古井由吉、明けの赤馬

古井由吉(1937 -)の「明けの赤馬」は、1980年10月から82年1月まで、少し空けて84年7月に文芸各誌(新潮、文學界、文藝春秋、すばる、海)に発表した九編からなる短編集だ。谷崎潤一郎賞を受賞した長編「槿(あさがお)」や、連作短編集「山躁賦(さんそうふ)」等と同時期の作品である。気軽に読める各編だが、独自の文体をはじめ、そこには彼独特の小説手法が息づいている。

本書において顕著なのは随筆の虚構への取り込みで、相反する要素の並列が、虚構と現実との混濁という彼の文学テーマの意義を再確認する。本書において明確に小説として読み取れるのは、異なる人称から物語が展開する「芋の月」と題される一編だけで、残りは両者の揺らぎの中に物語が構築されてゆく。記憶を描く随筆にやがて虚構が侵入しはじめ両者は交錯してゆくが、それが予定調和的な物語の造型や時間性、定型的な主体の同一性を、それらが導びく結論とともに、混濁の中に置き去りにする。

「自己疎外の連続こそが人間の一生であり、生の目的とはそれからの回復に他ならない」。物語はそうした前提の基、与えられた目的を遂行する主体を設定する。だが現実の人間の内部においては、そもそも自己疎外へと至るような主体の同一性が必ずしも確保されているわけではない。そこで人間の主体化を促す試みは、主体や目的の非存在、単なる虚構に終始する。世界の純粋性を強調し、心を真実として両者の同一化を打ち立てようとする、いわゆる人間的な試みにも必ず虚偽が潜んでいる。

われわれは記憶を真実と見なすが、その実態は曖昧だ。思い込みも加わり、記憶の信憑性は絶えず虚構の影の内側にある。現在という地点を記憶の持続とするならば、現実は虚偽に満ちたものになる。虚構の現実への侵食による両者の恒常的な併存は根源的なものであり、そこから逃れ出るのは困難だ。

小説への随筆の注入という日常への接近は、目の前にある現実を、真実を終着点とする弁証法の外部へと導いてゆく。曖昧な記憶によって形成される物語主体の真の姿を露にする古井の技法は、意識や諸々の真実に張り付く信憑性への問い直しを読者に働きかけてくる。

古井由吉明けの赤馬

社会の平準化と超人、単独者

19世紀の西欧では封建主義体制の崩壊に伴い、民主、自由主義が台頭した。だが一方で、資本主義を背景とする社会の階層化が顕著になり、各階級の内部では人々の平準化(*)が進行した。とりわけ社会を支えるブルジョア(中産市民階級)には、ある種の倦怠や無気力が蔓延しはじめる。台頭する市民階級に求められる自立心を内側から支えてきた哲学も、状況の変化に呼応して新たな展開を模索する。

19世紀の半ばから後半にかけて登場した新たな思想の中で、とりわけ後の世代にまで多大な影響を与えることになったのが、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)とキルケゴール(Søren Kierkegaard、1813 - 1855)の思想である。前者の強靭なアフォリズムは、哲学飛び越え社会や政治にも多大な影響をもたらし、後者の反ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)的な個の思想は、後に出現する実存主義を予見した。両者に共通するのは、すでに遠い過去となった宗教的結合の時代への望郷で、ニーチェはキリスト教以前の古代への回帰を通じた、新たな世界の構築を企図する一方、キルケゴールは原始キリスト教時代へのと帰郷を通じて、キリストの後継者として自らを殉教者とし、自己の内部から発する救済の契機を模索した。彼らは共に社会への同化を拒否する孤高の人として、深い孤独の淵から時代に警鐘を鳴らし続けた。

ニーチェは人間を、過去が絶え間なく繰り返す、半過去形的な存在であると考えた。人間は完了なき状況の中で、自らを消費し否認しながら、自己矛盾の中に生きてゆく。ニーチェはそのような人間を、歴史的人間と呼ぶ。歴史的人間が救済を得てゆく過程の中で、彼に対して、いかにして歴史的時間を忘却し、超人的、超歴史的に過去と未来とを統合できるのか、また、いかにして実体としての生の中で、個々の瞬間に永遠性を付与することができるのかが試される。虚無の中から永遠に回帰する生を肯定することで、人間は超人になる。人間はニヒリズムを極限にまで追求することで、あらゆる過去から救済され、山頂へと到達する。

自らの想いを超人へと託したニーチェとは異なり、キルケゴールは自らを単独者として定義することで、平準化する社会を批判した。単独者は歴史的意志を抹消し、自己を歴史的なもの、自らを真に時代と共にある者だと規定する。彼は自らを個として、またキリスト教世界を含めた世界の生起全体を還元する場所として、自己自身の超越を通じて全世界の抽象化を試みる。時代と共にありながらも決して同化されることのない単独者とは、時代の真の理解者として、孤独の高みに生きる殉教者である。

ニーチェに超人を創造させ、キルケゴールを単独者へと駆り立てたもの、それは、過度の平準化を下地に、倦怠と腐敗がはびこる当時の西欧社会である。凡庸なブルジョアが主導する市民社会で、自由、平等、博愛という言葉に導かれた、中庸な分別と優柔不断さに満ちた消極的な共同体を形成した。ブルジョアとは、国家が与えた広く浅い知識しか持たない、凡庸で実践への意思にも乏しい階級で、決して自ら行動することを望まない。甘言に満ちた情報だけを選択、享受し、それへの熱狂と忘却とを繰り返す中、彼らは結局無関心を貫き通す。彼らにとって凡庸と無関心は重要で、それらとの引きかえに集団への帰属が許される。ブルジョアは消極的な共同体の中で生の意味を錯覚し、自ら世界史に欺かれ、一方、単独者としての実存は頑なに拒否する。日々孤独への恐怖に怯えながら群集に同化する、独創性も革命のスキームも放棄したブルジョアに委ねられた社会。そのような社会に哲学者は対峙した。

とりわけキルケゴールが危懼したもの、それは背徳感に芽生えはじめたブルジョアの形相である。日頃は楽天的な群集でしかないブルジョアだが、日々の倦怠が次第に喧騒の希求へと変貌し、強い意志を持つリーダーの出現と、それへの忠誠を求めるようになる。そこではじめて具現化される彼らの改革的努力の方向は、自己の改革にではなく、社会に対する暴力を通じた支配の野望へと振り向けられると予想される。それに対する危機感がキルケゴールを隠者へと駆り立て、進歩的な世界変革を超現世的意思に頼り、世界の生起全体を還元するという行動へと向かわせた。

ブルジョアの身体は二つの世界大戦を経て消滅したが、その精神は次代の中産階級へと引き継がれ、次なる凡庸が平準化を反復し、新たな支配的イデオロギーを社会に蔓延させている。

(*)本文の執筆にあたり参照した書籍の著者であるカール・レーヴィット(Karl Löwith、1897 - 1973)は、平準化を「民主主義による平均化が必然的に最後にたどりつく結末」であると定義する。平準化された社会では、「制服を着て毎日が太鼓の連打で始まり連打で終わる」ような、「一定程度の監視された悲惨と前身」によって、市民の生活が制限される。ある程度の制限は民主社会を維持するために必要だが、平準化は支配者のアプリオリに依存する。

注)執筆にあたり、レーヴィットの著書を参照した。個々の出典は省略する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977

ニーチェキルケゴールヘーゲル、ブルクハルト(単行本文庫

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