J・カラー、接ぎ木

フロイトは自我以前の本能の領域にある無意識的な自我を、イド(エス)として規定する。イドは精神の底部に位置しつつ、いかなる矛盾、社会的な法や秩序からも自由で原初的な存在、道徳や価値観から距離を置く存在として、現実世界と接触することで自我を形成する。自我は心の層としてイドと現実世界との軋轢を調停するが、意識的な自我と無意識的なイドとが直に接触するわけではなく、自我の第一段階として超自我が設定されることになる。超自我は両親の権威のもとに保護された環境下で形成されはじめ、やがて両親の権威が社会的権威へと移行してゆく過程で、そのような一連の権威からの制限と拘束とが、個人の内部で内面化されることによって成熟する。

イドと現実世界との軋轢の調整弁として自我が形成され、その自我の発展を超自我が助長する。超自我は父に対する憧れの代償としての形成物で、その内部にとどまる父や規則等から下された命令や禁止の残亡が、良心として道徳的な監視を執り行う。超自我は自我そのものから分裂した自我の第一段階であり、自我と対立しながら自我の発展を促進する。

そのような自我の発展過程で忘れてはならないのが、現実原則の確立と進化である。快楽は人間の原初的段階を支配する自然なものだが、それゆえ社会的制度と衝突する。現実原則とはその葛藤から生まれる新たな心的原理であり、快楽によって退けられた不快をてこに、現実との妥協を図ろうと試みる。現実原則は一時的で破壊的な快楽原則を制限し延期するために、次第にその進行の度合いを深め、快楽に一定の秩序を与えながら、人間の内部に組織化された自我を形成させる。

この原則を記すフロイトの論文、「快楽原則を越えて」は各所で引用され応用されているが、脱構築においても例外ではない。接ぎ木(Graft)に関わる部分もそのひとつで、フロイトが本論で用いる「フォルト・ダー」の遊技を引き合いに出し、脱構築との関わり合いが述べられる。

脱構築における接ぎ木とは、テクストの理論を思考するために行う増殖のことで、活字上の操作や挿入の過程のことを意味している。接ぎ木という概念から脱構築を眺めると、脱構築は単なる対立関係の克服を越えた試みとして、分析するテクストの中にある接ぎ木を確認し明証する作業であることが確認される。ある議論とは、他の議論の接ぎ木として挿入された接合点や緊張点なのであり、接ぎ木はテクストの非均質性を描き出す。それが予見するのは、言語が異なるテクストで異なる力を発揮し機能する能力の可能性、つまり言語の反復可能性である。

接ぎ木に注目することで、ある言語表現の他の言語表現への挿入や、解釈する言語表現への解釈者自身の介入を通じて、ある言語表現をさまざまな組み合わせの結果として再考することが可能になる。接ぎ木は複数の言語における結びつきや相互関係を追求し、それらの属性を交換し、それぞれの位置を反転する。言葉に言葉を接ぐという行為、他のテクストや自らのテクストに注釈を加えそれについて説明したり説明するように見せかけるという行為とは、テクストが述べる内容を、そのテクストがそれを述べる過程そのものに適用するということだ。テクストにはそれ自身が使う手続が記述されているのであり、接ぎ木はそれを露呈する。

フロイトの論文「快楽原則を越えて」において、接ぎ木に関連して議論されること、それは彼自身が書いたものが、彼の描き出す過程によって支配されているのかどうか(その例証になっているのかどうか)ということだ。

フロイトが孫について述べたことを、フロイトの考察そのものに当てはめることで、(快楽を回帰させるために快楽を追放するという)「フォルト・ダー」の遊技における行いを、彼自身が考察するフロイトの考察する姿として浮かび上がらせる(この遊戯では、思弁を通して異種間の同語反復が行われるのだが、この反復はどこへも行き着かず、前進することもない)。だが、その状況は曖昧で、フロイト自身の行いが彼の検討している構造の反復なのか、特定の文章構造の結果としての構造のあらわれなのかがはっきりしない。つまり、そこで検証されているのは、テクストの潜在的な自己言及性、テクスト自体が自らの意味作用の過程を記述するという状況である。そのような自己による包含はテクストの境界線を不明瞭にするのであり、テクストが用いる手続きに問題が含まれていることを示唆している。ここでは、テクストの潜在的な自己言及性が接ぎ木によって検証される。

