に対する経験である。芸術作品の主題の経験は、あらかじめ作品の内部に刻印された歴史的位置付けに従って出現するが、それは同時に新たな近代性の(モダニィティー)到来の、基本部分になるものだ。

グリーンバーグの言うメディウムの特化とは、その純粋性の確約を意味している。そして、その純粋性の議論は、時間との関連で語られる。抽象とはその形態の純粋性によってその効果を得、フォームの内面性によって自己充足性を満たす芸術である。一方で、そうした純粋な芸術に反応する感覚が存在するが、抽象とその感覚は、抽象が感覚以外の何ものでもなくなる限りにおいて、統合される。少々複雑な表現だが、そこで問われているのは、鑑賞者が抽象を見る時の「同時性(単一性)=一瞬にして見ること」という、時間性の問題である(*)。同時性は鑑賞者に、持続する時間の継続の中から一点へと集約することを要求し、引き換えに作品は、鑑賞者を閲覧するという状況(文脈)から切り離す力を得ることになる。

同時性という、時間の持続が欠落した単純な時間概念は、純粋性による仲介物の排除に支えられている。自己充足性から導かれる思考としては、絵画を表象の水準から解釈する必要はなく、したがって抽象を表象の否定という側面から論じる必要もない。そのような思考によって、クールベやマネのような、実際は表象が強く作用するような作品でも、それを抽象独自のものとして解釈することが可能になる。鑑賞者の即時的な受容に対する欲求も、対象の形態を通じた働きかけや、形態の機能を尊重する主張を無視することで確認される。

完全には還元できない部分を一部に残しながらも、グリーンバーグの理論における種々の論説は、一瞬にして見るという対象の同時性と結び付けられている。詩よりも彫刻や絵画のほうが、純粋性の実現に向けてのより大きな包容力を持つという議論の中で、同時性はそれに対する解答と常に関連付けられる。グリーンバーグにとって、対象は単に感じられるのであり、そこには鑑定すべきものや、確認すべきものは存在しない。描かれた対象、解釈され、表象され、配置された対象からの要求よりも、対象の内部での操作と、それ自体を描写する方法にこそ意義がある。

グリーンバーグ独自の時間概念における同時性は、存在と行為とが同時に存在することによってもたらされる。一塊となった両者は単一なものとして受け取られるが、それが絵画表面の平面性に関する主張を生み出す、特別な時間概念の基本になる。仮想的平面における奥行は、それが対象の二次現性へと還元されることによって克服される。つまり、絵画はリアルな表面の物理的空間に妨げられ、絵画空間が解釈不可能であることが理解されると、絵画にとって可能な純粋性に到達する。そのような状況への到達が、まさに歴史的な、絵画の自律性の確立をサポートする。

だが一方で、存在と行為とが同一の広がりを持つことは、装飾の問題という、同一化の結果として起こる、絵画の重複(余剰)の問題を引き起こす。議論の中では、そのような絵画の分解が、モダニズムの自己批判的プロジェクトに内在する問題として、現実味を帯びてくる。だがグリーンバーグは、絵画の分解として総括されるそれら一連の問題を、彼が現代の感受性と呼ぶ、対象の内部に起こる出来事へと集約する。彼はモダニズムの経験に視点を定めて、その問題に対処する。

グリーンバーグの概念で重要なのは、対象と時間との相互作用で、対象の単独性は、常にそれが提示される場面では、点として理解される。イーゼル絵画の崩壊という脅威に繋がるにもかかわらず、彼は対象、時間、知覚との間で起こる緊密な交換性を、画一的に組織化する。組織化は、対象の統一、経験の単一性、メディウムにより一瞬のうちに与えられる経験、それらが同時に展開する中で行われる。グリーンバーグは芸術に対して、還元不可能性の中で、対象の還元不可能性が修復されるかのような伝達を要求する。そのような対象と経験との相互作用の特質は、1960年に発表された論文、「モダニスト絵画」で検証されることになる。

(*)作品を見る時間を対象の維持と同義に考えると、作品を観るその場で統合される経時(時間の持続)が含まれ、そこに厚みをもたらすのではないかという疑問が生じる。しかし、グリーンバーグの言う同時性では、対象は単一の経時しか含まないということを前提とするので、対象はその瞬間的な受容を要求できる。グリーンバーグの論文では、絵画と時間性が繰り返し関連付けられているが、注意すべきことは、感覚と、抽象作品における「同時性=一瞬にして見ること」との関係において、両者ともに異なる形ではあるものの、そのように時間を含んでいるという事実である。

自己批判と平面性

現代の美術は歴史と断絶しているという議論がある。だが、そうした議論を越え歴史を更新するのがモダニスト絵画であり、その真正性は他のいかなる芸術より進歩している。かつて発見されたことのない新しさが抽象の内部で始動しているが、その新しさは美術の伝統を損なうようなものでは決してない。グリーンバーグは歴史的時間のなかで進化するモダニスト絵画を繰り返し賞賛するが、彼の議論は、絵画と時間性、そしてその結果変貌する絵画空間との関連の基に組み立てられている。

