ジャック・デリダ、声と現象

「声と現象」はジャック・デリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)初期の代表作といわれる論文だ。デリダは本論において、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)の現象学と構造主義の解読を通じて形而上学の脱構築を試みる。

現象学は内的言語の哲学として、意味は内的意識から発生する。一方、言語と文化の関係を説く構造主義では、意味は言語の単位から発生する。異なる場に意味の発生源を求める両者は一見無関係に見えるが、共に形而上学的な仮定に頼り意味付けする。デリダはその点に着目し、彼が「ロゴス中心主義」として切り捨てる哲学、プラトンから、デカルト、ヘーゲルを経て現象学へと至る形而上学の基底に揺さぶりをかける。脱構築は対象に対立したり、それを論破したりするものでも、また逆にそれらを確証、擁護するものでもない。脱構築は単にテクストに存在する隠された不安定な場所、あるいは不決定性が機能する場所を探し出すために、ただそこを通過する。

脱構築を始めるにあたり、デリダはまずフッサールが求めた純粋意識が提示できる可能性をその根本から除外する。フッサールは意識の基盤を探求するために、単に周縁的なものや偶発的なものをすべて排除する。彼にとって特殊な個人や特殊な状況に属するものすべては、個別の心理学の問題である。根源的な精神構造は普遍であり、また超越的でなければならない。

フッサールが掲げる現象学的還元では、対象をそれ以外のあらゆるものから遠ざけることで、基本的な様相(Aspect)を独立させる。厳格かつ詳細な排除が、意識の本質的な評価には必要だ。意味は内面的なものとして理解され、はじめて自身へと描かれ提示された意味となる。意味のそのような状況は、単一の孤立した精神生活が生み出すものであり、その孤立の中では一切の外部を必要とせず、基本的な意味は自身との対話による意識に関する質疑だけに限定される。精神の普遍的構造の基礎、存在の形而上学においては、存在は自身へと開かれる。そこで語られるあらゆる体系は、内部と外部という形而上学的対立に頼らなくてはならなくなる。

ところで、フッサールはこの現象学的還元において、言語をどのように扱っているのだろうか。言語はその性格上純粋意識に適応できないので、言語の、少なくともその周縁をフッサールは棚上げする。言語の周縁、その外面的側面としての構成、形式、音声、大意(物質)、記号(痕跡)を彼はいったん除外する。思考との関係において、彼は言語を階差的な段階に支配されたものだと定義する。言語は指示記号と表現(表示)記号という二つの段階において二項対立するからだ。指示記号とは意味を示しはするが、自身は動的な、意味的な意志を持たない記号のことで、例えば数学記号がこれに相当する。彼にとって指示記号の機能とは劣化したもので、その記号化(象徴化)にはある種の危機を孕むのだが、数学記号の場合のように、その記号化が何らかの使用に供されるのを別段邪魔するというわけではない。対照的に表現記号は自ら意識的に意味付けする、意識の力を持つ正統な意味に満ちた記号である。

フッサールが生の意志を語るとき、彼はその意志に命を吹き込む生の制作者を想定するのだが、それはそのような表現記号の特権的形式と重複する。その特権とは話す「声」である。声は静寂に満ちた内的な意識の内部、隣接した場所にあるので他のいかなる形式よりも優れたものとなる。自身を表現すること。それは記号の後ろに隠れ、誰かの話に付き添い、その助けになるということなのだが、そこでは生きた声だけが、その優越性と威厳でそれ自身を補佐することができる。生きた声だけが表現なのであり、従属的な記号ではない。

そのようなフッサールの音声中心主義に対し、デリダは記号や音声等、言語を外部から支持するものに着目し、現象学の脱構築を進めてゆく。デリダにとって記号や音声は現在の意志から切り取られた、個別の役割を演じるものである。言語の外部は必要なものであり、それらは常にその内側に住み着いているのである。デリダは脱構築の手順として、次にソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)に始まる構造主義に着目する。

ソシュールは言語に対するそれまでの通時的な考え方を改め、言語を共時的に扱うことで、他との関係の中にその構造を位置づけた。構造主義では各言語要素は他との関係、それらの差異において意味を産出する。言葉は紙の表と裏のような二つの概念で構成されている。その一方のシニフィアンは、語る言葉が聞かれ、書かれる言葉が見られるように、感覚的な知覚や認識を表現する。他方のシニフィエは、その知覚あるいは認識に関連する意味や概念を表している。われわれが感じる、考える、理解するという意味で、記号はそれを記号として成り立たせるために、その両面を必要とする。

