クリス・ベイヤー、Photos in Black, White and Gray

クリス・ベイヤー(Chris Byars, 1970 -)はニューヨークをベースに活動するジャズサックス奏者、アレンジヤー、コンポーザーである。とりわけ1990年代の半ば以降、グリニッジビレッジから活動の場を拡大し続けるベイヤーだが、音楽家の家庭に育った彼のキャリアは長く、子供時代にはメトロポリタンオペラでシンガーを務めていたこともあると言う。彼は主流派の流れを尊重しながら新たな創作を試みるタイプのミュージシャンで、よくあるフュージョンやアンダーグラウンド、あるいはニューフリーといわれるジャズへの傾倒は見られない。

「Photos in Black, White and Gray」は、そうしたベイヤーのスタイルをストレートに反映するアルバムだ。シンプルで軽快なハード・バップのリズムに乗せた各曲だが、そこには現代の響きが加味されている。彼は自筆のライナーノーツに、「メロディーを自然に創造し、リズミカルにそのときの感情を表現しながら、この今という瞬間に概念をもって存在するという比類なく個性的な活動であり、その将来性が失われることは決してない」と記しているが、そうした彼のジャズに対する絶賛をこのアルバムは具体化する。

アルバムのタイトル、「Photos In Black, White and Gray」は、ライナーノーツを締め括る「For inspiration, I look to... Jimmy Lovelace, who wore only black, white and gray.」という一節からとられているようだ。ジミー・ラブレス(Jimmy Lovelace, 1940 - 2004)は、一見古風でモノトーンなジャズを愛する名ドラマーだった。

ベイヤーは翌年発表したアルバムで、彼の語彙を広げている。それはさながらジャズ版「展覧会の絵」と言う様相のアルバムで、「Jazz Pictures at an Exhibition of Himalayan Art」というそのタイトルが示すように、標題音楽として様々な展示品の印象が各楽器の即興で語られる。演奏もさることながら、彼のアレンジャーとしての力量がいかんなく発揮されたアルバムで、ジャズを絶対音楽としてとらえた前作と好対照をなしている。両作品とも、発売元はスモールズ(Smalls)。

Photos in Black, White and Gray: Chris Byars (Tenor Sax、Alto Sax、Soprano Sax), Sacha Perry (Piano), Ari Roland (Bass), Andy Watson (Drums)

  1. Aquarian Epoch
  2. Milton
  3. Safe at Home
  4. Acoustic Phenomenon
  5. Manhattan Valley
  6. Cliff Diving
  7. Riddle of the Sphinx
  8. A.T.

Jazz Pictures at an Exhibition of Himalayan Art (2008): Chris Byars (Tenor Sax, Alto Sax, Soprano Sax, Flute), John Mosca (Trombone), James Byars (Oboe, English Horn), Ari Roland (Bass), Stefan Schatz (Drums)

  1. Better to See You
  2. Tonpa Shenrab
  3. Blues Under the Boddhi Tree
  4. Buddha Shakyamuni
  5. Arhat
  6. Chakrasamvara
  7. Rahula
  8. Just Ask
  9. Whispered Tradition

古井由吉、白暗淵

昨今の電子化に象徴されるように、「本」の歴史は常に自らの消滅へと寄り添うものだった。15世紀の半ばにヨーロッパで発明された活版印刷術は、聖書を手書きから開放し普及への道筋をもたらしたが、それは必然的に写本に備わる工芸としての魅力を消滅させた。書籍の電子化はそうした流れの終着点として、物質としての「本」それ自体が主張するあらゆる物語を、決定的に終わらせる。「本」を手に持つ感覚、紙の質感や匂い、あるいは経年がもたらすその変化を通じて、無意識のうちにも我々が得てきた感覚は、すでに得難い過去のものになりつつある。視界に入る背の高い本棚や古い書籍の堆積が、時代を記す地層のように見えてくる。

