ヘーゲル: ロマン主義批判

ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)は、善や正義によって意志が満たされにくい時代に生きた哲学者である。善や正義を自己の内面に求め、自己のうちから知り、規定する。そのようなロマン主義的、イロニー的主観に支配された時代で、現実において失われた調和を観念的内面の中で獲得するために、現存する諸々の義務が放棄された。

そのような時代状況において、ヘーゲルは合一を志向した。合一とは文字通り複数のものを合体させてひとつにするという意味ではあるが、ヘーゲルが生きた時代、またその場所における合一とは、理想を捨てた体系への傾倒、既存の体系に身を置き、全体性に真実を求めるという姿を意味していた。時代との合一によって、内実や実存が保証される。人間は自己の想起や内化ではなく、自己を外化することで、すべての人々に共通する世界の本質に携わることができる。自己と他者とに共通の世界をより良く表現できるのが真に優れた人間であり、批判から順応へと向かい他在のうちに自己を同一化できる存在のみが、完成された構造概念を得ることができるのである。

ヘーゲルは合一に傾倒し、現実的で行動力に満ちた主観性を標榜する一方、イロニー的な主観性を批判した。イロニー的な主観性とは合一とは真逆のものであり、普遍的世界と客観性、その両方を欠いている。本質的に自由なイロニーがその自由の中で悟るのは、自己が実体的内実を免れた空白であるという事実であり、そこで自己は憶測されたものへと凋落するに違いない。ロマン主義とは客観性の挫折であり、その運命の行き着く先は、ロマン主義者という順応なき人間の虚偽や不幸への転落でしかない。

ヘーゲルはイロニー的主観性のような、個人がその良心の決断にしたがって主観性を持つ立場を、抽象的自己規程と呼んだ。抽象的自己規程は普遍的人倫の全体を抽象化する一方で、客観的確実性を消失させる。そのような主観のうえに立ち、自己自身の絶対的内省に到達した自己意識は、自己をあらゆる現存する所与に優先させる。そのような主観が最後に到達する場所は矛盾に満ちているのだが、それを表象するのが憧憬だ。

イロニーの持つ否定性は、客観的で即時的かつ対自的に妥当するあらゆるものからその価値を奪い取り、加えて、具体的なもの、理論的なもの、自らのうちに内実を持つものを空虚化する。自我は自己自身の主観性を除き、すべてを無価値で空虚とする、その一方で、自己の主観性自体も、それによって空虚化される。その結果、自我はそうした自己享受に満足できなくなり、自分が不完全であると思い込み、強固で実態的なものへの本質的な関与を渇望し始める。主観は真実の内部へと進むために客観性を求めるが、孤独、自らのうちへの隠匿から脱出し、不満足な抽象的内面性を払拭するのは不可能だ。そこに矛盾が生じるのだが、その矛盾こそが憧憬である。

結局ロマン主義という根本感情は、自己の殻を破ることができず、危うい憧憬の中へと収束するしか道がない。ヘーゲルにはそうした末路に拘束されるロマン主義が、時代を表象する病のように思われた。そこで彼は、病を癒せるのは実体的内実による充実に限られ、癒しは真の厳粛を生み出す実体的関与と自己自身の内への内実の実現を通してのみ行われるべきだと主張した。人は自身において、本質的なものとしての内実のなかに沈潜し、それが自らの全知識、全行為と一致する場合にのみ癒される。

イロニー的主観性は実体的内実を測る尺度として、世界史の中に配置される。個々の人間が持つ主観性が歴史に組み込まれることで、歴史はすぐさま忘却されることになる。歴史的正当性が喪失してゆく時代の中、ヘーゲルは反省の段階での外向的発展を擁護することで、歴史的正当性を保存しようと試みた。彼はやがて統治的現実への非難から、国民の過激な意志の排除、そして国家への盲目的な順応を志向してゆくことになる。

注)執筆にあたり、レーヴィットの著書を参照した。個々の出典は省略する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977

ヘーゲルブルクハルト(単行本)ブルクハルト(ちくま学芸文庫)Introductory Lectures on Aesthetics

ヘーゲル: 芸術の終焉と素材の価値

芸術の終りを考えるときに、よく語られる理論のひとつがヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)が示した終焉論だ。ヘーゲル独自の歴史観を下地にした、進化の終わりとして芸術を説く終焉論で、彼は本論を構築する際に、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775 - 1854)が唱えた精神の表現としての芸術のありかたを参照したようだ。

