古井由吉、白暗淵

昨今の電子化に象徴されるように、「本」の歴史は常に自らの消滅へと寄り添うものだった。15世紀の半ばにヨーロッパで発明された活版印刷術は、聖書を手書きから開放し普及への道筋をもたらしたが、それは必然的に写本に備わる工芸としての魅力を消滅させた。書籍の電子化はそうした流れの終着点として、物質としての「本」それ自体が主張するあらゆる物語を、決定的に終わらせる。「本」を手に持つ感覚、紙の質感や匂い、あるいは経年がもたらすその変化を通じて、無意識のうちにも我々が得てきた感覚は、すでに得難い過去のものになりつつある。視界に入る背の高い本棚や古い書籍の堆積が、時代を記す地層のように見えてくる。

古井由吉(1937-)の「白暗淵」を手に取りまず感じられたのが、そのような「本」それ自体に対する印象だった。昨今の単行本としては珍しく重厚な装丁で、表紙の写真から紙の選択までもが、本書のタイトルや内容との比較を前提として、慎重に吟味されている。これまで版画や日本画にくるまれてきた単行本の表面は、白一色で塗り込まれたライマン(Robert Ryman、1930-)の抽象絵画(*1)に置き換えられ、それに相反する真っ黒な見返しがその後を追いかける。言葉を司る所記と能記のように表裏が一体になる両者だが、その表面はいびつである。

ライマンが1960年代から取り組んできた白を基調とする一連の作品は、キャンヴァスのエッジをも意識させる一見ミニマリズム的な作品だが、その表面には荒くリズム感に満ちたテクスチュアが盛り込まれ、混沌の内に反復される即興音楽に似た、直感的な躍動感が見い出せる。視覚と同時に聴覚にも訴えるのがライマンの絵画の特徴で、そうした多重性が、古井の物語にいつも寄り添うある種の混濁に比類する。同世代に属する両者の作品は白という無色で結ばれるのだが、それが意味するのは単なる無音の静寂や空虚の淵では決してない。

「物を言わずにいるうちに、自身ではなくて、背後の棚の上の、壷が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで吸い取れたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある。」

この一節は2006(平成18)年4月にはじまる「黙躁」と題された連作小説最初の短編、「白い男」の冒頭から引用したものだ。物語は前年におきた「耐震強度偽装事件」、いわゆる「姉歯事件」をモデルとした、ある建築士の省察で始まる前半部と、彼が過去に体験した東京大空襲の回想を軸にする二つの場面で構成されている。古井はとりわけ短篇において、生と死、光と闇、陽と陰、動と静、というような、相反する要素を取り込むために、随筆を虚構の中に散りばめてきた。「白い男」においては、虚構ではじまる前半部が、やがて真実としての彼の戦時中の記憶と交錯する。

諸短編の集積を、「黙躁」という名の連作小説としてまとめ上げる力のひとつが、随筆と虚構との混濁という、古井独自の技法である。彼自身が語るように、その諸作品においては、堆積される時間と空間との往復による現実と虚構、随筆と小説とのあいだのさまよいが、創作の手法として機能する。中年期以来用いられてきた技法だが、老境に至る今、それは深みを増しつつ定着した。

翌2007年6月に終了した「黙躁」を同年12月に書籍化したものが、この「白暗淵(しろわだ)」である。「白い男」は「朝の男」と改題され、「地に伏す女」、「繰越坂」、「雨宿り」、「白暗淵」、「野晒し」、「無音のおとずれ」、「餓鬼の道」、「撫子遊ぶ」、「潮の変わり目」、「糸遊」、そして最後の「鳥の声」へと続いてゆく。

古井は自身の年齢に敏感な作家である。「内向の世代」の作家として、彼は自身の内面を折々の年齢に同期させてきた。その成長過程において、変わることなくその基底に存在し続けたのが、相反する陰と陽の並立だった。本書のタイトル「白暗淵」は、暗澹をあらわす「黒暗淵(やみわだ)」に背反する造語である。「黒暗淵」は旧約聖書の創世記にあらわれる語で、それを含む一節(*2)では、明と暗、昼と夜とを分断しつつ、水面を神の霊として大地をその対極へと配置する神の行為が示される。「白暗淵」という語は、その語源との対比を通じて、過去と現在、現実と虚構、生と死が混濁する世界を、一語の内に表象する。

老境に至る古井の作品には、リアルな戦時中の描写が目立つ。彼の作品においては、「狂気や死を、我々の深層に横たわる人間存在の根源として描く」ことが、作者固有のテーマとして掲げられてきた。人生の終端を見据える彼の近作には、そこに子供時代の輝ける時が加わるのだが、戦時中に見たその輝きには、絶えず死の暗い影が寄り添うようだ。

