J.M.バーンシュタイン、文化産業とポストモダニズム

以下の文章は、「The Culture Industory: Selected essys on mass culture」というアドルノの論文集に添えられた、J.M.バーンシュタイン(J.M. Bernstein)による序文(英語)の翻訳をまとめたものである。翻訳は筆者によるもので、まとめる段階で直訳は読みやすいように変更した。クオテーションは省略する。

アドルノの文化産業(カルチャーインダストリー)に関する論文は、高等芸術と大衆芸術とのポストモダン的な関係を予見するが、それは決して安泰なものではない。アドルノは真実性を基盤とする高等芸術と、それへの手に負えない抵抗力を示す大衆芸術との調停の場における両者互いの損傷を指摘することで、和解の虚偽的終焉を予想する。彼の見解に従うとポストモダン的な階差の逆転と崩壊にある種の疑問が付されることになり、そこでポストモダンの擁護者は彼の見解に批判的に接することになる。ここではまず、その批判の内容を概観し、その後に文化産業内部で行われる調停の細部の考察へと進むことにする。まずその批判だが、それは概ね次の二点に集中すると考えられる。

まず指摘されるのが、アドルノが行うとされる、文化産業の否定的側面としての拒絶の力とそのごまかしに対する過度な強調や誇張である。アドルノには意識の相対的な自律性を否定するか、あるいは大衆を愚民であると前提し、そのうえに文化産業の巧妙な手口を過大に評価し、その否定的側面を大げさに描写する傾向があるという。そして、そのような誇張は、彼の高級芸術の裁定のありかたを基底とするものだ。アドルノはまず高等芸術を社会から隔絶した存在であると規定する。だが、この見解は一方的に過ぎないか。たしかにモダンアートはその奥義的な性質をして少数のエリートに仕え、商品としての存在からは距離を置いてきたのだが、とりわけ1950年代の終盤以降、市場へと身を晒すことにより従来の批評的地位を失ない、その評価も進化の言説も投機的な市場で決定されるようになっていたはずだ。

次に指摘されるのが、アドルノがモダンアートを擁護する際に、まずその進歩的な素材の開拓を強調するという、その行程だ。素材とは文学における単語やイメージ、意味に相当するもので、絵画における色彩、線、筆跡、キャンヴァス等をあらわすのだが、モダンアートはそれに加えて、再現=表象、形象化、説話、ハーモニー、統合性といった事柄をも否定する。アドルノは芸術素材を最先端のものだと解釈するが、そのような解釈は、暗黙のうちに芸術の進化を内包されたものだと規定することになる。ポストモダニズムはそれらをみな回帰させるのだが、その回帰においては、アドルノの言う最も進化した芸術素材の状況が要求する直線的な歴史の進化は否定される。

実際にモダンアートが否定する素材や概念は、まさに文化産業に内包されているものなので、ポストモダニズムはそうした否定こそが、モダニズム特有の階層化による分割への要求を克服するのだと考える。反駁を通じた高級なものと低級なものとの統合は、ポストモダニズムにとっては、高等モダニズムのエリート主義に対する民主的な反応なのである。伝統的芸術の要求を否定し、また自律的かつ統一的な芸術の構成要素の否定をも通じて、モダニズムの成功に疑問を投げかけること、それはまさにそうした抵抗の機能に反駁する囲いを除去することなのであり、そこでは不協和音、ショック、矛盾は、もはやモダニスト的実践の結果ではないのだということが示されるはずだ。

そのようにしてポストモダンの擁護者はアドルノを批判するのだが、そこには一方的で不適切な側面が見え隠れする。実際には、そのような批判にもかかわらず、アドルノの美学理論は、その最初から意識的にモダニズムの老化を指摘しているし、クレメント・グリーンバーグの美学などとは異なり、芸術の未来を描こうともしていない。単にアドルノは、いつ消え去ってもおかしくはないモダニズムの真の意味を暴露しようと試みているのである。彼は漸進的な芸術素材の概念が、個々の芸術の論理を非歴史的に表象すると信じるような本質主義者ではない。彼が用いる漸進的な芸術素材の概念は、特定カテゴリーの実践の可能性を、経験主義的な現実から排除された結果のあらわれなのだと規定する。

