クラウスによる抽象絵画の分析

モダニズムは自らを自己反省、自己批判の体系であると認識し、抽象絵画をその時代の典型的な芸術として評価した。それを支えてきたのが形式主義的な批評である。アメリカの芸術批評界は、実証的な学問として作者の伝記や作品の図像的解釈に基づく美術史(美学)と、批評家の主体的な作品経験を重視する姿勢とを合体させた独自の批評を展開してきたが、その典型が形式主義的な批評であり、とりわけ戦後のアメリカ美術はそれを基に語られ評価されてきた。

形式主義的な批評家は、作品の意味をその内部に集約させ、その恣意的な解釈を通じて作品を評価する。作品の意味と作品とを同義として、芸術の自立性を主張する。このような批評行動に対して当時の若手の批評家達が疑問を投げかけて行くが、その代表的な一人がクラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )である。批評が価値判断を中心とするものから方法論を軸にするものへと転換してゆく中で、クラウスはモダニズムを批評するポストモダニズム的批評家として、ヨーロッパの構造主義やポスト構造主義を援用しながら、アメリカの形式主義的な批評に揺さぶりをかけた。

モダニスト絵画の考察

クラウスは随所でモダニスト絵画を様々な視点から考察しているが、その方法を示すテクストの一つとして、グリッド(格子状の枠)を論じた論文がある。ここでいうモダニスト絵画とは、形式主義的批評が擁護する抽象絵画のことで、具体的には第二次大戦後にアメリカで隆盛した抽象表現主義作品のことである。

モダニスト絵画を確定する定規として、形式主義がその絶対的な起源とするのが絵画に付随する平面性だが、論文の中でクラウスは、それを表象するものとして、抽象絵画の内部に潜むグリッドに着目する。グリッドは指標として与えらるものなので表面上に浮き立つ必要はないが、それを作品の主題として、直に描き込む作品も存在する。

モダニスト絵画は平面性を基盤としその概念を構築するが、クラウスはグリッドを、平面性という絵画の絶対的な起源が還元された形象であると定義する。モダニズムにとって平面性は唯一絶対的な起源なのだが、それはグリッドという形を通して表象されている。しかしその一方で、グリッドそれ自体は人間の歴史の中で反復されてきたものなので、モダニズムにおいては二重化を通じて唯一絶対という性質が語られていることになる。

そのような「起源と反復の二重性」を示すことで、モダニスト絵画の真の内容を露にするのが、ここでのクラウスの方法であるが、他にベンヤミンの複製の問題を通して、彫刻におけるテクニカルな問題としてモダニスト作品における二重性を指摘する論文もある。そこではモダニズムにおけるオリジナルのあり方を中心に議論が展開する。

オリジナル(original)とは、独創性や独自性が認められるものや、模造・複製に対する原物のことを意味する言葉である。芸術においてはこのオリジナリティ(originality)という言葉のもとに、作者のモノグラフから抽出されるロマン主義的な天才(個人の才能)の神話や制作者の意図を通じて、作品の価値や意味が決定されてきた。芸術は天才である作者の力によって更新され、新たな神話が付加される。作品の意味の全ては作者へと収束され、そこに現れる概念や神話こそが、作品のオリジナリティそのものとして理解されてきた。しかし作者の死という構造主義的概念を眺めることで、作者と作品との同一性が解体されてゆく。

モダニズム絵画の定義

モダニズムは絵画を外部から眺め、絵画における知覚の扱いを考察しながら、そのあり方を検証する。視覚の芸術といえる絵画がモダニズム的芸術として成立するための認識の構造を、視覚を通じて解析する。クラウスはモダニズム的な絵画を、地(ground)と図(figure)の関係を意識的に反省したものであるとして、モダニズムの構造を露にする。

モダニズムはまず視覚的に知覚するという行為への反省を試みる。地(背景)に対する図の知覚のあり方を再考するということだが、そこでまず地を視野という視覚全体の場であると考え、地を図の存在を可能にするための条件とする。その条件において絵画に描かれるのは視野の中に見えたものではなく視野自体の構造であり、地は視野そのものとして認識される。これは図の内部に新たな図が発生すると地に到達するという事に似通うものだが、認識の任意性において平面の特性が語られることに対する、モダニズムの反省であるといえる。

 

このようにモダニズムは視覚の機能的な問題に加えて、地と図の関係の恣意性(変換可能性)を認識させる事が、絵画に与えられた使命であると考える。そこでは単に地と図の関係に基づき知覚を眺める段階から、それが可能になる知覚の仕組みを探求する段階へと進行して行くが、その過程を経て到達する地でもなく図でもないという状況(脱地 / 脱図)に対する反省が、モダニズムでは理性による批判に終始してしまう。そのため地と図や脱地 / 脱図の二項対立が、無時間的な抽象空間の内部に滞留し、それがモダニズムのイデオロギーを規定するツールとして機能する。