シェリングの理論は新プラトン主義を下地にしたもので、物質的素材の精神の形成による克服と、観念的な存在への変化を重要視する。芸術は生きた自然を把握するが、客体の外形にではなく、そこに形態として表現される精神そのものを表象する。芸術においては常に現象(形式)と理念(内容)が対立するが、理念を現象の内側に啓示しつつ存在するのが芸術である。ヘーゲルはシェリングの意にしたがって、芸術をその内部に理念の感覚的現象を内包するものであると前提する。

理念は素材への働きかけや制作を減じたり否定したりすることで、次の段階へと発展する。その過程においては、素材からの脱却を通じて確立される概念的認識が、常に優位な位置に置かれることになる。素材は芸術の価値を減ずるものであり、素材が喪失するにつれ、芸術の階位は高くなる。ヘーゲルはそうした古典主義的ともいえる前提を下地に、内容と現象、理念と形式との関係から三段階の芸術発展モデルを構築するが、そのうちの最後の発展形式において、芸術の創造と享受の時代の終焉が語られる。ちなみに、へーゲルの発展モデルは自然ではなく、すでに加工された自然としての古代の作品を模範とし、それを起点として構築されている。

ヘーゲルが示す発展モデルにおいて、まず最初の段階として語られるのは、インドやエジプト等の古代東方の芸術が示す象徴的芸術形式(Symbolism)である。その時代は未だ形式と内容の統一が達成されておらず、作品の内容は抽象的で、素材への対応は荒削りである。その次の段階は、ギリシャやローマの古典的芸術形式(Classicism)である。その時代には理念の発達と共に芸術内容も進展し、作品は素材の持つ形式の中にその姿を表現するようになる。ヘーゲルはその芸術形式を、理想的な統一を示す形式だとして評価する。彼は最終段階として、キリスト教に触発されたロマン派としての芸術形式(Romanticism)を置くのだが、彼はその形式の内に、芸術の終焉を垣間見る。

理念は古典派以降も更なる発展を続けたが、やがて形式との統一から逸脱しはじめ、精神として内面の変化を目指すようになる。そこに至り芸術は精神として発展し続ける理念をついに吸収しきれなくなり、衰退しはじめる。精神の発達に芸術の形式が追随できない以上、今後ギリシャ芸術やダンテあるいはシェークスピアに匹敵する作品を望むことはできなくなる。芸術は沈思とイロニーへと埋没し、過去のテーマを反復しながら、次第に消滅への道を歩んでゆく。それがヘーゲルが示す芸術終焉の概要だ。

ヘーゲルは芸術の存在既定を表現するものとして、芸術を宗教や哲学と同列にか、または近似なものとして取り扱う。そのような彼が発展モデルを通じて問いかけるのは、その価値を神的絶対性に基づく感覚的所見や、ギリシャ時代における世界観、形式と内容の均衡に求めた芸術が、現在のキリスト教的信仰や反省的なイロニーにもとづく世界を、包括することが出来るのだろうかという疑問である。彼はそうした疑問を下地に、芸術の限界を見極めた結果として、その終焉を宣言することになった。

歴史や哲学がその頂点を迎えたとされるロマン主義の時代において、さらなる理念の発展が芸術の成立を困難にするのは明白で、芸術を通じて精神が理念を把握していた時代は必然的に終わりを告げる。以降は単に芸術とは何かを学術的に認識する時代へと突入し、芸術の創造と享受の時代は終焉を見ることになる。

参考文献
Introductory Lectures on Aesthetics: G.W.F. Hegel, Penguin, 1993

ヘーゲルシェリングIntroductory Lectures on Aesthetics

ミルトン・バビット(Milton Babbitt)、An Elizabethan Sextette

アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schonberg、1874 - 1951) の音楽、例えば一連のピアノ曲を聴いていると、その冷徹な十二音技法はここでもう完成の域に達しているように、またそうであるがゆえに袋小路に迷い込んでいるようにも聴こえてくる。しかし十二音技法はこれで終わるわけではなく、そこにはまだ更なる発展の余地が残されていた。