接ぎ木は一枚岩ではなく、それ自体いくつかの異なる接ぎ木に分類される。まず最初は、ある言説がその分析対象とする構造を繰り返す接ぎ木で、そこに潜むカラクリが、その転移によって示される。次は、先行する解釈的な接ぎ木を反転する接ぎ木で、分析しているテクストが分析される姿を逆転的に明示する。分析の結果、分析されているテクストにはもともとその分析に対する説明が含まれていたということが立証される。そしてもうひとつは、知名度の低いテクストの伝統的かつ根源的なテクストへの接ぎ木や、脚注のような周縁的な要素を重要な場所へと移動する接ぎ木である。周縁的なものに注意を移すこの接ぎ木では、それらが排除されていたまさにその理由によって、その重要性が浮き彫りになる。

脱構築とは概念を移動させることではなく、概念の秩序をそれを文節化している非概念的な秩序とともに逆転させ、その位置をずらせることなのだが、接ぎ木はその二重性を指摘する。解釈は一般に中心的と周縁的、本質的と非本質的というような階層的な修飾関係に基づいて行われる。その関係においてはテクストの中心の発見と規定から解答が導かれるのだが、そこに周縁的な何かが接ぎ木されると階層秩序が逆転され、周縁だとされてきたものが実は中心だったということが示される。だが、それは新たな中心を策定するということではなく、その逆転を通して行われる本質と非本質、内部と外部の区別自体を転覆するということだ。接ぎ木は転覆によって暴露される中心と、均衡を壊す解釈に宿り安定を揺るがす力という、二つの存在で成り立つテクストの二重性を実践し、明証する。

接ぎ木は、話し言葉は書き言葉の一形態であるという考え方を推し進め、話し言葉を包含する書き言葉というものを提起する。そこで一般的に注目されるのが属性である。書き言葉の属性とは、(ロゴス中心主義の)階層秩序を基にするテクストが完成へと向かう過程において、その中核となる力が組織化の動きに抵抗する種々の力を抑圧し排除する中で、まさにその力が生み出す還元できない残余のことである。その過程とは属性に潜む一般化への生成力を解放し、新たな書き言葉の概念に接ぎ木をするということであると同時に、接ぎ木の構造を保持したまま既成の歴史的領野へ効果的に介入し、それに強固に絡みつくということだ。この絡みつき、介入が、抑圧され排除されるものに新たな対話の機会と能力を付与するのだが、それこそが接ぎ木の、また脱構築の役割である。

そのような接ぎ木に加え、特定の一語を生み出す音韻、文字形態、語形、語源などの次元での意味論上でのつながりを利用するもう一つの接ぎ木がある。詩的技法ともいえるような接ぎ木で、新たな関連を創造し、伝統的な思考習慣にくさびを打つ。その接ぎ木は、ある言葉や話の語源や形態にひねりの圧力を加えることで、下書き、輪郭、計画というような中心部にある裂け目や隙間を露にする。とりわけ、その語源的要素が差延(différance)の例であるならば、その力はさらに倍加する。他の語との関連から新たな場所へと配置される語としては、余白、徴、足跡などがあげられる。

注)執筆に際し、フロイトに関しては筆者のメモ、接ぎ木に関してはカラーの著書を参照した。ここでは文章の性格上、クオテーションは省略する。

参考文献
ディコンストラクション I:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985
On Deconstruction: Jonathan Culler, Cornell University Press, 1982

ジャック・デリダ

J・カラー、脱構築とフロイトの理論

精神分析それ自体は保守的な制度であり、フロイトの理論もそれに準じたものである。脱構築はその理論の中に階層秩序の逆転という、思考や行動を変貌させる力が秘められている点に着目する。フロイトの理論には、その実践を含むさまざまな制度や前提に対する批判を提供し、それを継続的に実行する力が秘められている。制度化とは、ある理論における最もラディカルな力による圧迫を意味している。その力は理論や言説が制度に疑問を投げかけ反省を迫る場面において、最も顕著に表面化する。それに対抗するのは、むしろ一風変わった理論であることが少なくなく、それが功を奏すると、不変を特殊で周縁的なものへと変貌させる契機をつくり出す。そのような意味において、フロイトの理論は諸々の対立を逆転し歪ませて、ある領域全体を変貌に導くという脱構築の戦略に符合する。