モダニズムは対象ではなく視覚それ自体の構造を探求することから、絵画平面の中で地と図の関係が成立する構造を分析する。モダニズムはこのような分析方法を中立的で普遍的なものと考えるが、それを可能にしているのは、その過程の中で行われるイデオロギー的な抑圧と排除の仕組みである。クラウスは人間の無意識的な欲望としての身体を、その抑圧され排除されたものの一例として挙げている。

参考文献
The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, Rosalind E. Krauss, The MIT Press 1986
美術史を読む、林道郎、田中正之、美術手帖1996年2月号、美術出版社

ボアの理論モデルによる絵画の解読

ユベール・ダミッシュ(Hubert Damisch, 1928 - )は、レオ・スタインバーグ(Leo Steinberg, 1920 - 2011)が1970年代初頭に発表したフラットベッドと呼ばれる絵画平面(*)を先取りする理論を、それより10年も前に発表するなど、革新的な活動で知られる美術史家である。イヴ=アラン・ボア(Yve-Alain Bois, 1952 - )は、「Painting as Model」(October 37, Summer 1986)という論文で、そのダミッシュの理論等を参考に、抽象あるいは抽象的な絵画を考察するために、四つの理論モデルを定義した。ボアは作品を各理論モデルの中に哲学を包含する機械のようなものだと再設定することで、心理学的にあるいは感情論的に語られる凡庸な解釈からのそれらの救出を試みている。

ボアは歴史をリニアに進化するものだと前提する形式主義的な姿勢を取るが、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)やマイケル・フリード(Michael Fried, 1939 - )等とは異なる思考を通じて、諸問題へのアプローチを試みる美術史家である。

ここで訳出し、内容をまとめた論文「Painting as Model」は、「October」誌、1986年夏号に掲載されたフランス語からの英訳である。後年MITプレスから同タイトルで出版された書籍に再掲載された本論との比較は行っていない。論文には四種類のモデルが提示されているが、以下はそのうちの三つを要約したものである。

I:知覚的モデル

サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905 - 1980)は、絵画を知覚するという行為を、表層に表現されたイメージを形態として捉える行いのみに限定し、絵画のマテリアルの存在や、それが持つ質感を無視している。彼の考えでは、われわれが確認できるのは表層に描かれた形態に限定されており、イメージを捉えるために、われわれの意識は退化する。模倣に固執するサルトル的な解釈では、抽象作品の媒体の特性は無視されることになるので、単にその表層にある幾何学的なイメージを通じて判断され、解読されることになる。

その一方で、知覚的モデルに属する抽象作品は、シニフィアンの詳細として、絵画が持つテクスチュアに着目し、素材的見地から絵画を見据え、その物質的存在感を示すことで、サルトル的読解に対抗する。それらは独自の美的表現や非現実的な表象を主題とする抽象画だが、その確固たる質感が、静かにその全身でもって、表層的な解読を退けている。

例えばモンドリアン(Piet Mondrian, 1872 - 1944)の作品を知覚的モデルとして眺めると、その明快で幾何学的抽象のまさに対極にある知覚的アポリア(難題)として、作品を理解することが可能になる。モンドリアンの作品の要は直線であり、曲線はすべて取り除かれている。その理由となるコンテクストは、しばしばモンドリアンの心を支配した神智学だが、知覚的モデルとして彼の作品を眺めると、それはいったん保留される。作品は代わりに明確な理論的モデルとして提示され、イメージの内部にではなく、作品上に展開される思考の発展そのものが、作品の主題として取り扱われるようになる。モンドリアンが描く特徴的な直線それ自体によって、彼の思考の発展が表現されている。

直線に相反して空間を満たす曲線は、その空虚を表象する。イメージに対するわれわれの意識は、空間を埋め合わせるための口実でもあるかのように、空間自身に配置された曲線へと、いやおうなしに導かれる。意識はその意味として、そこで何が構成されているのかを見極めようと、留まることなく思考し続け、目は休むことなく絵画の構成要素である線や色、そして形象へと引き戻される。

モンドリアンの絵画における曲線の排除は、そのような意識の衝動を停止させる役割を持ち、排除によって衰退させられた意識が呼び戻される。彼の直線のみで構成された作品では、その直線が絵画本来の物質的存在を喚起する。サルトル的な映像意識は、対象を構成することに終始して、そのまま尽き果ててしまうのだが、曲線のないモンドリアンの作品では、結末のない規定的な意識的活動が、継続的に上書きされてゆく。