ミルトン・バビット(Milton Babbitt、1916 - 2011)はフィラデルフィア出身のアメリカの作曲家で、セリー音楽の発明、発展に寄与した人物として知られている。バビットはシェーンベルクの十二音技法をさらに拡張し、細部に至るまでのすべての音素材を組み込むことで、トータル・セリアリズムを確立した。その技法はピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez、1925 -)等へと引き継がれ、更なる発展を遂げることになる。

トータル・セリアリズムと銘打つバビットの音楽は技巧的で、比較的地味な数学的ともいえる難解な曲が多い。セリー音楽の特性に加えてこのような事情が、名声の割には市場に出回る優れたアルバムの数を少なくしているようだ。

「MILTON BABBITT: An Elizabethan Sextette」と題されたこのアルバムには、1957年から1984年の間に作曲された種々の編成による小規模な室内楽曲が全部で8曲収められている。冒頭のタイトルにもなっている合唱曲から、Alan Feinbergが演奏する5曲のピアノソロと室内楽曲をはさんで、アルバムは「Vision and Prayer」というシンセサイザーを用いた声楽曲で締めくくられる。この「Vision and Prayer」はディラン・トマス(Dylan Thomas、1914 - 1953)の詩に作曲したシンプルな小品で、女声のレチタティーヴォにシンセサイザーを絡ませながら、詩が淡々と読み上げられてゆく。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」やブーレーズの「プリ・スロン・プリ」を彷彿とさせる、独特な趣を持った作品だ。

An Elizabethan Sextette

  1. An Elizabethan Sextette for six-part women's chorus (1979)
  2. Minute Waltz (or 3/4 ± 1/8) for piano (1977)
  3. Partitions for piano (1957)
  4. It Takes Twelve to Tango for piano (1984)
  5. Playing for Time for piano (1977)
  6. About Time for piano (1982)
  7. Groupwise for flautist and four instruments (1983)
  8. Vision and Prayer for soprano and synthesized tape, setting of a poem by Dylan Thomas (1961)

Dylan Thomas: Vision and Prayer

Who
Are you
Who is born
In the next room
So loud to my own
That I can hear the womb
Opening and the dark run
Over the ghost and the dropped son
Behind the wall thin as a wren's bone?
In the birth bloody room unknown
To the burn and turn of time
And the heart print of man
Bows no baptism
But dark alone
Blessing on
The wild
Child.

ペーター・ルジツカ(Peter Ruzicka)、弦楽四重奏曲集

ペーター・ルジツカ(Peter Ruzicka、1948 -)は指揮や教育をはじめとして、オーガナイザーとしても活躍する現代ドイツを代表する作曲家のひとりである。彼はHamburg Conservatoryでピアノ、オーボエと作曲を、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(Hans Werner Henze、1926 - 2012)とハンス・オッテ(Hans Otte、1926 - 2007)に作曲を学んだ。加えてミュンヘン、ハンブルクそしてベルリンで音楽学と法律を学び、博士号を取得している。ルジツカは1996年にヘンツェを引き継いでミュンヘンビエンナーレの芸術監督に就任し、2002年から2005年までのあいだはザルツブルグ音楽祭の芸術監督を務め、様々な話題とともに同音楽祭の革新にも寄与した。独奏曲の小品からシンフォニーやオペラに至るまで多岐にわたるルジツカの作品は、音楽史的伝統を尊重しつつ、流行としての現代音楽からは一定の距離を置く彼の姿勢によって支えられている。

そのように多彩なルジツカの作品群の中から、このアルバムでは5曲の弦楽四重奏曲が選ばれている。「Introspezione」と「"...fragment..."」が1970年、「Klangschatten」が1991年、「"...uber ein Verschwinden"」が1992年、そして「"...sich verlierend"」が1996年の作品で、朗読を伴う「"...sich verlierend"」では、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau、1925 - 2012)がその役割を演じている。

ルジツカの弦楽四重奏曲はアントン・ヴェーベルン(Anton Webern、1883 - 1945)の楽曲や、特にパウル・ツェラン(Paul Celan、1920 - 1970)の詩作品との関連性が指摘される。ツェランは言語形態をその痕跡へと極限にまで縮小、還元しつつ、自身の存在から自身を描き出したといわれるドイツ系ユダヤ人の詩人である。「"...fragment..."」はツェランへのレクイエムで、死に関する思索を音楽として再現したものだが、それから約20年の時を経て作曲された消滅がテーマとなる「"...uber ein Verschwinden"」以降の作品でも、こうした終末論的視点が継承されている。ルジツカにとって消滅は重要な意味を持つのだが、彼の弦楽四重奏曲においては、音楽聴取の限界点を探りながら、過去の記憶の痕跡と現在との葛藤が描き出されている。ルジツカの、とりわけ比較的初期の作品の特徴のひとつに「作業途上」という概念があるが、こうした葛藤の体現が作品の完成形を拒むようである。

