中上健次、十九歳のジェイコブ

中上健次(1946 - 1992)は彼の代表作と言われる「枯木灘」(昭和52年)や、姉妹編の「鳳仙花」(同55年)と並行して、角川書店のエンターテインメント系小説誌「野性時代」に、「焼けた眼、熱い喉」と題する連作小説を連載していた(昭和53年7月号から昭和54年10月号、昭和55年2月号)。その終了から六年後の昭和61年、作品を加筆、改題し、新たに長編小説として発刊したのが「十九歳のジェイコブ」である。ジェイコブとは旧約聖書ヤコブの英語表記で、主役の名前が順造からそれへと改変されている。

中上の19歳の若者が主役の作品といえば、昭和48年に発表され映画にもなった初の芥川賞候補作「十九歳の地図」や、その前年の「灰色のコカコーラ」が思い起こされる。同年齢の若者の犯行である永山事件や学園紛争を背景に、時代の波に翻弄される無軌道な若者の行動や心理を都市のメタファーとして描く首都を舞台にした作品である。これら一連の作品では、若者の退廃的な行動を大都市特有の孤独や倦怠に結び付け、空転しさまよう彼らの姿をそこで暮らす人間の真実として表象した。だが、程なくして中上は舞台を作者の生地へと移し替え、種々の短編で示唆されてはいたものの物語の底部に隠蔽し続けてきた自我を全面へと押し出し、人間とそれを形成する言葉の根源へとストレートに迫る作品へと移行した。首都という中心とは異なる「路地」という周縁部にある閉鎖空間を舞台に、退廃的な行動を人間の根源的な欲望、自然としての人間の真実の姿として正統化することで、物語を人間開放への道筋を記す神話として再構築していった。

中上にとって19歳とは破壊、運命、死という主題を共有しながら、心理的な虚構から自伝的な私小説への移行を試す象徴的な年齢として現れる。それを冠する本書「十九歳のジェイコブ」もそのような境界を彷徨う若者を描く作品だが、前者の設定と後者の伏線とが物語の中に交錯する。本書は都会で暮らす退廃的な若者の姿を通じて都市の限界を描く批判的アレゴリーとして始まるが、やがて伏線として隠された複雑な家族関係が作り出すオディプス的状況が物語の前面へと押し出されるにつれ、拭いきれない出自と自己同一性の物語として進行する。

主人公はジェイコブは、自身が置かれた不本意な境遇と矛盾に満ちた都市生活を憂う、無力で退廃的な若者として登場する。彼は熊野という、海、山、川にはさまれた自然豊かな路地で成長するが、不本意な噂や兄の死に直面し、それがもとで素行が乱れ、ついには補導され保護観察に処せられる。彼は十七歳で町を離れ、観察司である伯父が経営する貨物会社の住み込み従業員として、東京へと移り住む。昼間はそこで働きながらも、普段の生活は荒れ、怪しげなジャズ喫茶にたむろし、セックスと薬物にまみれた生活に埋没する。現在十九歳になる彼は、すでに伯父の会社をやめ、職場を自動車工場へと移してはいるが、仲間たちと過ごす退廃した日々の姿に変化はない。

ジェイコブの家庭環境は複雑だ。彼の四歳年上の兄は、中学を卒業する直前に薬物自殺を遂げ、姉は精神を患い療養している。だが何よりも若い彼を苦しめたのは、保護司である伯父と母親との関係にまつわる噂である。兄も同様に苦しめたその噂が真実ならば、伯父がジェイコブの実父ということになる。ジェイコブには実家である企業の爆破を目論む友人がいる。彼はその裕福な友人にも触発され、伯父とその家族の殺害から後の逃亡を記す架空の日記を作成し、現実と空想との間を彷徨する。

ジェイコブの伯父は、戦後のどさくさにまぎれ、地元で詐欺まがいの方法で財を築くも、立場の悪化を期にそこから逃走した人物で、妻と三人の娘を持ち東京で事業を営んでいる。不自由のない生活を送っていたが、最近の彼は、ジェイコブにも覚えがある脅迫電話や故郷である路地の呪縛に苛まれ、憔悴しきった状態になり、事業も妻に任せている。会社を辞して以来、久々にジェイコブが見る伯父は、痩せこけ覚醒剤に浸された、独り言と奇行の日々を送る哀れな男へと変貌していた。そんな伯父の姿を目の当たりにするジェイコブ、彼もまた路地の呪縛に苛まれる若者として、計画を架空のままに放置し自害した友人とは異なる道を選択する。

このように本書は人物設定をはじめ、多くの点で他の中上作品を踏襲する。彼の主要な作品の総集編のような内容で、そこに中庸的な薄白さを感じる読者もいるだろう。その中で特筆すべき点のひとつとして挙げられるのが、主人公に与えられた英名ではないだろうか。主題の如何にかかわらず日本的な情緒を強調するのが中上作品の特徴だが、彼は再刊にあたり主人公の名を原作での「順造」から「ジェイコブ」というユダヤ系の英名に置き換えた。とはいえ彼の純粋な日本人という設定に変化はなく、そこにセルフパロディーとしても捉えられよう本書に潜む作者の意図が見出されるのではないか。

若者の生活はいつも音楽に寄り添うが、ジェイコブの背中には常にジャズの影がある。中上にとってのジャズとは、彼の環境と西洋音楽との間にある矛盾を訂正し両者を結合させる貴重な音楽で、彼はそこに民族のルーツを解明するための道具としての役割を与え、言語に隣接する第二の媒体として、諸々の作品に組み込んだ。彼の世代はジャズをジャズ喫茶と結びつける傾向があるが、本書においても、それが外界の規律が及ばぬ自由な空間、聖なる場所として、ジャズと重複する。

本書はそのジャズ喫茶の場面に始まり、そこで幕を閉じる。「ジェイコブの目にモダンジャズ喫茶店は教会のように見えた」という一節で最終章が締めくくられるが、その「教会」という語には「シナゴーグ」というルビが振られている。シナゴーグとはユダヤ教の会堂のことで、とりわけディアスポラ(母国から離れた位置にあるユダヤ人)のための、多目的な集会施設を意味している。彼らと同様に、本書の主役、ジェイコブというユダヤ系の名で呼ばれる日本人の若者もまた、故郷の喪失による永遠の彷徨を要求されると同時に、血と出自がもたらす運命に翻弄される。本書には他に作曲家のヘンデル(Georg Friedrich Händel、1685 - 1759)が富裕者の音楽として登場する。彼はユダヤ系ではないが、故郷を離れ生涯を外国で終えた人物である。

中上のユダヤ名へのこだわりからは、もうひとつ、彼が胸中に抱くというユダヤ性への憧憬が想起される。東洋人を自覚する中上にとって、ユダヤ性はまず切実な状況の中に生きるマイノリティーの比喩的表象として出現し、そこに文化=知性と自然との融合を実現する媒体としての存在感が付与される。

かつて中上は、評論家を主人公にした長編小説の執筆を計画した。路地から採集した話をもとに架空の武勲詩を捻出し、それに綿密な校訂と注釈をほどこす、妻子に逃げられた孤独な評論家を主役とする物語である。彼にそのような作品を目論ませたのは、ユダヤ系の文化人類学者、レヴィ・ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)の存在だった。中上は彼の知性と彼が扱う神話との間の落差に注目し、彼のような知識人が未開人の神話に魅せられる理由を、彼に張り付くユダヤ人、マイノリティーとしての認識の中に求め、そのような評論家を描くことで、中上自身の内部にあるべきユダヤ性を発見しようと試みた。

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