実際にモンドリアンの作品に対面すると、それから何かを思い浮かべ熟考するという、ごく普通の衝動から逃れることは困難だ。しかし一方で、知覚的モデルとしてその作品を目の前にすると、サルトルが保証した感覚的悦楽を超えた、ある種の戯れの始動が感じられるのも確かである。作品が映像意識を禁じることによって、鑑賞者は絵画を真に知覚するときに感じられる、ある種の不安感にも似た感覚に気付かされるはずである。

知覚的モデルは両義的であり、見るという作業において、知覚的な交感が必要になる。またそのような両義性は、デュビュッフェ(Jean Dubuffet, 1901 - 1985)の絵画のような、全体が厚いメジウム(絵の具)で覆われた作品において、より顕著にあらわれる。彼の絵画では、描かれた形態(フォーム)が曖昧なシルエットと化した背景として理解され、テクスチュアとして見なされる。そこで、奥に隠れた形態とその構造を理解するために、視線は逆にそれより浅めに差異化された背景の方へと移動してゆくのだが、表象はその対象の幾何学的な輪郭へと還元されずに、テクスチュアに縛られたまま、留まり続けることになる。そのような状況は、われわれの持つすべての感覚を同時に引き出してゆく。知覚的モデルとしてのデュビュッフェの絵画は、形態のイデエ(イデア)を、それ本来の意味に修復する。

知覚的モデルは、イメージを統合するさいに、知覚それ自身の確定不能性を保証しないままに、地と図の対立を混乱させるという予備的なタスクを、モダニィティー(近代性)に与えることに成功した。知覚的モデルは、地と図の関係に潜む両義性を確定することで、モンドリアンとジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)との比較を可能にすると同時に、ポロックの抽象と具象とを異なるものだとするような、生産性のない解読を否定する。

II:技術的モデル

グリーンバーグやフリードは、サルトル的な想像意識や非現実をより注意深く取り込みながら、ポロックのオールオーヴァーペインティングを、独自の理論で解読しようと試みた。技術的モデルは、サルトル的思考を拒否しつつ、同時にそのような形式主義的解読にも対立する。技術的モデルにおいては、意図的な作品の地表面からの理解、つまり、そこで表現される効果に先立ち、まずそれを構成の場として理解することが要求されるので、それを読み込む思考プロセスが特に重要な意味を持つ。そのような特長を持つ技術的モデルの一例として、ポロックが1947年から1950年の間に制作した、ドリッピングジェスチュアを作業主体とする、巨大なオールオーヴァーペインティングが一例として示される。

一般にポロックの個性は、作品に散りばめられたペイントと共に、キャンヴァス上で展開されるジェスチュアと同義的に解釈される。したがって、彼のタッチは単なる痕跡、彼のジェスチュアが必然的に生み出した生産物として、読み取られることが多い。だが真に重要なことは、そのタッチこそが、面=地と調和する前にペイントを活性化させているという事実である。むしろジェスチュア(あるいは痕跡)の方が、初期的な段階に留まっているのであり、そのことが、それぞれのタッチが、先行したタッチと背景との関係が生み出した効果を拒否し、破壊してゆくことを可能にしている。活性化したペイントとは、それぞれのタッチが描き出す線の重なりの厚みのことで、それが表面の構成の根本原理に対して革命を起こす原動力となる。キャンヴァス上には、一面に広がる多くの線が地を掘り起こすかのように描かれているが、対位法的な作業の中で、線の幅がそれ以上の発展を見ることはない。そこで発展するのは、重なり合う線の厚みであり、個々の線はその先行する線との関係によって、意味を生じる。

技術的モデルとして考察するポロックの作品に見られるペイントの厚みは、知覚上での地と図の混乱に相当するもので、同時にその機能は、彼の作品がシュールレアリズムに対抗するものだという事実を証明する。また、ポロックのこの種の作品を独立した技術的モデルとして理解すると、サルトル的な知覚認識が滑り込む余地が残されている「The Flame」におけるジェスチュアーや、「Male and Female」、あるいは「Sea-Wolf」の殴り書きを、単に後に描かれる偉大な作品を準備する予備的な記号として扱うような解釈は不可能になる。

技術的モデルは絵画のテクスチュアを主眼にして作品を解読する。そのいくつかの例としては、デュビュッフェの作品における隠された下地の再発見、クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)の作品における表面とその下部との位置の変換、モンドリアンやルオー(Georges Rouault, 1871 - 1958)の作品に見られる織り合わせ等があげられる。技術的モデルでは、テクスチュアという物資的厚みの内部で起こる効果の進展が、常に透明になっている。そこでは固定化された記号が生み出されるようなことは決してなく、あたかもその糸が交互に上下する織物のように、下部と上部の間の位置の変換が起こっているのである。