String Quartets: Arditti Qt

  1. "...uber ein Verschwinden"
  2. Klangschatten
  3. "...fragment..." Five Epigram For String Quartet
  4. Introspezione - Documentation For String Quartet
  5. "...sich verlierend" For String Quartet And Spoken Word

ギデオン・リューエンソーン(Gideon Lewensohn)、Odradek

Gideon Lewensohn(1954 -)はテルアビブのRubin Academyで学んだ後、アメリカ合衆国バルチモアのPeabody Conservatoryで博士号を取得、その後1995年からは母国イスラエルの大学で教鞭を取っているエルサレムの第5ジェネレーションに属する作曲家である(経歴は執筆時のもの)。作曲だけではなく指揮やベースの演奏もこなすLewensohnだが、近年は電子音楽も取り入れて活動の幅を広げているようだ。彼は著名なハンガリーの作曲家ジェルジ・クルターク(György Kurtág、1926 -)から大きな影響を受けているが、このアルバムで演奏される楽曲からもその影響が聴き取れる。

このアルバムに収録された曲の多くは、さまざまな素材からの引用によって構成されている。引用を伴う芸術作品は、ともすればパスティッシュやパロディ等の用語とともに語られることが少なくないが、Lewensohn自身の視線は多少異なる方向へと向けられているようだ。彼の目的はこれら一連の作曲を通じて音楽的な記憶やノスタルジーあるいは想起力を、楽理的技法や美学的手法によって剥奪することであり、彼はそれを実現させるための理論的モデルやシステムとして、マスターワークを広範に引用する。彼はこうした手法の結果として、聴き手に言葉では表現しがたい孤独感や恐怖感を感じさせることができるのではないかと期待する。

このアルバムに収録されている「オドラデク四重奏曲」の「オドラデク(Odradek)」とは、カフカの短篇「父の気がかり」に登場する「平べたい星型の糸巻き」のような不死の生き物のことである。現代音楽家集団であるFranz Kafka Ensembleにも所属するLewensohnだが、それを別にしても同じユダヤ人であるカフカには、理性を越えて共感する部分も多いだろう。

Odradek (2002): Auryn Quartett (アウリン四重奏団), Alexander Lonquich (アレクサンダー・ロンクヴィヒ - Piano), Ora Rotem Nelken (オラ・ロテム・ネルケン - Piano)

  1. Piano Quintet
  2. Postlude For Piano
  3. Odradek Quartet
  4. Postlude For Piano

グイエルモ・グレゴリオ、Red Cube(d)、Degrees of Iconicity

グイエルモ・グレゴリオ(1941 -)は音楽、建築、デザインあるいはファインアート等、多岐にわたる分野で活動するアメリカ人作曲家だ。アルゼンチンに生まれ、ブエノスアイレスで建築や記号論(Semiotic)を学んだ後アメリカで即興演奏を習得し、後にアメリカの国籍を取得した。彼は大学で教鞭を取りながら、特に1970年代以降、ジャズと現代音楽をインプロヴィゼーションを通じて捉えなおそうという試みを続けている。

ジャズと現代音楽を行き来するグレゴリオのアルバムは、フリージャズの影響が反映するものと、より純粋に現代音楽にアプローチするものとに大別できる。「Degrees of Iconicity」は後者に属するアルバムで、ジャズ的な音響表現は抑えられているものの、グラフィックスコアを多用することで各奏者の恣意性を確保し、奏者間でのインタープレーが平易に行えるよう工夫されている。間(ま)や静寂を重視した面持ちの各曲は、この種のノーテーション独特の自由で散漫な雰囲気の中、即興的な組み上げにより進行する。