新しい絵画を損ない、その位置を占拠しようとするのは、装飾やセラピーのような非芸術であり、それは美術が継続し進化するために必要な空間を閉じようとする。だがそれに対して、モダンアートの自己批判的特質や許容量が、芸術を非芸術への落ち込みから救済する。モダニズムの本質ともいえる自己批判的特質とは、その能力の領域でより強固に身を固め、その規律が規律自身を批判するという、特徴的な方法を意味している。その特質は、歴史の転覆や断絶にではなく、歴史の流れの中に斬新さを打ち立てようとする、その目的として語られる。芸術活動の内部から湧き起こるその戦略は、実践を通じた明確な行為によって、最終的にその目的を確立する。経験から語られるのが自己批判であり、その出現によって、初めて美術のユニークな経験が確証され、許容されることになった。

自己批判は一般論としてではなく、個々の美術形態に特有なものとして語られるべきものである。批判に際しては、個々の形態に適切な表現媒体が必要だが、それを規制するのは不可能だ。それぞれの美術は、それ自身にとって唯一で排他的な効果として、ある種の近代性の印のように現れる、固有の媒体を提示することが可能である。そして、その媒体の提示によって純粋性が立ち現れるのだが、それは自ずから高い排他性を保っている。批判をかわしながら、同時に美術に固有の精神的な、あるいは超自然的な側面を排除するためには、排他性を高く保ち純粋性を強調することが必要になる。芸術活動とそれがどのように関連するのかという、芸術の特殊性にかかわる議論を、純粋性は保持し強化する。「純粋性の意味は自己定義であり、モダニズムは芸術に注意を引き寄せるために芸術自身を用いる」という言葉に集約される過程そのものである。

モダニスト絵画における純粋性の議論は、絵画の特殊性が最もよくあらわれる平面性へと集約される。かつて美術が文学から切り離されたように、絵画は彫刻からも切り離される。絵画の真の自立を促すためには、文学性の進入を阻止するだけではなく、彫刻のもつ三次元性とその表現にも注意を払う必要がある。モダニスト絵画は自己定義の一環として、それ自身が平面性へと適応し回帰してゆくが、その終点は平面性そのものにあるのではなく、その表象のしかたにある。絵画は排他的であろうとするために、表象の領域から抽象へと移行するが、まさにその移行とは、封印されたフレーム内で三次元性を隠蔽するという行為から離脱し、二次元性へと向かう動きそのものだ。

実際にそこで問われているのは、絵画の表象との係わりに関する核心部分であり、そこから出現する事柄が抽象の条件となる。その条件とは、モダニスト絵画の最終段階で何が破棄されるのかという疑問に答えるものである。そこで廃棄されるのは、目に見える対象の表象ではなく、目に見える対象が住み付くある種の空間だ。絵画の使命が自己の確認である以上、抽象は絵画によって取得される形態(フォーム)を否定するが、抽象は表象を完全に排除するわけではない。抽象は表象の領域がもうそれ以上関係できない極限に達したときに立ち上がるが、画面に確認できる対象が存在することを、その過程が排除してしまうわけではない。

絵画が取得するのは対象の形状だけではない。抽象は図と内容の両方を拡張するが、その拡張は存在と行為の同時性として確認できる。グリーンバーグは視覚的(オプティカル)な動きと関連付けることで、そのような性向を、マネ、印象派から現代に至るまでの絵画の中にたどっているが、彼はとりわけ19世紀のマネの作品における色彩と線画との対立の停止に伴う完全に視覚的な経験だけの残留を、モダニスト絵画の最終段階と結び付けている。最新の抽象画は、印象派という典型的で完全に絵画的と呼び得る美術が引き起こす感覚としての視覚についての主張を満たそうとするもので、それを語るには視覚性とともに、時間の概念を再考する必要がある。モダニスト絵画の議論の中での厳密な部分において、自己定義は同時にまた一度に鑑賞者に与えられるという事実と視覚性とは、密接に繋がっている。視覚的経験の同時性(単一性)は作品の同時性によって支持されており、抽象絵画における表象空間の軽視または排除は、その存在、行為、そして時間の同時性との間における、相互作用の結果である。

参考文献
What is Abstraction?: Andrew Benjamin, Academy Editions, 1996
Avant-Garde and Kitsch: Clement Greenberg, Partisan Review 6(Fall 1939)
Towards a Newer Laocoon: Clement Greenberg, Partisan Review 7(July - August 1940)
Modernist Painting: Clement Greenberg, Art and Literature 4(Spring 1965)
Modern Art and Modernism: Ed. Francis Frascina and Charles Harrison, Open University, 1992

Clement Greenberg

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