技術的モデルとして絵画に潜む現代性(モダニティー)を、そこに表象されたイメージ(イマージュ)からではなく、下塗りの復権、平面性、タッチの並列、連続的な階調というような技巧的観点から示すのであれば、下部に関する観点がどのようにして潜んでいるのかということを、作品から読み取らなければならない。絵画は本来その表面に現れる効果だけを目的としたはずだったが、必然的にその厚みの中にも重要な何かが潜むことになった。

III:象徴的モデル

絵画は世界を解釈するための鍵として機能する。その鍵は決して模倣的なものでも類似的なものでもなく、科学や言語と共通する象徴的なものである。したがって絵画には、ディスコース(言説)と同様であるにせよ異なるにせよ、文化的使命が課せられている。二十世紀になって抽象表現や構造主義が台頭することで、絵画はディスコースとの関連において解読されるようになり、その進歩はあたかも民俗学的な変化の原理であるかのようにとらえられ、その解釈は考古学的な、あるいは認識論的な様相さえ帯びている。絵画は質疑の場において、数学と同様に象徴的なレヴェルで主張されるようになった。そこでは美術や数学というようなジャンルが消滅し、一体となった解読のあり方が主張されるのだが、それが種々の作品を象徴的モデルとして再解釈させることになる。象徴的モデルにおいては、ディスコースとの関連で作品を読み解く規範が示される。

その一例としてとしてあげられるのが、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille, 1897 - 1962)が、「哲学が与えた数学的外套を剥ぎ取った」と形容するアンフォルメル(informel)である。アンフォルメルは、そのひとつの作用として、分類という規制を解除し混乱を導き出す。アンフォルメルは常に形状や方向を変えながら、視覚中心主義への侵犯を繰り返し、その作用はモデル上では背景の混乱として提示される。キャンヴァスの垂直面と床の水平面への投影の関係が見直され、既存のフォームの観念は打ち砕かれることになる。関係の見直しによって、両者はもはや中立な立場として、それぞれが関係なく、互いが単なる背景として機能することはできなくなるが、その一方で、それらは事物の映像(思考)の本質的な要因へと変化し、絵画の主題を構成するようになる。

この解読はユベール・ダミッシュが、デュビュッフェの作品にヒントを得て、完成させたものである。デュビュッフェの作品は、視線を絵画表面を真上から見た地面のように据え付けさせると同時に、壁に直立される絵画の地が、線や陰影による人間の介入を想起させるという、二重の願望を含んでいる。現代絵画のある一側面から提起される、そのような垂直と水平の混乱は、その重要性が未だ推測されるにすら至らなかった時代において、光学的な批評の本質的転換を予見する出来事だった。ダミッシュはすでに1962年に、この概念をデュビュッフェの絵画を解析するために用いていたが、それは約10年後、レオ・スタインバーグがラウシェンバーグの絵画面(picture plane)を解説するために提示したフラットベッドを予期させる。象徴的モデルにおいては、すべての西洋美学がそれまで基本としてきた分類が崩壊する。その崩壊を通じてキュビズムからミニマリズムまで、1920年代から50年代、そして60年代の抽象画に至るまでの、すべてのモダンアートの高次の部分が探求されることになると考えられる。

ポロックの作品の背景は、彼の活動の場そのものでもあり、常にあらゆる側面からの攻撃にさらされている。背景は迷うことなく彼によって突き通されるのだが、それは同時に、常に物質的な抵抗を示してもいる。ポロックの作品では、とりわけ表現とアクションとの間に巻き起こる対概念が転倒しているが、そのような象徴的モデルの特質は、例えばサウル・スタインバーグ(Saul Steinberg, 1914 - 1999)のドローイングテーブルや、モンドリアンの作品の中にも発見することが可能である。

(*)フラットベッドは、異なる素材が混合され併置される絵画平面のことで、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925 - 2008)の一連の作品がその代表作として示される。それは自然から文化への変貌という芸術の主題における根底的な変化に対応する異種混交的な絵画平面で、そこにはモダニズムの絵画にはない文化的表象や工業製品等が描かれている。フラットベッドはモダニズムの絵画平面から発達したものではなく、観者の視点へと向かう方向性も廃棄されているが、それがモダニズムの非連続的性質を示唆している。