一方その前年にトリオ名で発表された「Red Cube(d)」では、よりフリージャズに接近した作曲と演奏が展開される。とはいえ、直感とパワーで押し通すジャズとは一線を画するもので、各曲は寧ろジャズインプロヴィゼーションに対する意識的なパロディーとして、聴き取ることも可能である。いささかパターン化しつつある現代音楽ともフリージャズとも異にする、クロスジャンル的なある種の「曖昧さ」が各曲の特徴になっている。ここで展開される各曲は現代音楽とジャズを融合した音楽というより、むしろその両方を否定した楽曲として聴くこともできるだろう。アカデミズムとジャズ、芸術音楽と大衆音楽という二項関係の狭間を尽きることなくさまようような曲調であり、演奏だ。

上記「Degrees of Iconicity」はドイツの「Fono Forum」で“Star of the Month”を受賞している他、英国の雑誌「The Wire」の“Records of the Year”にノミネートされている。

Red Cube(d) (1999): Guillermo Gregorio Trio

  1. Crimson Mountain
  2. Red Dust
  3. These Foolish Things
  4. 1-2-3-4 Jump
  5. Slipped Fifths
  6. Woodchopper's Nightmare
  7. Study in Scarlet
  8. Red Skies
  9. Cotton Top
  10. Chu's Spectre (Ghost of a Chance)
  11. Lost Weekend
  12. Ana's Lullaby

Degrees of Iconicity (2000): Guillermo Gregorio (Alto Saxophone), Carrie Biolo (Marimba, Vibes), Fred Lonberg-Holm (Cello, Cornet), Michael Cameron (Acoustic Bass), Kent Kessler (Acoustic Bass)

  1. Tres
  2. First Sketch for "Omaggio a Luigi Nono"
  3. Moholy 2
  4. Construction in Three parts
  5. Konkretion I
  6. Con trabajo
  7. Counter-Composition
  8. Construction in Nine Fields
  9. Moholy 3
  10. Degrees of Iconicity

トリロジー、トルド・グスタフセン・トリオ(Tord Gustavsen Trio)

トルド・グスタフセン(Tord Gustavsen、1970 -)のトリロジーは2003年に発表されたチェンジング・プレイセズ(Changing Places)を皮切りに6年の歳月をかけて完成された、息の長いプロジェクトである。最近では珍しくオリジナル曲で構成された各アルバムは、歌心に満ちた各曲を通じジャンルを越えて幅広く受け入れられている。1970年生まれのグスタフセンは4歳でピアノを始め、10代になると地元ノルウエーの教会やライブハウスでゴスペルやフュージョンの演奏を経験する。後に彼はオスロ大学へと進学し、社会学、心理学、神学史の学士を、また同大学大学院で音楽学の学位(修士と博士の中間に位置する)を取得した。

このトリロジーに収められた各曲は、白熱したインプロヴィゼイション(アドリブ)やインタープレー(各演奏者間での対話)が前面に出ることもあまりなく、叙情的なメロディーに彩られながら、よどみなくただ淡々と流れて行く。特に最終作「Being There」で顕著なように、グスタフセン特有のゴスペル感が漂う部分もあるが、全体としてはいわゆるスイングジャズの対極にある演奏で、各曲はひとつひとつの音の余韻を確認するかのように丁寧に演奏されている。感情を抑えた演奏は、聴き手にその聴取環境、流れ行く時間、あるいは肉体の存在感をいやがおうにも想起させる。

グスタフセンは「The Dialectical Eroticism of Improvisation(英訳タイトル、原文はノルウェー語)」と題された学位論文を書き上げているが、そこで彼はアドリブ奏者が実際に演奏しているときの生活世界(Lebenswelt=現象学用語)に焦点をあてた、独自の思考に基づく現象学を展開している。彼は冷徹な音楽構造と奏者の情熱との差異、演奏と楽曲との時間的乖離というような既存の音楽学では対処しきれない問題を、奏者の舞台上での意識や音の響きの展開から、リスナーの経験と奏者のそれへの同化に至るまで詳細な検証を加えることで、これまで単に緊張のなかで無意識の内に行われていると考えられてきたアドリブ演奏時の奏者の意識を解明し、奏者が直面する様々な問題を現象学的視点を通じて解決しようと試みている。このトリロジーに収められた曲名のいくつかは、グスタフセンの論文のなかに現れる語と重複する。

