アドルノ、時間のない流行

ジャズはある種の変革の糧として、また重層的な文化を記す地層として、概ね好意的に語られることが少なくない。そうした中で異彩を放つのが、「時間のない流行」と題されたアドルノ(Theodor W. Adorno、1903 - 1969)のジャズ論だ。ジャズを文化的虚偽の象徴として、アドルノは各所でジャズへの批判を展開してきたが、本論はそれらを集約する。現代社会に生きる人間にとってのひとつの深刻な問題を、自虐の自発的状況、抹殺の機運の外部からの主観への働きかけだと規定するアドルノは、ジャズをそれを幇助する「時間のない流行」、野蛮な現代社会における退行的な文化の象徴だとして、ジャズの本性を暴露する。

本論においてアドルノは、いわゆる「サド・マゾ的傾向」を足がかりして、ジャズの真意を暴露する。現代人は自らのサド・マゾ的気質を脱個人化の様相としてジャズの中に発見する。アドルノが参照するサド・マゾヒズムはフロイトの用語によるもので、父親像への反抗とは裏腹に、それへの敬意を示すような態度のことであり、アドルノはそれを本心の裏切りと既存の従属関係の温存として象徴的に用いている。

ファシズムの内部において、とりわけ有効に機能したのがサド・マゾヒズムだったのだが、大衆文化の内部にはそれと同様の諸傾向が存在する。ファシズムとは多分に心理的なものであり、その策定はそれを邁進する何者かの欲求にしたがって心理学的に遂行される。現代社会においてそれを引き継ぐのが資本であり、資本は新たに君臨する支配的イデオロギーとして、抽象的な社会の心理学的気質を下地に、社会が擁する大衆文化を通じて、サド・マゾヒズムを助長する。アドルノはジャズを、そうした社会の傷痕をとりわけ顕著に内包する欺瞞に満ちた大衆文化の代表、「去勢の象徴的表現の機械的再生産」を露にする大衆文化の象徴であると位置づける。ジャズはファシズムの代弁者として、挑発的な音列の裏側で自らを規格化しながら媒体の硬直化を推し進め、サド・マゾ的に支配者への服従を宣言する。

尽きることのない逸脱と過剰によって、媒体の自由な発展を演奏の中に示現する。それがジャズの約束だが、その約束は内部に仕組まれた各部の組み換え可能性や、後進的な拍子に記されるジャズの無時間性によって結局反故にされてしまう。ジャズの特徴的なシンコペーションは、社会の抑圧力の表象として、また自由を標榜するという即興演奏は、支配的なスタイルの内側にとどまる偶然性の範囲内での無為な反復というその本性をもって、ファシスト的な潜勢力を強化する。ジャズの反復は、過去を新たなものだと見せかけるための偽装として、永遠の反復を目論む社会に迎合する。ジャズの真実の姿はまさに絶望的で、抵抗の非在の証に他ならない。

ジャズは文化産業の精髄、抵抗の非在の証として社会に君臨する。だがその図式こそが、愛好家の熱狂と、愛好家同志の密接なつながりを助長する。ジャズとの邂逅を歓迎するジャズの愛好家とは、まさしく現代の制度によって去勢された人間の典型である。彼らは自らの行いを通じて、願望を実現するために願望を諦めるというサド・マゾ的な自虐行為を望ましい社会的行動としてとらえるその姿を、ジャズの中に示現する。そのような大衆自らによる去勢の肯定が、「退行的契機の機械的再生」によって、主体の心理の奥底に無味な現実世界に対する承認を取り付けるというジャズの威力を増大させ、目的の達成を確約する。

文化産業の使命として、ジャズはそれ自身の大衆的性格を再生産することで、美的昇華と社会的適応との間の妥協点を、大衆自らに探らせようと画策する。ジャズは自らの非合理性を隠蔽しつつ、フロイト的な去勢不安を強調し、自我にその成熟への虚偽の可能性を得心させようとする現代社会のイデオロギーとして、大衆の去勢を目論む現代社会の願望をまさに象徴する媒体だ。

絶望的なジャズではあるが、あるものは芸術音楽へと接近することで、それからの回避を画策する。ジャズはその実践において、作曲、素材、奏法等、そのすべてを網羅しつつ、芸術への接近を試みる。アドルノはジャズの芸術化の試みを否定するが、その理由にはジャズの回復不能な素性に加えて、彼が抱く芸術そのものに対する危機感が含まれる。ジャズとは芸術が原理的に反抗する対象の一部分の顕現である。その事実はジャズを「芸術の間違った清算」という言葉に置き換えさせ、その力を「見えないユートピアの実現」という、虚偽を提供する娯楽の領域の範囲内に押し込める。隅々にまで文化産業に侵食された現代においては、芸術音楽ですら実際には自らの地位を保つためにその自律性を犠牲にし、世俗の支配に身を任せることを容認せざるを得ない状況に直面しているのであり、結局ジャズに逃げ道はない。

アドルノはこのジャズ論、「時間のない流行」を、1938年に発表した論文、「音楽における物神的性格と聴取の退化」を補完するものだと考えていたようだ。論文は、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin、1892 - 1940)の、「複製技術時代の芸術」への返答として書かれたもので、アドルノはそこでベンヤミンの大衆芸術に対する意識を批判した。

ベンヤミンはその論文で、複製技術の発達によって芸術からオーラが失われ、その価値を保証してきた一回性や礼拝的価値が崩壊する過程を描いている。彼はその過程の顕著な例として映画をとりあげ、大衆的性質を内包するその媒体に、次代の芸術の理想の姿を見ようとする。映画は、演劇において温存されている礼拝的価値、芸術性を担保する役者のオーラや演技の一回性を、編集過程において消滅させると同時に、観賞における精神集中の欠落を許容することで、作品の所有者を作り手から受け手へと譲り渡す。そこにベンヤミンはファシズムの耽美主義に対抗する「芸術の政治主義」を実現する大衆芸術の本領を見て取った。それに対してアドルノは、大衆芸術における放漫とそれがもたらす快楽を、マゾヒスティックな大衆をモノマニアックなイデオロギーで翻弄する支配者の真理の投影であるとして一蹴するのだが、その様子をこのジャズ論はより鮮烈に描き出す。

参考文献
時間のない流行(プリズメン所収):テオドール W. アドルノ、渡辺祐邦・三原音平(訳)、ちくま学芸文庫、1996
啓蒙の弁証法:マックス・ホルクハイマー・テオドール W. アドルノ、徳永恂(訳)、岩波文庫、2007
アドルノ:マーティン・ジェイ、木田元・村岡晋一(訳)、平凡社、1992
複製技術時代の芸術:ヴァルター・ベンヤミン、佐々木基一(訳)、晶文社、1970

アドルノプリズメン啓蒙の弁証法アドルノ(マーティン・ジェイ)

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