デリダは、そのようなシニフィアンとシニフィエの階差的な差異をプラトン的制度、つまり哲学の中で展開される支配形式と同様なものだと考える。彼は記号の二項対立的な特性には疑問を呈するものの、ソシュールの記号論における表裏一体となったふたつのメタファーの要求、独立して存在できない両者、シニフィアンとシニフィエの癒着を、現象学の批判材料として温存する。シニフィアンとシニフィエによる表裏の構成とは、まさにライティングにおける表面と支持に相当するものだ。

概念や意味は、たとえ脳内でそれを思い浮かべることができるにせよ、その物理的な聞かれる声や書かれる印(しるし)、つまり感覚的様態としてのシニフィアンを要求する。したがって、そこではその外部にある形(フォーム)が純粋な内在(本質)のイデア(観念)を侵食していることになる。だが、それはまさにシニフィアンの隠蔽(抑圧)という、西洋哲学の古典的性向に対立する動きではないだろうか。西洋哲学において、シニフィアンは概念を打ち壊すものでしかなく、基本的概念のシニフィエに対して全く不要なものとして扱われてきた。フッサールも言うように、シニフィアンの消滅によってこそ、超越的シニフィエとしての純粋思考が立ち現れる。では、この消滅が最も完全に遂行されるのはどこかというと、それは話す声の中ではなかったか。声は表現された意識の力によって溶かされる。

しかし上述したように、ソシュールも音声中心主義に陥っている。では記号を取り除くために、それはどのようにして使われるのだろうか。そこで登場するのがソシュールの差異の概念である。

シニフィアンとシニフィエが接合する中で、シニフィアンかシニフィエ、そのどちらを引き合いに出そうとも、言語体系の外部では概念も音声も持ち得ない。そこでは概念的な、あるいは音声的な差異だけが体系から提起される。意味の産出は単にシニフィアンとシニフィエの関係だけではなく、他との差異にも依存する。言語学的音声の地平では、言葉の中にある音を、他の音に代変えすることが許される。音声自体に意味が無くても、あるいは同じでも、それぞれの違いを指摘することはできるというわけなのだが、それはその違いによる異なる概念の産出へと繋がってゆく。だがデリダにとってはまさにそのことが、存在に対する疑問となる。

ある語が話し言葉として流通するときには、そのすべての音が発話されなければならず、それらはすべてそこに存在する。一方そこに表記されていない語、発音されていない語は当然不在のままであるか、あるいはそのように理解される。しかしその語の意味が差異によって解釈されている以上、その意味は不在の語に依存していることになる。それは単にそこに「ない」というわけではなく、また逆に単に「ある」というわけでもない。それは「痕跡」として必然的な不在の中に、余儀なく存在する。痕跡とは単なる存在でも不在でもない、決定不能な要素である。差異の系統は、元の意味の上での存在と不在の戯れによって、つまり構造的な決定不能性によって支えられているのである。

書かれたものであるにせよ、話されたものであるにせよ、いかなる要素もそれ自体は不在の他の要素との関連なしでは機能しない。それぞれの要素の基本は、構造の他の要素の中に含まれている痕跡で構成される。その要素あるいは構造の中で、何ものも単に存在したり不在であったりすることはない。

言語はそこにあるものとそこにないものとの交差的な動きの中で前提される。言語は常に織物のように交錯し、すべての言語は決定不能性を条件とする。痕跡の戯れとは、言語が逃れることができない生来的な不安定さであり、ある種の変形、改変、ずれである。それは哲学的な言語にも応用できる。哲学の語彙(存在、真実、中心等)は語彙として理解されなければならず、それは言葉の集成なのであり、痕跡の戯れから逃れることはできない。痕跡が留まることなく存在と不在の間を横滑りし続けるのであれば、哲学を語る言葉も、その存在を再構成し続け、それを完全に確立することは不可能だ。そうした事実が形而上学上での概念、手続きとして完全な存在を要求する西洋哲学の根源を揺るがすことになる。これがデリダが本書で行う哲学に対する脱構築である。

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本文は「声と現象」英訳版とその「Introduction」を参照し、論文の概要を短くまとたものである。なお、ここで参照した英訳版には二編の関連する論文が添えられているが、そのひとつ「Differance」の冒頭で、原文にはない一節が誤まって訳出されている。フランス語の原文では「I SHALL SPEAK, THEN, OF A LETTER - 」で始まる節が冒頭になる。この論文は、本論で触れられている言葉の戯れを、補足、詳述する。ここで参照した「声と現象」は古くからある英訳版だが、異なる訳者による新版もある。

参考文献
Speech and Phenomena and Other Essays on Husserl's Theory of Signs: Jacques Derrida, David B. Allison(Trans.), Northwestern University Press, 1973

ジャック・デリダフッサールフェルディナン・ド・ソシュールSpeech and Phenomena and Other Essays on Husserl's Theory of Signs

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