ところで、このECM(Edition of Contemporary Music)レーベルから発表されるジャズアルバムは、プロデューサーであり創始者のマンフレート・アイヒャー(Manfred Eicher、1943 -)の意向が色濃く反映されており、編集の段階で独特な色付けがなされていることは、よく知られた事実である。これがいわゆるECMサウンドで、アイヒャー独特の音楽に対するビジョンが、このレーベルのアルバムに醒めた統一感をもたらしている。このトリロジーも例外ではないが、ここではレーベル固有の音イメージと、グスタフセンの描く音世界とが微妙なバランスで融合し、アイヒャーの目指す「静寂の次に美しい音」に近接した世界が演出されている。

Tord Gustavsen Trio (トルド・グスタフセン・トリオ): Tord Gustavsen (Piano), Harald Johnsen (Bass), Jarle Vespestad (Drums)

Changing Places (チェンジング・プレイセズ - 2003)

  1. Deep as love
  2. Graceful touch
  3. IGN
  4. Melted matter
  5. At a glance
  6. Song of yearning
  7. Turning point
  8. Interlude
  9. Where breathing starts
  10. Going places
  11. Your eyes
  12. Graceful touch, variation
  13. Song of yearning (solo)

The Ground (ザ・グラウンド - 2005)

  1. Tears Transforming
  2. Being There
  3. Twins
  4. Curtains Aside
  5. Colours of Mercy
  6. Sentiment
  7. Kneeling Down
  8. Reach Out and Touch It
  9. Edges of Happiness
  10. Interlude
  11. Token of Tango
  12. The Ground

Being There (ビーイング・ゼア - 2007)

  1. At Home
  2. Vicar Street
  3. Draw Near
  4. Blessed Feet
  5. Sani
  6. Interlude
  7. Karmosin
  8. Still There
  9. Where We Want
  10. Cocoon
  11. Around You
  12. Vesper
  13. Wide Open

ショスタコーヴィチ(Shostakovich)、Symphony No.15 etc

このアルバムには1995年のLockenhaus Festivalでのギドン・クレーメルをリーダーとするクレメラータ・ムジカによる、アルフレット・シュニトケ(Alfred Schnittke、1934 - 1998)がショスタコーヴィチの死去に際し1975年に作曲した「Prelude in Memoriam Dmitri Shostakovich for violin and tape」と、ショスタコーヴィチの交響曲第15番の室内楽版の演奏が収録されている。この版は作曲家賛同によりViktor Dereviankoが編曲したもので、ピアノトリオと打楽器という極めて質素な構成へと縮小されている。

シュニトケの「Prelude in Memoriam Dmitri Shostakovich」は、スターリン体制終焉以降、ショスタコーヴィチが折にふれて用いてきた「D-S-C-H」テーマとバッハによる「B-A-C-H」テーマとが、ダブルカノンによって繰り返される印象的な小品で、多重録音をバックに二台のヴァイオリンによって演奏されている。曲は最後に原点としての「B-A-C-H」テーマへと回帰しながら幕を閉じてゆく。

ピアノトリオを中心とした交響曲第15番の室内楽版は、ピアノと打楽器の特質をうまく利用ながら、原曲の持ち味を無理なく再現する。1971年に作曲されたショスタコーヴィチ最後の交響曲第15番は、引用で彩られた自己回顧的な作品で、幼年期を象徴するおもちゃ、若年期を象徴するウイリアムテル序曲、そして作曲家としての成長過程を表わす自身の曲からの断片がちりばめられた軽快な交響曲だ。こうした寓意的な原曲の特徴が、小回りの利く小編成での演奏では有効に作用し、この種の編曲にありがちな過不足が感じられることは全くない。

音楽はその特徴として他曲のからの引用が必然となる芸術だが、ショスタコーヴィチをはじめとして、上記シュニトケやエストニア出身のアルヴォ・ペルト(Arvo Part、1935 -)等、旧ソヴィエトの作曲家は引用元の楽曲をほとんど無加工のまま明確にリスナーへと提示することが少なくない。こうしたコラージュ的手法は作曲者を取り巻く国家のプロパガンダ的性格と、そうした環境での創作活動を強いられる芸術家の葛藤を意識的に伝達しようとする意志によるものだ。旧ソヴィエト時代の現代音楽は、政治的言語の芸術への内面化の有様を、西側のそれとは趣きを異にする寓意的な作法に基づく作曲を通じて解説する。晩年のショスタコーヴィチはこのような政治的意図を、個人の音楽的バイオグラフィーを通じて表象しようと画策したのだろうか。