(*1)タイトルは「Pressor」、制作は1977年、(*2)地は定形(かたち)なく、曠(むな)しくして、黒暗淵(やみわだ)の面にあり

古井由吉白暗淵(しろわだ)

幻の光、宮本輝

太宰賞、芥川賞をそれぞれ受賞した「泥の川」、「蛍川」に次ぐ初期の宮本輝(1947 -)の代表作として、まず思い出されるのが「幻の光」である。関西弁による平易な語りの中に物語が描かれる短篇で、初出は新潮1978年8月号。翌79年に数編を加え、同名タイトルの単行本として出版された。

「幻の光」は、初出から17年を経た1995年、是枝裕和(1962 -)の監督デビュー作として映画化されている。作品は、とりわけローカルな風土の美的描写に敏感に反応した1990年代の欧米映画界で話題となり、各国で賞を受賞した。遠目のショットや、本作が映画デビューであった主役の江角マキコの生硬い演技が、映画に真実味を加味している。映画は英語では単に「Maborosi」と題される。

映画化という、言語をイメージへと変換する行為において、原作は潤色から免れない。映画では幾人かの登場人物やイベントが削除される一方、日本の原風景とも言えそうな、素朴な郷土の姿が加味されている。媒体の特性を活かし、秀逸な映像美を展開する映画だが、原作の底に張り付いている時代の空気や肉感が、脚本ではいくぶん濾過されている。原作の時代設定は執筆と同じ1970年代後半、それは戦争を境に混迷した古い社会の痕跡が、記憶や観念、また物質的にも残されていた最後の時代であった。それから約二十年を経て、映画は新たな時代感覚を下地にして、洗練された映像の中に「幻の光」を描き出す。

それにしても、「幻の光」とは一体何なのだろうか。原作には、人間とそれを取り巻く社会の、ある本質を示唆する記号であると記されている。

物語の主人公であり、それを語るゆみ子は、隣人の一家心中や祖母の失踪など、子供の頃から人々の不可思議な喪失を見ながら生きてきた32歳の女性である。成人し、幼なじみと結婚した彼女だが、遺書もない突然の鉄道自殺という、やはり不可解な理由によって夫を失うことになる。再婚し能登へと移るゆみ子だが、あてもなく線路を歩む前夫の姿が、解せぬ死の動機と共に、片時も頭から離れない。悶々とした日々を送るゆみ子だが、ある冬の日、猛りくる日本海の荒波の果てに、夫の死の真相を悟るのだった。子供にもめぐまれ幸福そうな前夫の姿。だが彼の心中は、深い孤独と不安に苛まれていたのではないか。線路を行く彼の後ろ姿には、貧困という不幸の重荷がまとわりついて離れない。

ゆみ子はある晩、夫に前夫の自殺の動機を尋ねてみた。「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」と、彼は答える。人は皆精が抜ける病を抱え、それが発病すると、眼前に美しい光が現れるのではないかとゆみ子は思う。拭い去れない貧困がその病を誘発し、レールの先に「幻の光」を灯したのではなかったか。ふと精が抜けた彼は、すべてを忘れ、ただひたすらその姿を追いかけた。

春の日の陽光を浴びつつ、物語を語るゆみ子の視線の先では、たとえようもなく美しく光輝くさざ波が、集ってはまた消えて行く。かつて漁に出ていた老齢の義父は、それを人の心を騙す光だと言った。だが彼女は今、光の中にそれとは異なる何かを見据えている。

宮本輝幻の光

片山恭一、愛についてなお語るべきこと

片山恭一の長編小説、「愛についてなお語るべきこと」は、WEB上で個々に発表された二つの作品を並列させながら、それぞれのテーマを最終的にひとつのメッセージへと昇華させてゆくという構成による、いわゆるジュベナイル小説としての趣きが多少感じられる作品である。NTTドコモの「電子書籍エブリスタ」に掲載され、2011年の5月に終了した「彼女の本当の名前」、メールマガジン「まぐまぐ!」に、2012年1月から同年8月にかけて掲載された「愛についてなお語るべきこと」、その二篇がこの一冊に収められている。

本書はまず、「彼女の本当の名前」で幕を開ける。物語の舞台は人類が滅亡の憂きに苛まれている近未来。自然が再び文明を凌駕してゆく過程の中で、野性に目覚め原始的な感覚を惹起しながら、さまざまな苦難を乗り越えて成長する少年と少女の姿が描かれる。物語の進展に伴い、危機の原因が新型ウイルスのパンデミックであることが示唆されてゆくのだが、次章から登場する、「愛についてなお語るべきこと」は、まさにその災難が始まろうとする、今を舞台にした物語である。タイのバンコクで行方不明になった息子を小説家が協力者とともに探し求めるという内容で、パンデミックの開始によって、物語はクライマックスへと突入する。

