古井由吉と私小説

古井由吉(1937-)が描くのは、意識の世界に潜むもう一つの世界であるといわれている。それは現実と虚構とが交錯する緩慢な世界であり、作者の美意識の内で断片化され、地層のように折り重なる文体の谷間から湧き上がる。

古井の作品は寓意的であると同時に象徴的でもあり、独特の文体に刻まれた断片的な作者の記憶や痕跡は、時に私小説を連想させる。実際に古井は日本の近代文学の伝統として、彼が傾倒したカフカやムージルと同様に、私小説から多くを学びはしているが、その模倣からは距離を置く。古井に距離を保たさせるのは、彼の私小説に対する距離感と、両義的な虚構に対する忌避と執念、そして文学に潜む呪術的な要素への着目にあるようだ。

古井は日本の近代文学を、現実の生に対して虚構をはりめぐらせる行為であり、書くという行為自体が虚構であると考察する。古井が描く虚構においては、主体と対象との境界が、独自の文体を通じて曖昧さの内に表現されるが、その曖昧さとは、虚構と現実の生との間に繰り広げられる微妙な相互作用に対する感覚を意味している。

近代の日本文学に特有の私小説は、虚構を書くという行為をその行為自体の虚構にまで鈍化して、現実を虚構との関わり合いの中で最もあらわなかたちで見つめ直そうする行為である。その行為は虚構に対する感性を重視し、余計な感情を掻き立てないよう工夫するが、それが読者の人格を通り越して情念の深層に直接働きかけるという言葉の機能を排除してしまう。日本の文学はそうした排除に助けられ、人間の生を単純に虚構と見なす行為と引きかえに、表現の足場をなし崩しにしてきたのである。

古井はこのように私小説を読み取るが、彼はその一方で、そのような排除の試みにもひとつの隙間が存在すること、そこから言葉の呪術的な力が、文学の表面へと浮かび上がってくる状況を確認する。足場をはずされた言葉は一旦表現力を失うものの、代わりに作者の意識の深層から何かを呼び出そうとする呪術的な力を得て、言葉はそれを契機に、作者の意識を乗り越え読者に訴えるかける次なる段階へと進んでゆく。言葉は呪術的な力を排除するために常に抑制されてはいるが、その力が文章の底から完全に抜け落ちることはない。

小説には影の部分、作者と読者が共有する言外の部分が存在する。小説は個々独自の方策でその場所を通して、読者への働きかけを試みる。だが小説の外部には意識を逃れて存在する、もう一つの影の部分があるのだと、古井は指摘する。その影の部分とは、作品が表象する対象とは無関係な、文章そのものに潜む情念と表現し得るようなものなのだが、それは個人的なものではなく、むしろ大衆的な心性からくる情念、不明瞭な輪郭の背後にさらに漠然と広がる大衆的な、つまり共有される表象のような、つかみ所のない影の領域なのである(*)。

近代の日本において小説を書く行為とは、虚構という感性にしがみつく保守的な態度の表明と軌を一にする行為だったのだが、そこ存在する第三の領域を作品に取り込むという行為を通じて、古井は独特な表象表現を獲得する。虚構と現実とを同一視する古井の感性は、国語という大衆言語に密着した彼独特の文体によって支持される。

ノート
(*)言葉の呪術:古井由吉、古井由吉集(新鋭作家業書)、pp. 240-245、河出書房新社、1971

古井由吉ムージル

古井由吉の文体

イメージ化や即時化を通じた簡素化が文学の基本になりつつある今、文学に芸術的、芸術啓蒙的な意味合いを期待するのは、もはや困難になりつつある。それを象徴するもののひとつが文体で、かつては作家の同一性をもあしらった意味のある文体は今やめったに見られない。

そうした状況の中、未だに意味ある文体を記し続ける作家のひとりが古井由吉(1937 -)だ。古井にとって文体はとりわけ象徴的な意味を持つが、比較的晩熟な作家である彼がそれに目覚めるのは1970年代も半ばを過ぎその終盤へと向かう頃で、80年代末にそのピークを迎え、その後は平行線をたどりながら今に至る。執筆とは事物を内面化する行為であり、それは「思い出す」ことに始まるが、とりわけ戦後の「内向の世代」に位置する彼にとって、文体の変化は直截的に作家とその環境の変化を反映する。

古井は自身の加齢を物語に加味するタイプの作家である。年毎に枯れる精神を終末へと向かう記号に見立て、物語に死の寓意としての役割を委託する。文体はそれを助ける媒体として、そこでは詩と散文の骨子が交錯する。

作家が忘我の内に記す言葉は唯心的で透明だが、一方自らの個の内面、他者との間にそびえ立つ自我へと向かう詩人の言葉は物質的で混濁し、そこに記される時間は石のように膠着する。そうした両者の特徴が交錯するのが古井の文体で、主語の極端なまでの省略や筋の多重化が、自他と時制の区別を不明瞭にしてしまう。この仕組みを解く鍵を、古井自身が述べている。

古井はドイツ文学者としての表情を持つ作家で、彼はカフカ(Franz Kafka、1883 - 1924)やムージル(Robert Musil、1880 - 1942)等にも範を求め、作品を発展させてきた。ムージルにとってカオスとは秩序の極限を意味するが、言葉を物質化し混濁させて解体することで、古井はそれに追随する。崩壊の中で時間は膠着し、忘却と混沌の淵へと物語を引きずり込むが、そこに「時間差」を見たときに、言葉は再生され音となって蘇える。書くこととは、今書いている言葉を聴くことであり、書かれた言葉は声となって空間へと放たれる。混沌の中に語られる物語は、そこに生じる「時間差」によって、意識の底で聴き取られる。