Praeludium In Memoriam Dmitri Shostakovich, Symphony No.15 (1997): Kremerata Musica, Gidon Kremer (Violin), Clemens Hagen (Violoncello), Vadim Sakharov (Piano and Celesta), Pater Sadlo, Edgar Guggeis, Michael Gartner (Percussion)

  1. Prelude in Memoriam Dmitri Shostakovich
  2. Symphony No.15、Op.141、Arr. Viktor Derevianko(with the participation of Mark Pekarsky)

アルヴォ・ペルト(Arvo Part)、Cello Concerto、Symphonies etc

エストニア出身の作曲家アルヴォ・ペルト(Arvo Part、1935 -)は、現代音楽の分野では今日最もよく知られる作曲家の一人である。ペルトの名を有名にしたのは1976年頃から始められた「ティンティナブリ=鈴声」スタイルと呼ばれる、古楽の要素を大胆に取り入れた独特の簡潔な書法による一連の楽曲だが、このアルバムにはそこに到達する前の1963年から1971年に作曲されたペルト初期の代表作が収められている。

収録されている曲でとりわけ目立つのは、ペルトが影響を受けたと思われるネオクラシシズムからアヴァンギャルドに至るまでの様々な様式のコラージュという形態だ。当時はまだソヴィエトの一部であったエストニアで、社会、政治的制約のもと、限られた情報を頼りに創作するしかなかった彼の苦悩と混乱そして発見と喜びが、各曲に盛り込まれた断片の集積にあしらって走馬灯のようにあらわれる。

このアルバムには3曲の交響曲が収録されているが、時代を追うごとに変遷するペルトの変化がよく表現されている。1963年に作曲された交響曲第1番から1966年の第2番、そして1971年の第3番へと至る道筋において、合成物、あるいは時代の寓話としてのコラージュが溶解してゆく過程の中に、作曲家の本質が次第に露になってくる。

後のペルトへと至る芽衣が聴き取れる魅力的なトルソーを集めたこのアルバムは、近年ネオクラシシズムへの回帰的傾向も見受けられる彼の源流を探るという意味でも、また冷戦下ソヴィエトの現代音楽を知る貴重な資料としても価値あるアルバムで、ネーメ・ヤルヴィ指揮のバンベルク交響楽団の演奏は、これらの曲の意図を的確に表現する。

Cello Concerto, Perpetuum Mobile, Symphonies No.1, No.2, No.3: Bamberg Symphony Orchestra, Neeme Jarvi

  1. Cello Concerto "Pro et contra"
  2. Perpetuum Mobile、Op.10
  3. Symphony No.1 "Polyphonic"
  4. Symphony No.2
  5. Symphony No.3

マーラー、大地の歌、シェーンベルク編、ヘレヴェッヘ指揮

1920年といえばアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg、1874 - 1951)が12音技法の確立に向けて「5つのピアノ曲(op.23)」に着手した年だが、彼は同時にかねてから寵愛していたマーラー(Gustav Mahler、1860 - 1911)の大地の歌の編曲も試みていた。この編曲では大幅な改訂が加えられ、各部は最小構成とし、打楽器はピアノで代用、マンドリンは省略されている。小編成にこだわることで歌手への負担が減少しより繊細な歌唱が可能になるのみならず、各部の透明性が高まることで曲の骨子がより鮮明に浮き立つはずである。しかし結局この試みは頓挫し、その後1983年になって音楽学者ライナー・リーン(Rainer Riehn、1941 -)によって補筆、完成されるまで、この室内オーケストラ版の大地の歌は塩漬けにされていた。

指揮者のフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe、1947 -)は、このあたかもカンタータのように鳴り響く大地の歌を彼得意の宗教曲さながらに、この種の編曲にありがちなピアノへの過度な偏りもなく、バランスよく丁寧に再現する。良質な演奏でこの版を聴いていると、あたかもこちらのほうが原曲であるかのような錯覚を起こさせる。ワルターやクレンペラーあるいはジュリーニやテンシュテット等、歴代の好録音に親しんだリスナーにも、違和感はないはずだ。当アルバムのリリースは1994年。

Das Lied von der Erde (Arr. Arnold Schoenberg): Brigit Remmert (alto), Hans Peter Blochwitz (tenor), Ensemble Musique Oblique, Philippe Herreweghe

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