片山は、「彼女の本当の名前」では空想的な、また、「愛についてなお語るべきこと」では現実的な筋立ての中に、成熟した資本主義社会に潜む人類破局へのシナリオを描き出す。彼はそのような危機的シナリオを、人類自らが科学文明の発達に対する疑念の証として生じさせた自己崩壊だと位置づける。だが彼は一方で、それをある種の自己防衛本能であると解釈し、単に突き放すのではなく、そこに救済の萌芽を発見しようと試みる。崩壊の風景を単なるディストピアの表象としてではなく、ニーチェ的な「力への意志」の表出による新たなメッセージの出現の場としてとらえ直し、その言葉に「自由と平等」という、現代において力を失いつつある民主主義的理念の救済を託す。

本書の184ページで、主役の小説家がそのような作者の意志を代弁する箇所がある。小説家は、自由と平等という二つの原理に支えられた近代以降の西欧的思考に追従する現代社会の危うさを指摘し、そのような原理に支えられた社会を、個々の人間が拘束性の強い自己の内側でしか生きられない社会だとして糾弾する。本来は自己を克服し、その外部へと赴くことで、自己とその外側にあるものを、相互に浸透させ合うことが必要なのだが、われわれはそれを裏切り自己の内部にこもることで、過酷な競争を助長し、現代の悲劇、悲惨と不幸をもたらしてきた。現代においては「自由と平等」だけでは過不足なのであり、それだけではむしろ人間に悪しき影響をもたらすことになる。さらなる悲劇を回避するために何かを付け加えるか、あるいは新たな要素を設定することが必要なのであり、それはおそらく友愛、博愛、人類愛として語られるものに違いない。

片山が著した物語では、一貫して「死」が概念的に強調されてきたが、本書においても登場人物はすべて真摯に死と向かい合う。本書で片山が示唆する「愛」とはある種の博愛主義なのだが、それには語意を越えた「死」の裏返しとして表現される何かがあり、彼はそれを「自由と平等」の過不足を補うもう一つの要素なのだと訴える。そこで「愛」という言葉は再設定され、それにかわる言葉の必要性が生じてくる。片山は「彼女の本当の名前」を、愛の関係を象徴するもの、法的、経済的な関係の中で名づけられるもの、つまり、社会の中での役割を表す道具的な意味を帯びた名前ではなく、むしろそれを解除するための名前なのだと述べている。

ソフトカバーで発刊された本書には目次がない。そこで以下に各章のタイトルを列記する。奇数章のタイトルはすべて「彼女の本当の名前」で、偶数章はそれぞれ、微笑、家族、経済、密林、渋滞、寺院、楽園、戦場、木霊、劫火、永遠、足音と題されている。

愛について、なお語るべきこと

村上龍、イビザ

村上は1976年のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」以来、人間の退廃的な一面を強調することで、日本の現代社会とそこに生きる個の姿を、寓意的に描いてきた。文学という権威的な枠組みの中で、暴力やセックス、特異な生活といった諸々の醜さを大胆に表現してゆくのが、彼の典型的な手法である。

村上が1988年に発表した短篇集、「トパーズ」では、楽天的な明るさの中に退廃の魔の手が忍び寄る、1980年代の日本社会を背景に、その底部に張り付き生存するSM嬢の姿を通じて、普段は正常の衣をまとう男性達の、社会の醜と目される彼女らの存在なしでは完結できない、はかない同一性が寓意化されている。そこで村上が見るものは、一見荒廃した風俗嬢の日常と浅薄な思考に潜む、時代を勝ち抜く術である。傍目には極限的なまでに異様で悲惨な彼女らの日常だが、そこには不思議なユーモアが垣間見られる。トパーズは村上にとって思い入れのある作品で、1992年には彼自身を監督として映像化されている。「一直線にバブルに向かう80年代末」という「決して戻ってこないもの」、「絶対に取り戻すことができないもの」の存在を甘美な感傷として回想するために、彼は今も映画のあるシーンを眺めることがあると述べている。

バブルとは過剰を意味するが、文学を含めた現代の芸術は伝統的な形式のなかに意識的に過剰を侵入させることで、歴史を省みつつ独自の真理を探求しようとしてきた。過剰、とりわけ醜として底流部分に位置づけられる神話、未開、肉体といった、いわゆる第二項に属する物質的な生々しさを強調し、受け手を差異のなかに宙吊りにするのが、現代芸術の典型的な手法である。村上もそうした手法に追随するものの、彼はそこにユーモア、笑い、明るさといった享楽を併置するのを忘れない。彼がことさら忌避するのは退屈で、彼はそれを常識に浸された権力の象徴だと断言する。