アドルノの関心は芸術の未来にではなく、啓蒙の合理性によって最も脅かされている感覚的な特殊性、理性の死、個の実体的観念、真正な幸福といった要素の救出にある。モダニズムの理論は、まさにそのようなカテゴリー的な要求を、歴史の中に相続する。そのようなカテゴリー的要求は現代社会の内部において力強く実現されるのだが、もし高等芸術がその社会の内部だけに位置するものであったのならば、アドルノにとってはその点が重要な事柄になっていたはずだ。だが、もしそうでないのなら、それは文化の批判として解釈されるべきである。実際に、文化産業と高等芸術には密接なつながりがある。両者の内向きな崩壊の瞬間とは、まさに両者の交感の瞬間なのであり、それはまた、両者の差異の虚偽の妥協でもある。それはつまり最も端的に、普遍と特殊との虚偽の妥協であると理解できるのだが、そうした見解こそ擁護するに値するのではないだろうか。その点をもう少し考察する。

ルカーチ的楽天主義は、そのナイーブな性格で、マスメディアが表現する際の自らの萎縮を指摘した。メディアはその萎縮を通過しなければ、社会批判とイデオロギー的逆転の媒体となり得ないのだと彼は言う。今では当時よりも効果的に多様性がマスメディアの中に存在するとはいえ、それほど自明なことではない。1950年代の終わり頃までに、意識の単一化は資本の増大という意味において、非生産的なものになった。そこで新たな需要に対する新たな商品の開発が必要になるのだが、それは一旦排除された最小限度の否定性の復活を要求した。それは、モダニズムの時代と戦後の統一と安定の時期を通じて芸術の特権であった新たなものへの崇拝が、それをもともと生じさせた資本の拡大へと回帰したことを意味している。

その問題は否定的な事柄であるとはいえ、日々の生活の基本的な仕組みの変更を予感させるようなものではない。したがって、それはショッキングなことでも、また開放を促すような問題でもない。資本は文化産業を通じて、絶え間なく新たな異なる商品を生産することで否定の活力を通時的なものとし、加えて新たなライフスタイルの促進を共時的に選択する。新たなライフスタイルとはまさに文化産業による芸術形式の再利用を意味するのだが、それはかつては否定の機会を含んでいた美的カテゴリーを変容し、それを商品の消費の質として再現する。したがって、ライフスタイルの役割の競合的な拡大と、そのスタイルの家庭への浸透、そして生産品がそれらの宣伝するイメージの直接的な拡張となる方法、そのような現象のすべてが、文化産業と日々の生活とのギャップの消滅や、社会的現実の審美化の証となる。消費社会では商品それ自体がイメージ、表現、見せ物になるのであり、使用価値は包装と宣伝に取ってかえられる。美術作品は商品へと変化することで享受され、また、そのような美術の商品化が商品を審美化するのだが、それは芸術の終焉を予兆する。

ポストモダン期の文化産業は、芸術と生活の差異の消滅という、まさにアヴァンギャルドが絶えることなく要求し続けたものを達成した。だが、そうした状況の中で、現代の芸術には重大な自己矛盾が発生する。社会の現実はますますユートピアを遠ざけ、同時に慰めや幻(まぼろし)を大衆に与えることで、非ユートピア的な世界の実現を、その罪悪から遠ざけようとする。その一方で、芸術は正直に自らがユートピア的であることを欲し、またそうあらねばならないと思い込んでいる。そのような矛盾を抱えつつ、もしも芸術のユートピアが達成されるとすれば、それも芸術の終焉を意味することになるだろう。文化産業は常に慰めと幻を巧みにあやつりながら、モダニストの力の衰退から利益を得てきた。文化産業は対戦相手としての美的モダニズムに対する成熟した非難をすることもなく、異形の美的形態と社会形態とを絡ませることができたのである。

そのようにしてブルジョア芸術による幸福の約束は消滅するのだが、それは分散化された喜びと強い幸福との間の差異の消滅の表現だと解釈される。そして、その解釈は、文化産業はポルノグラフィックであると同時に潔癖であるというアドルノの見方をベースにしたものだ。差異の消滅は、統合的な作品に対する期待の消滅と、不協和音を響かせる批評的瞬間の対位法と言う意味での、ユニークな作品の制作とその享受に対する要求の昇華と消滅とを意味している。とはいえ、文化産業が昇華を否定するその努力が、欲望の充足や作品の倫理の抑圧の真の克服へと結び付いているというわけではない。個々に対する適度な概念が欠落する状況においては、新たな文化的基盤が、個々が放つ欲望の力に対して、少なくともそれと同程度の攻撃を加えることになるからである。

芸術の形式は昇華への道筋を規定しようと圧力をかけてくる。だが、そうした圧力を受けるまでもなく、昇華しきれない欲望は偽りの慰み、そして、まずはじめに昇華からの脱却の必要性を促した真の幸福の障害と呼べるものに、自らが対峙しているのだという状況を理解する。文化産業はそれへの返答として、作品の制作とその審美化を模倣することで、鑑賞者が何も無いということに満足を得られなかったのだという事実を告発する。厳格な形式からユートピア的な差異の戯れへの開放は、資本主義のもとでの生活の抑圧と単なる幻影としての高等文化の力動からの、崇高なる開放をもたらしたはずである。