精神分析の保守性を引きづるフロイトの理論は、まず一連の階層秩序的な対立から開始する。したがって、あらゆるケースにおいて対立の第一項が充実したものとして優先され、第二項はその否定や混乱として保持される。第二項は不必要な変異形として第一項の周縁部に置かれるが、フロイトの理論はこの対立を自らの内に脱構築する。第二項を抑圧する欲望が本来目指していたものとは何なのか。それを露にするわけだが、そこで明証されるのは、第一項とは実際には第二項が表現するそれよりさらに根源的な何かが抑圧される過程で変形され生み出される特殊型だったという事実である。

フロイトは病的症状の実例の研究から精神の最も一般的な働きを発見するのだが、その研究においては、周縁的で変異的な項の理解が、先立つ項を理解するための条件になる。発見が示すのは、正気とは神経症の特殊な兆候であり、ある種の社会的要求と調和した一種の神経症にしか過ぎないということで、その事実は社会的にも広く認知されている。フロイトが行う神経症の研究では、このように不健全な適応を通じて健全な適応が示されるのだが、脱構築ではフロイト理論におけるそうした衝撃的な逆転の力を、中心と周縁との逆転の契機を模索する脱構築的な逆転の理論に並走する力であるとしてとりあげる。

デカルトをはじめとする人間主義の伝統においては、主体としての人間は(我とは思考し、知覚し、感覚するものとして)意識によって規程されてきた。フロイトは人間の生の中で果たしている力の中心を、無意識を要因とする構造とすり替えることで伝統を問い直し、意識の方を無意識的過程から派生したむしろ特殊なものだと規定した。無意識とは意識が決して到達できない領域であり、それは単なる抑圧された現実の経験の層や隠された現前性というようなものではない。無意識は一次抑圧において、抑圧されると同時に抑圧を加えもする。それは能動的な動きであり、抑圧によって構成されると同時に、積極的に抑圧を行い他を構成する。脱構築はそのような機能を受けて、無意識を根源とはなりえない根源として、その内に秘める差異化の中に差異の、差異の中に差異化の、非在の根源を見つめる差延の機能に着目する。

無意識の機能を見てゆくと、そこにはテクストに似た差異的な動きが発見される。人間主体においては何ひとつ単純なものはなく、思考も欲望もあらかじめ二重化され、分割されているのだが、同様に無意識そのものも単純な隠された現実などではなく、つねに複雑で差異的な様相を示している。無意識とは隠された虚像、潜在的な自己などではなく、そこに現前性は存在しない。無意識とは自らを差異化し遅延させる、差異の織物なのである。この遅延の効果はフロイトが例示する症例の中に端的に示されている。フロイトが例示する患者の症状の原因となる本来の場面は、それ自体が直接に外傷を与えることはなく、後に見た場面が原像を新たな場面へと変形するのだが、それが遅延の効果を説明する。記憶はそのような遅延の効果によってのみ、外傷となり抑圧されることになるのだが、その効果は起源となる出来事や原因の遡及性(過去に遡って現前させることはできない)、ひいてはそれらの非存在(それはどこにも存在しない)を示している。

無意識による差異化や遅延化は代理への委任を行うことからはじまるが、それを委任するのは自己でも、他のどこかに存在するものでもない。その点においてわれわれは意識を持つことが不可能になる。それが示すのは、現前を建前とする形式に寄り添う根源的な他者の存在、あるいは他者性であり、遅延が産み出す効果はそれを表象する。無意識に潜む他者性の中にわれわれが発見するものは、一連の変形された現在ではなく、これまで一度も現前しなかったし、これからも決して現前しないであろう過去であり、その未来はそれが生産するものでも、現前性というかたちをとって再生産するものでも決してない。そこで、純粋な生気に満ちたものだと思われていた現在のイメージは覆され、単なる再構成されたものとして、その体験は不可欠なものでも、充実した生きた絶対的なものでもないということが理解される。