古井由吉(1937-)の「白暗淵」を手に取りまず感じられたのが、そのような「本」それ自体に対する印象だった。昨今の単行本としては珍しく重厚な装丁で、表紙の写真から紙の選択までもが、本書のタイトルや内容との比較を前提として、慎重に吟味されている。これまで版画や日本画にくるまれてきた単行本の表面は、白一色で塗り込まれたライマン(Robert Ryman、1930-)の抽象絵画(*1)に置き換えられ、それに相反する真っ黒な見返しがその後を追いかける。言葉を司る所記と能記のように表裏が一体になる両者だが、その表面はいびつである。

ライマンが1960年代から取り組んできた白を基調とする一連の作品は、キャンヴァスのエッジをも意識させる一見ミニマリズム的な作品だが、その表面には荒くリズム感に満ちたテクスチュアが盛り込まれ、混沌の内に反復される即興音楽に似た、直感的な躍動感が見い出せる。視覚と同時に聴覚にも訴えるのがライマンの絵画の特徴で、そうした多重性が、古井の物語にいつも寄り添うある種の混濁に比類する。同世代に属する両者の作品は白という無色で結ばれるのだが、それが意味するのは単なる無音の静寂や空虚の淵では決してない。

「物を言わずにいるうちに、自身ではなくて、背後の棚の上の、壷が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで吸い取れたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある。」

この一節は2006(平成18)年4月にはじまる「黙躁」と題された連作小説最初の短編、「白い男」の冒頭から引用したものだ。物語は前年におきた「耐震強度偽装事件」、いわゆる「姉歯事件」をモデルとした、ある建築士の省察で始まる前半部と、彼が過去に体験した東京大空襲の回想を軸にする二つの場面で構成されている。古井はとりわけ短篇において、生と死、光と闇、陽と陰、動と静、というような、相反する要素を取り込むために、随筆を虚構の中に散りばめてきた。「白い男」においては、虚構ではじまる前半部が、やがて真実としての彼の戦時中の記憶と交錯する。

諸短編の集積を、「黙躁」という名の連作小説としてまとめ上げる力のひとつが、随筆と虚構との混濁という、古井独自の技法である。彼自身が語るように、その諸作品においては、堆積される時間と空間との往復による現実と虚構、随筆と小説とのあいだのさまよいが、創作の手法として機能する。中年期以来用いられてきた技法だが、老境に至る今、それは深みを増しつつ定着した。

翌2007年6月に終了した「黙躁」を同年12月に書籍化したものが、この「白暗淵(しろわだ)」である。「白い男」は「朝の男」と改題され、「地に伏す女」、「繰越坂」、「雨宿り」、「白暗淵」、「野晒し」、「無音のおとずれ」、「餓鬼の道」、「撫子遊ぶ」、「潮の変わり目」、「糸遊」、そして最後の「鳥の声」へと続いてゆく。

古井は自身の年齢に敏感な作家である。「内向の世代」の作家として、彼は自身の内面を折々の年齢に同期させてきた。その成長過程において、変わることなくその基底に存在し続けたのが、相反する陰と陽の並立だった。本書のタイトル「白暗淵」は、暗澹をあらわす「黒暗淵(やみわだ)」に背反する造語である。「黒暗淵」は旧約聖書の創世記にあらわれる語で、それを含む一節(*2)では、明と暗、昼と夜とを分断しつつ、水面を神の霊として大地をその対極へと配置する神の行為が示される。「白暗淵」という語は、その語源との対比を通じて、過去と現在、現実と虚構、生と死が混濁する世界を、一語の内に表象する。

老境に至る古井の作品には、リアルな戦時中の描写が目立つ。彼の作品においては、「狂気や死を、我々の深層に横たわる人間存在の根源として描く」ことが、作者固有のテーマとして掲げられてきた。人生の終端を見据える彼の近作には、そこに子供時代の輝ける時が加わるのだが、戦時中に見たその輝きには、絶えず死の暗い影が寄り添うようだ。

(*1)タイトルは「Pressor」、制作は1977年、(*2)地は定形(かたち)なく、曠(むな)しくして、黒暗淵(やみわだ)の面にあり

古井由吉白暗淵(しろわだ)

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