村上龍、イビザ

村上は1976年のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」以来、人間の退廃的な一面を強調することで、日本の現代社会とそこに生きる個の姿を、寓意的に描いてきた。文学という権威的な枠組みの中で、暴力やセックス、特異な生活といった諸々の醜さを大胆に表現してゆくのが、彼の典型的な手法である。

村上が1988年に発表した短篇集、「トパーズ」では、楽天的な明るさの中に退廃の魔の手が忍び寄る、1980年代の日本社会を背景に、その底部に張り付き生存するSM嬢の姿を通じて、普段は正常の衣をまとう男性達の、社会の醜と目される彼女らの存在なしでは完結できない、はかない同一性が寓意化されている。そこで村上が見るものは、一見荒廃した風俗嬢の日常と浅薄な思考に潜む、時代を勝ち抜く術である。傍目には極限的なまでに異様で悲惨な彼女らの日常だが、そこには不思議なユーモアが垣間見られる。トパーズは村上にとって思い入れのある作品で、1992年には彼自身を監督として映像化されている。「一直線にバブルに向かう80年代末」という「決して戻ってこないもの」、「絶対に取り戻すことができないもの」の存在を甘美な感傷として回想するために、彼は今も映画のあるシーンを眺めることがあると述べている。

バブルとは過剰を意味するが、文学を含めた現代の芸術は伝統的な形式のなかに意識的に過剰を侵入させることで、歴史を省みつつ独自の真理を探求しようとしてきた。過剰、とりわけ醜として底流部分に位置づけられる神話、未開、肉体といった、いわゆる第二項に属する物質的な生々しさを強調し、受け手を差異のなかに宙吊りにするのが、現代芸術の典型的な手法である。村上もそうした手法に追随するものの、彼はそこにユーモア、笑い、明るさといった享楽を併置するのを忘れない。彼がことさら忌避するのは退屈で、彼はそれを常識に浸された権力の象徴だと断言する。

「イビザ」は「トパーズ」刊行の翌年、1989年1月から1991年11月にかけて月刊カドカワに掲載された連作を、その翌年に加筆出版した長編小説である。本書の主役は性的にルーズな一般女性だが、彼女の思考は「トパーズ」に描かれた風俗嬢に隣接する。彼女は自分に向かい合うという目的で旅に出るが、旅の途中、彼女の無知が自らを危機へと導いて行く。彼女は精神的にも肉体的にも窮地に立つが、厳しい現実に対する意識と同時に、ある種の得心と安堵感がいつも彼女の心には芽生えている。現実には足場を失い自意識の崩壊の中にある彼女だが、ある種の明るさが、狂気の中に心の平静さを保たせる。彼女の同一性を求める旅は最後に悲惨な結末を迎えるが、その場においても彼女の内からはシニカルとも解されよう笑いが立ち上がる。

本書のタイトルである「イビザ」とは、旅する彼女が最後に行き着く場所の名前である。イビザは世界遺産にも登録される、地中海に浮かぶスペイン領の風光明媚な小島であり、豊かな自然や文化と対照的な歓楽街の存在が、昼夜を問わず至福の時を演出する。だが本書は、イビザをそのような現実の姿とは関係なく、虚無の中に自らの同一性を確立しようと悪戦苦闘する人々が最後に行き着く深淵の地、不在のメタファーとして登場させる。イビザは心の不在を表象する虚構の場所であり、したがって、そこに発見されるものは何もない。虚無の中に同一性を求める旅は、破滅的な結果に終わるのだが、作者自身も示唆するように、そこにある彼女の心は、必ずしもすべてが絶望とあきらめの闇に閉ざされた、暗澹としたものではなさそうだ。

フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)は、人間が同一性の拠り所とする自らの起源を、生前すでに開始された経験を土台にするものとして、人間と自らが信じる起源との隔たりを説いた。人間の起源とは自身の同一性を表象するものではなく、他者との関連性やそれとの結合の方法にしか過ぎないと彼は言う。フーコーに限らず、主観性から関係性の追求へと変貌する現代の哲学においても、様々なアプローチを通じて人間の同一性への問いかけが行われているが、村上はそれをも意識しつつ本書を執筆したのだろうか。本書はその内容を貫く自我への問い掛けにおいて「トパーズ」とは趣を異にするが、作者が唱える同一性の探求、自我への固執に対する反駁には、彼の感性によるものか、その暗澹たる厳しさのなかに一抹の光が残される。

イビサトパーズ限りなく透明に近いブルー

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