フロイトの理論から導き出されるのは、遅延の効果の他への還元不可能性である。無意識とは意味と力の結合する純粋な差異の痕跡が織りなすテクストなのであり、それはすでに転写された古文書によって構成される、どこにも現前しないテクストなのである。それは同時に最初からすべてが複製で成り立つ根源としてのコピーであり、一度も現前したことのない意味を保管する、意味内容の現前性がつねに遅延によって事後的に、また補遺的に再構成されてゆくような意味の貯蔵庫なのである。

フロイトが彼の「快楽原則を越えて」の中で示した死の本能は、このような脱構築的な思惑の一例としてあげられる。快楽原則が死の本能に奉仕しているように見えるのは、そこに脱構築的逆転が潜んでいるからだ。生を積極的な項、死をその否定項として、生対死という二項対立が成り立つが、フロイトは無機的な状態へと向かう死の本能こそが、最も強力な生命の力であると訴えた。生とは生の終着点に対する遅延の連続にしか過ぎず、そこで死の本能が反復脅迫のかたちをとってあらわれる。死の本能は生の本能の活動を、反復と消耗という普遍的形式の中の特殊なケースへと置き換える。

注)執筆にはカラーの著書を参照しているが、文章の性格上、クオテーションは省略する。

参考文献
ディコンストラクション I、ディコンストラクション II:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985
On Deconstruction: Jonathan Culler, Cornell University Press, 1982

ジャック・デリダ

J・カラー、階層秩序の概要と脱構築

社会の隅々にまで浸透した階層秩序を解消するのは容易なことではない。階差とは言説が設定するもので、またそこには何らかの利害関係が絡みついている以上、単に平等を主張するだけで崩壊させるのは不可能だ。階層秩序の典型として男女間のそれが例示されようが、「男女」と男を先に記すその慣習を見ても、問題の根深さがうかがえる。典型的な階層秩序を検討することで、諸々の対象と状況が異なる階層秩序構造の理解も可能になるはずだ。それらの根本原理にさしたる違いは存在しない。

男女間における階層秩序は、われわれをとりまく歴史、文学、哲学あるい精神分析といった言説の内部に根深く浸透するものだ。男性的感覚によって支えられる言説で、女性を排除可能なものとして、一段低い地点に配置する。女性は常に補遺的なものとして扱われ、議論では特殊例として含有される。女性は男性代名詞によって排除されるのだが、その排除について語られることは一切ない。仮に女性を配慮する場合には、男性との関係における他者として規定される。一方で真理、自由、神といった超越的なものに女性の姿をあしらい神格化する行為がある。だが実際にそれを執り行うのは男性で、現実の女性は超越した女性の偶像との比較によって、周縁的なものへと貶められる。女性の賞揚や神格化は、むしろ女性を文化の生産体系から離れさせ、歴史からの排除が助長される。

階層秩序の内容を脱構築的な視点から概観する。そこでは、現前性と非在(presence/absence)における二項関係の空転を階層関係と見立て、解決方法が示される。現前性が期待される力を発揮するためには、それに対立する非在に属する性質をその現前性が所有している必要があるが、脱構築はその構造を解説する。脱構築の過程においては、非在を現前性から見た否定形として規定するのではなく、現前性それ自体を非在の効果、あるいは差延(différance)の効果として取り扱う。その結果、階層秩序的な対立に潜むイデオロギー的性格が、その言説自体によって暴露されることになる。言説が構築する秩序が転覆される地点を、その言説自らが指し示すのである。