参考文献
Painting as Model: Yve-Alain Bois, John Shepley (Trans.), October 37 (Summer 1986)
反美学 - ポストモダンの諸相:ハル・フォスター(編)、室井尚・吉岡洋(訳)、勁草書房、1987

Hubert DamischLeo SteinbergYve-Alain BoisClement GreenbergMichael Friedサルトルバタイユ

グリーンバーグの抽象絵画論

1. ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグ

ハロルド・ローゼンバーグ(Harold Rosenberg, 1906 - 1978)は抽象表現主義絵画をアクションペインティングと呼称し、それを画家の内面の記録であるとしてその解析を試みた批評家である。彼はこうした抽象画を画家の伝記であると解釈し、創作作業における画家の生きた各瞬間を連ね貼り合わせて出来上がる内的感情の記録であると規定した。アクションペインティングはまさに心理描写であり、そこに描かれているものとは画家の人格を浮かび上がらせるためのプロセスで、それは画家の身体の化身に他ならない。画家という人間が肉体と内的心理空間とからできているように、絵画もその材質的な表面と、そこに浮かび上がるイリュージョンとで構成されており、画家の心理と絵画のイリュージョンとの一致が、人間感情のメタファーとしての作品を成立させている。描かれたあらゆるマーキングは強力な内的経験の印であり、作品は画家個人のなかに囚われた人格の動き、内的な犯すべからざる神聖な領域をあらわす地図として一瞥のもとに鑑賞されることになる。

一方クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)は、絵画と言う媒体の特質を、その二次元的特質がもたらす平面性に集約させることから抽象の意義を説く。彼は遠近法を初めとする絵画に物語性をもたらすあらゆる絵画機能を、平面性を壊すイリュージョンを媒介するものだとして否定する。物語性とは人間の判断力を麻痺させるキッチュにはびこる要素であり、それを退け各媒体における純粋な視覚性を獲得することが、高等芸術(ハイアート)の使命である。カント的アイデアリズムをモダニズムの基礎に据えるグリーンバーグは、絵画の奥行を徹底的に排除し、二次元的な平面上に繰りひろげられる色面や形態へと視覚を集中させることが、絵画に真の純粋性をもたらすのだと考えた。グリーンバーグはそのアイデアを、ヨーロッパの抽象的モダニズムやアヴァンギャルドに求めつつも、その反体制的側面は形骸化し、評価を鑑賞者、つまり彼の趣味判断に応じて、彼らが扱うフォームや色彩を適宜強調することで、現代アメリカの資本主義社会に適合した形式主義として、モダニズムを再構成しようと試みた。グリーンバーグは十九世期半ばにマネが描いたオリンピアをモダニズムの原点として評価するが、そこにある説話的、政治的なコンテクストは全て無視し、マネの平面を強調するような色彩の扱いだけを評価する。後にグリーンバーグはマイケル・フリード(Michael Fried, 1939 - )等と共にこうした形式主義を更に推し進め、ポストペインタリー・アブストラクション呼ばれる、絵の具の盛り上がり、筆跡やテクスチャーをも抑えた、極限にまで絵画の物的的特性や平面性を支持する方向へと進んで行った。

このような形式主義に共通するのは徹底的な時間性、物語性の排除であるが、この点に関しては美術作品を劇場性との観点から論じたフリードの論文、「Art and Objectfood」が、グリーンバーグの論説を補強する役割を果たしている。

2. グリーンバーグの抽象絵画論

美術作品には一定の分析能力が認められるが、実際に個々の作品は社会の一断面を表象し批評するツールとして機能する。前衛美術は大衆芸術を取り込むことで媒体を拡張させ、そのような批評的能力を最大限に拡張させた好例だが、美術の大衆芸術への接近を危機感とともに否定する批評家も存在する。クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)もそのひとりで、彼は芸術の大衆化をポピュリズムとして頑なに拒否し、独自の形式主義的な抽象絵画論を発展させた。

グリーンバーグの出発点も十九世紀の美術における写実主義や人間中心主義の否定から始まるが、彼が主張する形式主義は、表現形態に内在する純粋性を追求する形態的なラディカリズムとして構築される。その主役は自律的な抽象作品で、絵画平面の二次元性をその純粋性によって極限までに強調することで、観者の批評能力を拡大する。自律的な抽象作品は、線や面などの基本要素を支える空間的な構成を強調する一方で、時間的な構成を、一時的な快楽と引き換えに批評能力を衰退させる大衆芸術を支える具象性の柱だとして退ける。