だが、ポストモダン的崇高はそのような事のかわりに、閉鎖的な形式のアプリオリを見事なまでに破壊しながら、高級と低級との克服を攻撃的に主張する。芸術と生活実践との統合における開放の瞬間を見るまでもなく、ポストモダン的崇高はその主張を通じて、崇高の暴力的な欲望の抑圧を恒久化する。その道筋において、ポストモダンの仮定的な肯定は、希望しなかった死への祝い事でもあるかのように抑圧を満足として提供し、自己否定の瞬間を永続的なものにしてしまう。なぜなら、ポストモダン的実践は、変更を加えることなく経験的な世界を改めようとするのだが、その抽象的な断言は、偽をもってそこで引き伸ばされる絶望を示すからである。その絶望には侵略や暴力の兆候が見られるが、その暴力とはメディアによって再現され開拓され讃えられたものである。アドルノが非同一と呼ぶ、手段としての理性によって感覚的な特殊性のうえに永続化される暴力は、暴力によってのみ回答される。

加えて、そのような状況をさらに悪化させるのは、 高等芸術を目立たせるものが極めて少ないか、あるいは何もないということだ。もしも伝統的なハイモダニズムの批判的な力が疲弊したのだというのならば、ポストモダニズムは単に偶然またはでたらめに、強い否定の瞬間を生み出すための方策を発見したということになる。その事実は現在の美的生産物を侵食しているが、それは個々のモダニストの作品だけにではなく、一時的にモダニズムを文化的に重要なものにした、文化の否定的な役割を延長させた芸術的モダニズムのプロジェクトそのものにも存在する。ポストモダニズムという定義は、可能性に欠けている。だがそれは、ポストモダニズムへの批判を予言するものではなく、またモダニズムの論理への回帰を求めるものでもない。歴史がモダニズムに暗い影を落とすことになったのは、ポストモダニズムの失敗のためではない。ポストモダニズムの状況は、モダニズムのそれよりもより難解で組織立ったものではないし、ポストモダニズムの芸術家は、もはや彼らの作品の生産活動を先導する素材や、彼ら自身の芸術の論理を信頼することができなくなったのである。

ポストモダニズムが試みる高級と低級芸術の統合は漂流する。そうなるのは、モダニズムや伝統的芸術が、経験的事実を破壊的な結果とともに審美化するのだという事実を忘れ、加えて、批判的に示される高級と低級芸術の分かれ目を忘却したか、あるいは全く知らないうちに、それぞれをの統一を試みるからだ。そして、そのようなことが、ポストモダニズムへの称賛を躊躇させるのだ。まずはポップアートが、加えて魔術的なリアリズムがその適切な一例としてあげられる。それはいかなる手段を用いてでもモダニズムのプロジェクトを継続するために、否定性を工夫という意味に解釈しながら、統合的な展開を引き継ごうとする。どのような見方においても、ポストモダニズムは二つの領域の真の統合をつくり出すことによって、偉大な分裂を克服することに成功しなかった。それは資本の要求に屈服した偽の統合であるか、モダニズムのプロジェクトを継続するための偶発的な手順、つまり否定のプロジェクトなのであり、それは普遍と特殊の統合が架空のものである限りにおいて継続されるだろう。そのようなポストモダンの状態は、その空想的な状況の縮小というよりも、むしろ悪化といえるものだ。

確かにアドルノには、文化産業の同質性の目標を過度に強調する傾向が見られるかもしれない。だがそれにもかかわらず彼の理論と分析は、虚偽の個性と個性、快楽と幸福、コンセンサスと自由、虚偽の行為と行為、架空の非似性と同一でない非似性といった事柄を連続的に喚起させる。そして、それらと血縁関係にある事象の分析は、アドルノの批判理論の本質的な核心をなすものだ。おそらく文化産業が生み出す中立化と退行とは、アドルノが描くようなものなのだろう。現在の文化産業の表層的な論理がアドルノの執筆時期のそれとは劇的に異なるにしても、その効果は奇怪なほどに一致する。アドルノは明確に文化産業の軌道と、それを気取る脅迫に直面したのであり、現実のものとなった彼の最も悲観的な予想が、彼の文化産業に関する執筆を不快なまでに時宜を得たものにしているのである。

参考文献
"On the fetish character in music and the regression of listening" in The Culture Industory: Selecten Essay on Mass Culture: Theodor W. Adorno, Routledge, 1991

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