脱構築はその具体的なプロセスとして、フロイトの精神分析論を例にとる。フロイトの精神分析論はファルス中心主義(=ロゴス中心主義)を軸とする言説として、男女間の階層秩序を理論的に形式化する。本論はペニス羨望によって女性の精神を規定する。ペニスを起点とすることで、女性は補遺的な、あるいは寄生的なものとして、男性の否定型、あるいは常識からの逸脱として規定される。女性はペニスを欠いた生物であり、ペニスの欠如が女性の本質として規定される。女性はこの欠如を去勢であると理解することで、男性の優越と女性の劣等を自ら認めることになる。そのようなプロセスが、女性を不完全な男性として、女の性を本来の男の性の抑圧なのだと規定する。女性の精神をペニス羨望を通じて規定するというフロイトの方法は、女性を理論的に不完全な性だとして貶めると同時に、正常な男の性のありかたを実現させる。

ペニス羨望や去勢コンプレックス等、女性の特徴を構成する要素を偶発的なものではなく本質的なものだと前提する理論は、女性の立ち位置を歴史的条件の兆候としてではなく、人間の必然性を起点とする絶対的なものであると錯覚させる。男性の権威はそのような女性の貶めと引換に確保され、非歴史的な必然性として正当化されてきた。女性はペニス羨望を持つものだと前提し、女の性を不完全なものだと規定するフロイトの行う去勢操作に助けられ、男性はその性的能力を保持しつつ、自らを文明化してきたのである。フロイトの理論は、女性を男性に欲望される性的対象として、また、男の性のありかたを正当化するための根拠として規定する。

精神分析という言説の仕組みをとらえ、それが女性に与える位置を理解することで、女性を圧迫する理論が明証される。だが重要なのは、その仕組みの内部には、それ自体を転倒させるある構造が隠されているということだ。そこに潜む非在の属性を理解するすことで、男性という現前性の本質が浮き上がる。フロイトの理論においては諸々の既定を導き出すために、不安が性的衝動を構築するという仕組みがまず前提され、その中で諸々の力が作用するのだが、それは理論がそうした諸力を動機とした男性の捏造物であるという事実を自らさらけ出している。

フロイトの理論は女性を派生的で依存的なものとして、ファルス的な性の抑圧、男の性が劣化したものだと前提するために、女性に二重の性を強要する。両性具有というわけだが、それには自己内部に他者の性質を受け入れるという意味が含まれる。フロイトは子供を両性具有的な性質を持つ存在として、そこを起点に女という意識の誕生を理解してゆくが、両性具有を媒介とする子供と女性の交錯は、女性を性の基準として取り扱うことになる。両性具有の主張は、男性を女性の特殊な例(*)として扱うことになり、彼自身が築き上げた男女の階層秩序的な関係は、疑問に付されることになる。

フロイトの精神分析における男女の階層秩序的対立を構築する動き。実はそれ自体が階層秩序を転倒する前提の上に成り立っていた。脱構築的な解読が明証するのは、男性の自己同一性とそれが主張する支配が、実は性的な、また政治的な幻想に基づくものにしか過ぎないという事実である。その明証は、ジェンダーをとりまく階差の修辞的逆転可能性を通じた、諸々の階差の転覆を示唆している。

(*)この脱構築を語るジャック・デリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)が述べるところの、原・女性の変異型。

注)執筆にはカラーの著書を参照しているが、文章の性格上、クオテーションは省略する。

参考文献
ディコンストラクション II:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985
On Deconstruction: Jonathan Culler, Cornell University Press, 1982

ジャック・デリダ

J・カラー、形而上学と言葉、脱構築の概要

哲学的概念は自らを形而上学として、それを欠くことのできない任務、最も恒常的で、深淵で、有効な手続きであると位置づけつつ、その利益を温存するために平然と抑圧を行使し、自らを歴史であると確定してきた。そこで哲学的概念、形而上学が隠蔽し排除してきたものを暴露し、その内容を見極める種々の戦略が立案されてきたのだが、そのひとつが脱構築(ディコンストラクション)である。脱構築は、哲学の言説を支える階層秩序的な対立をその言説自身が突き崩すその有様を引きづり出して、足場から突き崩すことを目的とする思想である。なお、一般に脱構築とは、それを進展させたジャック・デリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)個人に帰する思想であり、その解読とはデリダの思想を読み取ることに他ならない。