「イビザ」は「トパーズ」刊行の翌年、1989年1月から1991年11月にかけて月刊カドカワに掲載された連作を、その翌年に加筆出版した長編小説である。本書の主役は性的にルーズな一般女性だが、彼女の思考は「トパーズ」に描かれた風俗嬢に隣接する。彼女は自分に向かい合うという目的で旅に出るが、旅の途中、彼女の無知が自らを危機へと導いて行く。彼女は精神的にも肉体的にも窮地に立つが、厳しい現実に対する意識と同時に、ある種の得心と安堵感がいつも彼女の心には芽生えている。現実には足場を失い自意識の崩壊の中にある彼女だが、ある種の明るさが、狂気の中に心の平静さを保たせる。彼女の同一性を求める旅は最後に悲惨な結末を迎えるが、その場においても彼女の内からはシニカルとも解されよう笑いが立ち上がる。

本書のタイトルである「イビザ」とは、旅する彼女が最後に行き着く場所の名前である。イビザは世界遺産にも登録される、地中海に浮かぶスペイン領の風光明媚な小島であり、豊かな自然や文化と対照的な歓楽街の存在が、昼夜を問わず至福の時を演出する。だが本書は、イビザをそのような現実の姿とは関係なく、虚無の中に自らの同一性を確立しようと悪戦苦闘する人々が最後に行き着く深淵の地、不在のメタファーとして登場させる。イビザは心の不在を表象する虚構の場所であり、したがって、そこに発見されるものは何もない。虚無の中に同一性を求める旅は、破滅的な結果に終わるのだが、作者自身も示唆するように、そこにある彼女の心は、必ずしもすべてが絶望とあきらめの闇に閉ざされた、暗澹としたものではなさそうだ。

フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)は、人間が同一性の拠り所とする自らの起源を、生前すでに開始された経験を土台にするものとして、人間と自らが信じる起源との隔たりを説いた。人間の起源とは自身の同一性を表象するものではなく、他者との関連性やそれとの結合の方法にしか過ぎないと彼は言う。フーコーに限らず、主観性から関係性の追求へと変貌する現代の哲学においても、様々なアプローチを通じて人間の同一性への問いかけが行われているが、村上はそれをも意識しつつ本書を執筆したのだろうか。本書はその内容を貫く自我への問い掛けにおいて「トパーズ」とは趣を異にするが、作者が唱える同一性の探求、自我への固執に対する反駁には、彼の感性によるものか、その暗澹たる厳しさのなかに一抹の光が残される。

イビサトパーズ限りなく透明に近いブルー

古井由吉、明けの赤馬

古井由吉(1937 -)の「明けの赤馬」は、1980年10月から82年1月まで、少し空けて84年7月に文芸各誌(新潮、文學界、文藝春秋、すばる、海)に発表した九編からなる短編集だ。谷崎潤一郎賞を受賞した長編「槿(あさがお)」や、連作短編集「山躁賦(さんそうふ)」等と同時期の作品である。気軽に読める各編だが、独自の文体をはじめ、そこには彼独特の小説手法が息づいている。

本書において顕著なのは随筆の虚構への取り込みで、相反する要素の並列が、虚構と現実との混濁という彼の文学テーマの意義を再確認する。本書において明確に小説として読み取れるのは、異なる人称から物語が展開する「芋の月」と題される一編だけで、残りは両者の揺らぎの中に物語が構築されてゆく。記憶を描く随筆にやがて虚構が侵入しはじめ両者は交錯してゆくが、それが予定調和的な物語の造型や時間性、定型的な主体の同一性を、それらが導びく結論とともに、混濁の中に置き去りにする。

「自己疎外の連続こそが人間の一生であり、生の目的とはそれからの回復に他ならない」。物語はそうした前提の基、与えられた目的を遂行する主体を設定する。だが現実の人間の内部においては、そもそも自己疎外へと至るような主体の同一性が必ずしも確保されているわけではない。そこで人間の主体化を促す試みは、主体や目的の非存在、単なる虚構に終始する。世界の純粋性を強調し、心を真実として両者の同一化を打ち立てようとする、いわゆる人間的な試みにも必ず虚偽が潜んでいる。

われわれは記憶を真実と見なすが、その実態は曖昧だ。思い込みも加わり、記憶の信憑性は絶えず虚構の影の内側にある。現在という地点を記憶の持続とするならば、現実は虚偽に満ちたものになる。虚構の現実への侵食による両者の恒常的な併存は根源的なものであり、そこから逃れ出るのは困難だ。

小説への随筆の注入という日常への接近は、目の前にある現実を、真実を終着点とする弁証法の外部へと導いてゆく。曖昧な記憶によって形成される物語主体の真の姿を露にする古井の技法は、意識や諸々の真実に張り付く信憑性への問い直しを読者に働きかけてくる。

古井由吉明けの赤馬

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