グリーンバーグの論文は二十世紀の抽象美術、とりわけ抽象表現主義絵画を語る際の欠かせない資料として各所で引用され、また解説されている。以下は哲学者であると同時に美術史家でもあるアンドリュー・ベンジャミン(Andrew Benjamin, 1952 - )の抽象絵画に関する著書から、グリーンバーグの理論を説明する部分を翻訳し要約したものである。文章に付加されている副題は、筆者が任意に記したものである。

はじまりとその精神

グリーンバーグの本格的な芸術論は1939年に発表された「アヴァンギャルドとキッチュ(Avant Garde and Kitsch)」から始まった。当時欧州ではファシズムが台頭し、ユダヤ人が公然と排斥されていたが、本論にはそれが支持する芸術形式の進入に対する危機感が如実にあらわれている。ファシズムが支配する社会における芸術の状況を念頭に語る論文で、芸術の継続性と、それを維持するための形式の提示を主題とし、ファシズムと大衆の関係から、芸術のありかたが議論されている。

ファシズムは集団として機能するが、それを構成する集団や大衆は未熟であり、ファシズム自体を自ら調停する能力や役割を保持していない。したがって、ファシズムそれ自体は、その成長段階において徐々に大衆との接点を失ってゆく。本論では、そうした未熟な集団による芸術の占拠の可能性を念頭に、ファシスト的作品との対比の中から、グリーンバーグが守ろうとする芸術(高等芸術=ハイアート)の姿が論じられる。そうした集団により芸術が占拠されてゆく中で、ファシストの侵食への抵抗として構築される場としての芸術を、いかにして延命させるのか。本論において、グリーンバーグはその道筋を模索する。

全体主義は芸術が活動する場を占拠し、芸術はその占拠に対する抵抗を続けようとする。全体主義が攻撃のデバイスとして用いるのが、論文の表題にあるキッチュである。とはいえ、本論でグリーンバーグが描こうとしているのは、アヴァンギャルドとしての高等芸術と、キッチュとしての大衆芸術との拮抗ではない。彼の論文の趣旨は、芸術のポピュリズムによる政治的脅威からの救済と、その戦略の探求である。実際のところ、キッチュに対する攻撃の必要性、また芸術が持続可能になる場を維持するための必要性、それらは共にどのようにファシズムに対抗するのかを決断するための問題の一部にしかすぎない。

グリーンバーグは、美的価値とつながり合う作品の完全性に、その価値を求めようとする。彼の言う価値とは、精神性や超自然などに依存しない完全性であり、芸術のための芸術として、その発展性の中にこそ見出すことができる価値である。彼が想定するそのような価値を有するモダニズム的作品とは、その内部でそれ自身を信任し自ら肯定する、自己完結的で自律的な作品である。自律的な作品は、自らの内部で自ら解釈し、その完全性を自ら追求する。彼はモダニティー(近代性、現代性)を歴史的な芸術活動(実践)と並置するが、その並置が絵画の歴史を実践との関連を通じて解釈する事を可能にした。

歴史と同時性

グリーンバーグは抽象を趣味の段階で肯定も否定もしないが、それは彼が抽象の必然的な進化が、歴史の力によって裏書されているものだと信じているからだ。抽象は常に美術史の内部において、今ここで体験されている状態、美術体験の内部へと引き込まれてゆく感覚を味わう中で、その転換点が告げられる。そのようにして抽象は、歴史の中でアヴァンギャルドとして語られる。だが実際にはアヴァンギャルドと呼ばれる美術作品には様々な形式の作品が含まれているはずで、また当然すべての絵画がアヴァンギャルドであるというわけでもない。にもかかわらずグリーンバーグは、アヴァンギャルドの意味を、絵画における抽象あるいは抽象性に限定し、絵画なしでの歴史の発展を否定することで、独自の美術史を形成した。

グリーンバーグが想定する美術史の形成においては、メディウム(媒体)の特質が重要な役割を演じることになる。彼はメディウムの優位性という観点から絵画の特殊性を論じるために、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729 - 1781)のラオコーンを参照するが、メディウムがもう一方のメディウムを要求し、互いにもたれ合う状況を通じて語られるレッシングの理論とは異なり、徹底して絵画を文学的要素から引き離し、絵画の特性を侵食する文学性に関連するメディウムをすべて消去することで、絵画の優位性を確立する。アヴァンギャルドはその特性上、常にメディウムに関連付けられることで、それ単独での芸術の進行が可能になる。絵画の場合、特定のメディウムへの集中は、フレーム内部での空間の操作、メディウムと空間との関係性へと関連付けられる。グリ−ンバーグは、彼の理論の正当性を確認するための契機を、十九世紀における絵画空間の衰退と、その再生の物語の中に求めている。