脱構築を確認する手順。それは、まず最初に脱構築的な視点から見た哲学を支える言説の外形を確認し、次に脱構築の基本概念をそれを基に俯瞰する。哲学は自身を支える言語の透明性を主張する。そこで哲学の言説は、自らを書くことに対置する。一方、脱構築は哲学をまず「書かれたもの」だと前提する。脱構築はその前提において、形而上学をわれわれの実践や権限を支配する制度的構造の基盤として、その力を独自の分析によって解析する。

形而上学を支えるのは、論理、理性、真理といった事柄だが、それらは書き言葉を疎外することで、それらが再現しようとする意識にある物質性や非超越的な特性からの影響を排除しようと試みる。他者の、また書き手の思惑は永遠に閉じられたものであり、したがって言語の透明性は常に担保されなければならないが、言語の物質性はその担保を妨げる。哲学は言葉によって影響されない厳密な学問、思考と理性の学問として、書きものを超越した地点において自らを規程する必要がある。それゆえ哲学は、意味するものによる思考の汚染を誘発する文字や書くという行為をことごとく否定する。

書くことを話される言葉の単なる人為的な代用物とする思考を音声中心主義と呼ぶ。そして、その思考はロゴス中心主義に直結する。ロゴス中心主義においては、基本として存在する思考、真理、理性、論理、ロゴスなどの意味のレベルを哲学が既定する。それは二項対立の第一項の優先を常に想定し、第一項との関係において、第二項をその複雑化、否定、顕在化、あるいは前壊形態として低い位置に押し込める。そのような階層関係の維持を通じて、哲学は現前性の形而上学であると定義し、現前性は存在者の存在を表象するものとして、根底、原理、中心に関連する言葉を現前性という第一の常項へと昇華する。それは理想化と称して、まず単純、完全、正常、純粋、標準、自己同一であるとみなされる根源または先行者に回帰し、その後に派生、複雑化、劣化、偶有性などを思考するというプロセスをとる。それは常に善の次に悪、肯定的なものの次に否定的なもの、純粋なものの次に不純なもの、単純なものの次に複雑なもの、本質的なものの次に偶有的なもの、模倣されるものの次に模倣という順序でそれぞれを配置する。

ロゴス中心主義とは現前性の力に依存する思考であり、それは感覚の直接性、究極的な真理の、絶えることない意識への現前を表明する。それはまた、歴史的発展の裏付けを規定する起源の存在、自発的で直接的な直感、弁証法的綜合におけるテーゼとアンチテーゼの相互転写等の枠組みを通じて、現前性のもつ権威と価値を、暗黙のうちにわれわれの思考の構造へと染み込ませる。明確にする、把握する、証明する、開示する、実状を示すなどの考え方は、すべてこのような現前性をふまえたものである。

われわれはそのように身近に偏在する現前性の形而上学に対して、どのような方策を講じることができるのだろうか。そのひとつとしてあげられるのが脱構築という試みで、所与として、つまり基本的構成要素として疎外されるものが、すでに他の何ものかによって産出されたものであるという事実を暴き出し、単純で純粋な現前性のもつ権威を剥奪する。脱構築は、語の意味に先行する発話行為が、痕跡、つまり成果としての差異を含むこと、意味は差異によって刻印され産出されるものであるということに着目する。哲学(=確実な基盤をもとめる言語観)は、話し言葉の優位性を通じて、意味作用の瞬間に意識に現前するのが意味であると主張するが、その現前性にはすでに差異が含まれている。言語は常に差異を産出し、決して止むことはない。

差延

脱構築では差異と差異化が重視されるが、それを確定するツールのひとつとして「差延」という語が示される。差延は差異という語の変形で、書くことを単なる話しことばの再現という固定観念から切り離し、その効果を実証する。差延は意味に関する理論を導き転倒させ問題点を暴き出すが、その要旨となるのは、現前と非在の対立からは考えられない構造、運動、差異の戯れ(諸要素を互いに結びつける間隔の体系的な戯れ)、差異の痕跡の戯れである。差異の戯れが含む諸々の統合と相互指示関係は、それ自体として現前し、それ自体のみを指し示す単純な要素の存在を常に拒む。書かれたものか、話されたものにかかわらず、ある要素は他の要素に関係してはじめて記号として機能するのであり、その他の要素もそれ自体として現前することはない。書記素(grapheme)や音素(phoneme)等、個々の要素は、その連鎖とシステムに属する他の要素の痕跡を自らの内に秘め、その痕跡との関係によって構成され、成立する。その結び付きはテクストへとを引き継がれ、テクストを他のテクストの変形を通じて産出された織物だと定義させる。各要素にせよ、テクストにせよ、その内部には明確に現前するものも、非在であるものも見当たらず、そこにはただ差異と、痕跡の痕跡とが偏在する。