簡素化された文学が記す文体に、言葉の意識の底へと語りかける力はもはやない。

古井由吉ムージル

片山恭一、きみの知らないところで世界は動く

片山恭一(1959 -)の作品としてまず思い出されるのが、映像化等を通じて零年台半ばの社会現象にまでなった「世界の中心で、愛をさけぶ」ではないだろうか。だが、320万部という圧倒的な部数にもかかわらず、本書の内容は必ずしも充実したものとは言えず、そこには消化しきれない何かが読み取れる。そこで前作「ジョン・レノンを信じるな」を経て、前々作、片山の第一長編、「きみの知らないところで世界は動く」へと遡る。名声を得る前に書かれた作品で、一旦は廃盤となった本書だが、むしろヒット作よりこちらに共感を覚える読者も少なくないはずだ。本書は2005年にNHKのローカル局がテレビドラマ化しているが、放送時間の制限が多くの省略を招くとともに、内容の根幹にかかわる部分が潤色されており、原作の意図が湾曲されている。

「きみの知らないところで世界は動く」は片山の第一長編として、彼の社会、文化的な嗜好を素直に反映する作品である。本文では著者が愛したその時代に寄り添うロックをはじめとする音楽や諸々の文化が、親しみやすい哲学として随所に織り込まれている。物語の舞台は片山が実際に十代を体験した70年代半ばに設定されているが、当時のとりわけ若手作家が執拗に追求した社会の退廃的な抑圧感や、彼等が好んだナイーブで素朴な人物造形はここにはない。本書での主役を演じる若者達は、やや短絡的で冷徹だが本質的にはおおらかで、性に対する恐れや恥じらいには動じない。ここではいわゆる団塊の世代に属する作家が描く1970年代とは大きく異なる時代の姿が忠実に描写されている。

本書の冒頭には27歳で夭逝したドアーズのジム・モリソン(Jim Morrison、1943 - 1971)の曲、「The Crystal Ship」の詩の一節が原語のままで掲載されている。物語の核心と奇妙に触れ合うその一節を含むこの曲は、モリソンがライトに照らし出されて海上に浮かぶ油田掘削プラントに触発されて考案したようだ。当初作者は本書のタイトルにその日本語訳、「水晶の船」を予定したが、より高い市場での訴求力が期待される、「きみの知らないところで世界は動く」という、幾分抽象的なものに差し替えられた。この抽象性がもたらす独特の浮遊感は、冒頭にある代名詞「きみ」の曖昧さによって先導されている。この代名詞の指示対象が持つ意味は、新潮社から1995年1月に発刊された初版の「あとがき」で著者自身によって説明されているので、それをここに引用する。

「既知の場所に憧れながら、そこに安住することのできない、少年少女たちの物語を書いてみました。彼らの安住を妨げているのは、『時代の未知』というべきものかもしれません。彼らは幼く、拙いので、未知の場所からやってくる力にうまく対処することができません。にもかかわらず、彼らが愚直なまでに、ひたむきに生きようとするのは、自分たちが抱え込んでいる困難が、同時に可能性でもあることを、無意識のうちに直感しているからではないでしょうか。だからわたしは作者として、彼らにこう言ってあげたいのです『君の知らないところで世界は動く』と。」

作者は「和哉、カヲル、ジーコ」の主役全員を「きみ」に指示させているのだが、この結果は大方の解釈とは異なるのではないだろうか。この「あとがき」では続いて新潮社の編集と装丁に対する謝辞が述べられているためか、2003年8月のポプラ社による復刊では、全体が削除されている。

「きみの知らないところで世界は動く」はこのポプラ社版の単行本を前提に語られることが多い。だがこの版は新潮社の初版を大幅に改訂したもので、それは装幀と字体はもとより本文にも及び、物語の表現が少なからず変化した。物語の基本的な流れは保持しながらも、登場人物の名前や引用される各種作品、会話の内容や細かな場面描写が幅広く修正されているが、とりわけジーコこと天本コージ(初版では山本コージ)に関わる部分の改稿が際立っている。一例を挙げるならば、そこにはジーコが好む音楽がプロコフィエフではなく荒井由実だと記されるのだが、この違いひとつを見ても、設定の変更が明らかだ。

このおそらく実在した人物は、時代を敏感に内面化した寓意の象徴として登場し、真理の語り手としてその役割を全うする。それだけに、著者が当初地道に再生しようと試みた1970年代半ばの表情が、この改変によって多少なりとも損なわれているのが残念だ。次作の「ジョン・レノンを信じるな」でもそうなのだが、著者は出版社を変更するごとに改稿を試みるようで、後日小学館から発刊された文庫版でも加筆、修正されている。ポプラ社版をベースにした改稿で、時代を意識した簡略化へと向けて、改行箇所の変更、一部単語の置き換え、一部の一人称主語の削除と細部の描写の付加等が全編わたって見られるが、原版に対する摩擦の少ない改稿だ。

片山自身も認めるように、この処女長編を第一級の文学作品として読み込むのには無理がある。だが、ここには拙さを越えたある種の魅力が存在する。それは多分に置き去りにされた過去の時代と、今も色褪せない当時の文化に対する作者の真摯な姿勢が導びく魅力であり、それが重い純文学の形式やそれとは真逆の現代小説の浅薄さを越えた、独自の立ち位置を本書に与えている。とりわけ新潮社から出た初版においてその位置が明確で、現代の青少年というよりも、むしろ作者と時代を共有できる年代の読者にあてた時代のオマージュと言う観点から眺めると、本書の特別な存在価値が見えてくる。

注意)新潮社が出版した初版はもとよりポプラ社が再版した単行本も既に品薄で、現在容易に入手できるのは小学館が発行する文庫版と各種の電子版に限られるようです。

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