十九世紀の絵画史は、その進化の道筋を概ね三段階に分ける事ができるのだが、グリーンバーグはとりわけその第二期を、衰退期として評価する。その時期の絵画は逸話や伝言に頼るようになるので、あたかもレリーフや彫像のような、そこに描かれる画像には、鑑賞者の想像する何かへと変化してゆくことが要求されている。画像はまさに、フレームと四角いキャンヴァスの内側にある空虚な漠然とした空間に、ただ単に存在するモノになる。絵画は生き生きとした画像(pictorial)から、ピクチャレスク(明美、絵画的)な画像へと、退行したのである。

だがそのような状況は、クールベ(Gustave Courbet, 1819 - 1877)によって覆えされる。彼の絵画には、メディウムと空間との関連性のなさが確認される。彼の絵画では、マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)や印象派へと引き継がれてゆく、それまでにはない新たな平面性が動き始めている。彼の絵を見つめる鑑賞者は、画像を見るという行為から切り離されている。鑑賞者は、単に作品の外側に佇み作品を見つめ、想像によって作品を形成するという、受動的な行為から開放されるが、彼らにはその代わりに共に作業を行うための能動性が要求される。その過程で重要なのは、鑑賞者の芸術作品に対する経験である。芸術作品の主題の経験は、あらかじめ作品の内部に刻印された歴史的位置付けに従って出現するが、それは同時に新たなモダニィティーの到来の、基本部分になるものだ。

グリーンバーグの言うメディウムの特化とは、その純粋性の確約を意味している。そして、その純粋性の議論は、時間との関連で語られる。抽象とはその形態の純粋性によってその効果を得、フォームの内面性によって自己充足性を満たす芸術である。一方で、そうした純粋な芸術に反応する感覚が存在するが、抽象とその感覚は、抽象が感覚以外の何ものでもなくなる限りにおいて、統合される。少々複雑な表現だが、そこで問われているのは、鑑賞者が抽象を見る時の「同時性(単一性)=一瞬にして見ること」という、時間性の問題である(*)。同時性は鑑賞者に、持続する時間の継続の中から一点へと集約することを要求し、引き換えに作品は、鑑賞者を閲覧するという状況(文脈)から切り離す力を得ることになる。

同時性という時間の持続が欠落した単純な時間概念は、純粋性による仲介物の排除に支えられている。自己充足性から導かれる思考としては、絵画を表象の水準から解釈する必要はなく、したがって抽象を表象の否定という側面から論じる必要もない。そのような思考によって、クールベやマネのような、実際は表象が強く作用するような作品でも、それを抽象独自のものとして解釈することが可能になる。鑑賞者の即時的な受容に対する欲求も、対象の形態を通じた働きかけや、形態の機能を尊重する主張を無視することで確認される。

完全には還元できない部分を一部に残しながらも、グリーンバーグの理論における種々の論説は、一瞬にして見るという対象の同時性と結び付けられている。詩よりも彫刻や絵画のほうが、純粋性の実現に向けてのより大きな包容力を持つという議論の中で、同時性はそれに対する解答と常に関連付けられる。グリーンバーグにとっての対象とは単に感じられるものであり、そこには鑑定すべきものや、確認すべきものは存在しない。描かれた対象や、解釈され、表象され、配置された対象からの要求よりも、対象の内部での操作と、それ自体を描写する方法にこそ意義がある。

グリーンバーグ独自の時間概念における同時性は、存在と行為とが同時にあることによってもたらされる。一塊となった両者は単一なものとして受け取られるが、それが絵画表面の平面性にまつわる主張を生み出す特別な時間概念の基本になる。仮想的平面における奥行は、それが対象の二次現性へと還元されることによって克服される。つまり絵画は、リアルな表面の物理的空間に妨げられ、絵画空間が解釈不可能であることが理解されることで、絵画にとって可能な純粋性に到達する。そのような状況への到達が、まさに歴史的な、絵画の自律性の確立をサポートする。

だが一方で、存在と行為とが同じ広がりを持つことは、そのような同一化の結果として起こる、装飾の問題という絵画の重複(余剰)の問題を引き起こす。議論の中では、そのような絵画の分解が、モダニズムの自己批判的プロジェクトに内在する問題として、現実味を帯びてくる。だがグリーンバーグは、絵画の分解として総括されるそれら一連の問題を、彼が現代の感受性と呼ぶ、対象の内部に起こる出来事へと集約する。彼はモダニズムの経験に視点を定めて、その問題に対処する。