脱構築が対峙するのは、歴史、生命等のシステムの一契機として、必然的に存在し続けてきた音声の特権化である。それが造り上げるのは、内部に閉じこもる非現実的なもの、非経験的、非偶然的な状態を意味するものとして自らを現前させる音声という実態を通じて自らが話すのを聞くというシステムで、現実と非現実、外部と内部、観念性と非観念性、普遍と特殊、先験的と経験的などの階差にもとづき、時代を通じて世界史を支配し、世界や起源という観念を作り出してきた。

プラトンは書かれた言葉を伝達の劣化形態だと規定したが、確かにそれを成り立たせる物理的な刻印と、それを産出したと考えられる思考との間には分裂が認められ、書かれたことばが話し手の不在のもとで機能する以上、ある程度のことばの歪みは禁じ得ない。そこで話し言葉は意味と直接に接触し話し手からその現在の思考をそのまま写し出す透明な記号として、哲学の語りの場では常に優先されてきた。

話し言葉における、言葉の意味との直接的な接触、自らが話すのを聞くということは、音声において意味が消失するということを示している。意味するものは話し手の眼前で自らの姿を打ち消して、話し手を話し手の思考に密着させるので、話し手はその思考に直接接近するような感覚を味わうことになる。何かを話す場面では、話を聞くということと、その理解が同時に発生する。それは意味されるものが自我の内部から自らを産出し、意味された概念として理念性や普遍性を獲得するということであり、その結果として内部から思考に対して透明な何かが立ち現れる。重要なのは、意味するものの消失が、それによって生じる客観性(反復可能性と、その可能性によって表現の中に変わらぬ形で存在するひとつの意味)と、うわべの表現に対する意味の優越性とを結び付け、真理という観念の達成を準備するということだ。真理という観念を策定するためには、表現の手段による変化や影響を被ったりすることのない安定性が要求されるが、そのための不可欠のモデルとして音声が浮上する。

それに対して脱構築は、話し言葉とそれについての意識(自己現前としての意識)とは、(意味するものの不透明性の末端を現前性の起源とする)差延による抑圧として体験される自己触発の表れだということを指し示す。真理という観念はその外的表現との対立における支配力を利用して、意味と形態との区別による階層秩序的な関係を打ち立ててきた。話し言葉が書き言葉の上に置かれてきた理由はそこにあるが、階層秩序的な対立を前提とするテクストにおいて、書き言葉における性質が話し言葉にも内包されていることが判明すると、その前提の足場がすくわれることになる。哲学はその基礎や根拠に現前性を据えてきた。それゆえ哲学は、それが実は差異のシステム、あるいは差異化による遅延のシステムによって産出されたものだということが暴露されると解体される。

注)執筆にはカラーの著書を参照しているが、文章の性格上、クオテーションは省略する。

参考文献
ディコンストラクション II:ジョナサン・カラー、富山 太佳夫・折島 正司(訳)、岩波現代選書、1985
On Deconstruction: Jonathan Culler, Cornell University Press, 1982

ジャック・デリダ

アドルノとイデオロギー

イデオロギーはその対極にあるものを真実や理論としてではなく、差異や異種混淆性として認識する。

後期資本主義社会における等価関係は虚偽的だが、その偽りの等価性のもと、支配的イデオロギーは同一化思考のひとつの形式として、我々の個性や多様性を自らの模像に変更するか、外部へと排除する。先進資本主義における物象化され官僚化された管理社会は、いかなる矛盾をも抑え込む同一性原理の過程を完璧に模倣する。そのイデオロギーは形而上学的な絶対概念や超越的思考に準拠しつつ、他者としての我々を、自らの同一性へと暴力的に還元する(*)。

一時期、アドルノが用いた差異や異種混淆性という概念が、ポストモダン的な思考を暗示するものとして、再読されたことがある。だが実際の彼の思想は、差異を無条件に擁護するわけでも、同一性原理をすべて否定するわけでもない。アドルノは多様性にもとづく共存による真の調和の達成というユートピアを描いたが、それはイデオロギーと商品生産が、歴史に強制する偽りの等価性(同質性)から歴史そのものを開放することで得られる理念であり、それを達成するためには、同一性の概念と差異性の概念の両方を超越する必要があった。

アドルノは同一性をイデオロギーの原初的な形式であると規定し、その束縛から逃れるために、思考と現実、概念とその対象との間に横たわる本質的な非同一性を提起する。イデオロギーを、個性的な現象を同一化し世界を同質化するものとして、その打破を、思考の中への異種混淆的なものの包含として目論む、そのような思考形式を、アドルノは「否定弁証法」と呼ぶ。彼はそのような異種混淆性に導かれる否定的理性の範例を、専制的な全体的性質に逆行し、感覚的な個性に乗じた差異や非同一性を基盤とする純粋芸術に要求する。。。

以上はイーグルトン(Terry Eagleton、1943 - )の著書を参照し、まとめたものである。アドルノはマルクス的な物象化現象(人々の主体や社会関係が物と物との関係として再現される現象)との対比によって、先進資本主義における官僚的(硬直的に規律や権限を遵守し、合理的だが階層的)管理社会を分析し、それが行う極端な同一性原理を指向するイデオロギー的な抑圧を批判する。同時にそれへの対抗手段として、他者性、異種混淆性や周縁性の強調による政治的解決を提案するが、そのようなアドルノの手法にイーグルトンは疑念を示す。

アドルノよるハンスリック(Eduard Hanslick、1825 - 1904)等の形式主義批判と、自らの理論における形式の擁護との間には矛盾が見える。そこでイーグルトンは否定弁証法や芸術にユートピアを求めるアドルノの手法を形式主義的だと非難する一方、それを補う理論としてコミュニケーション言語の可能性を模索するハーバーマス(Jürgen Habermas、1929年 -)に着目する。ハーバーマスはヘーゲル的な啓蒙思想に着目し、リオタール(Jean-François Lyotard、1924 - 1998)等が掲げるポストモダンに反駁する学者のひとりであり、その反近代的な言説を、ニーチェ的ニヒリズムを踏襲するものとして批判する。

(*)哲学を「同一化を通じて、自らの最も奥において、社会と結び付く」ものだと考えるアドルノは、そのような状況を認識するために、「同一性」の概念を用いて思想に潜む社会との接点を考察する。アドルノにとって「同一性」は、思考と社会両者に統一する原理、認識批判を社会批判へと受け渡す媒介という意味を持つ。彼は認識と対象と概念との一致を「同一性」として、それが行なう「同一化」を批判する。思考を対象(事物)の概念(言語)としての把握であるとして、「同一化」とは、その思考が行なう、対象化による概念規定化を通じた他の事物に対する改変行為を意味している。アドルノが模索し追求するのは、そのような思考における同一化からの離脱と、非暴力的な同化の可能性である。そこで彼が注目するのがその可能性が「同一化」の原理によって支えられている「交換」の原理である。彼は「交換」を「同一化」の原理の社会的原型として指し示し、資本による人間の搾取、つまり労働の剰余価値の利潤としての剥奪を、「同一化」が孕む対象と概念の不一致が生み出す差異に例え解読する。このノートの記述には「現代哲学の名著」、アドルノの章を参照した。

参考文献
イデオロギーとは何か:テリー・イーグルトン、大橋洋一(訳)、平凡社ライブラリー、1999
不協和音:Th. W. アドルノ、三光長治・高辻和義(訳)、平凡社ライブラリー、1998
現代哲学の名著:熊野純彦編、中央公論新社、2009

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