グリーンバーグの概念で重要なのは、対象と時間との相互作用で、対象の単独性は、常にそれが提示される場面では、点として理解される。イーゼル絵画の崩壊という脅威に繋がるにもかかわらず、彼は対象、時間、知覚との間で起こる緊密な交換性を、画一的に組織化する。組織化は、対象の統一、経験の単一性、メディウムにより一瞬のうちに与えられる経験、それらが同時に展開する中で行われる。グリーンバーグは芸術に対して、還元不可能性の中で、対象の還元不可能性が修復されるかのような伝達を要求する。そのような対象と経験との相互作用の特質は、1960年に発表された論文、「モダニスト絵画」で検証されることになる。

(*)作品を見る時間を対象の維持と同義に考えると、作品を観るその場で統合される経時(時間の持続)が含まれ、そこに厚みをもたらすのではないかという疑問が生じる。しかし、グリーンバーグの言う同時性では、対象は単一の経時しか含まないということを前提とするので、対象はその瞬間的な受容を要求できる。グリーンバーグの論文では、絵画と時間性が繰り返し関連付けられているが、注意すべきことは、感覚と、抽象作品における「同時性=一瞬にして見ること」との関係において、両者ともに異なるかたちではあるものの、そのように時間を含んでいるという事実である。

自己批判と平面性

現代の美術は歴史と断絶しているという議論がある。だが、そうした議論を越え歴史を更新するのがモダニスト絵画であり、その真正性は他のいかなる芸術より進歩している。かつて発見されたことのない新しさが抽象の内部で始動しているが、その新しさは美術の伝統を損なうようなものでは決してない。グリーンバーグは歴史的時間のなかで進化するモダニスト絵画を繰り返し賞賛するが、彼の議論は、絵画と時間性、そしてその結果変貌する絵画空間との関連の基に組み立てられている。

新しい絵画を毀損し、その位置を占拠しようとするのは、装飾やセラピーのような非芸術であり、それは美術が継続し進化するために必要な空間を閉じようとする。だがそれに対して、モダンアートの自己批判的特質や許容度が、芸術を非芸術への落ち込みから救済する。モダニズムの本質ともいえる自己批判的特質とは、その能力の領域でより強固に身を固め、その規律が規律自身を批判するという、特徴的な方法を意味している。その特質は、歴史の転覆や断絶にではなく、歴史の流れの中に斬新さを打ち立てるという、その目的として語られる。芸術活動の内部から湧き起こるその戦略は、実践を通じた明確な行為によって、最終的にその目的を確立する。経験から語られるのが自己批判であり、その出現によって、初めて芸術のユニークな経験が確証され、許容されることになった。

自己批判は一般論としてではなく、個々の芸術形態に特有なものとして語られるべきものである。批判に際しては、個々の形態に適切な表現媒体が必要だが、それを規制するのは不可能だ。それぞれの芸術は、それ自身にとって唯一で排他的な効果として、ある種の近代性の印のように現れる固有の媒体を提示することが可能である。そして、その媒体の提示によって純粋性が立ち現れるのだが、それは自ずから高い排他性を保っている。批判をかわしながら、同時に美術に固有の精神的な、あるいは超自然的な側面を排除するためには、排他性を高く保ち純粋性を強調することが必要になる。芸術活動とそれがどのように関連するのかという、芸術の特殊性にかかわる議論を、純粋性は保持し強化する。「純粋性の意味は自己定義であり、モダニズムは芸術に注意を引き寄せるために芸術自身を用いる」という言葉に集約される過程そのものである。

モダニスト絵画における純粋性の議論は、絵画の特殊性が最もよくあらわれる平面性へと集約される。かつて美術が文学から切り離されたように、絵画は彫刻からも切り離される。絵画の真の自立を促すためには、文学性の進入を阻止するだけではなく、彫刻のもつ三次元性とその表現にも注意を払う必要がある。モダニスト絵画は自己定義の一環として、それ自身が平面性へと適応し回帰してゆくが、その終点は平面性そのものにあるのではなく、その表象のしかたにある。絵画は排他的であろうとするために、表象の領域から抽象へと移行するが、まさにその移行とは、封印されたフレーム内で三次元性を隠蔽するという行為から離脱し、二次元性へと向かう動きそのものである。

実際にそこで問われているのは、絵画の表象との係わりに関する核心部分であり、そこから出現する事柄が抽象の条件となる。その条件とは、モダニスト絵画の最終段階で何が破棄されるのかという疑問に答えるものである。そこで破棄されるのは、目に見える対象の表象ではなく、目に見える対象が住み付くある種の空間だ。絵画の使命が自己の確認である以上、抽象は絵画によって取得される形態(フォーム)を否定するが、抽象は表象を完全に排除するわけではない。抽象は表象の領域がもうそれ以上関係できない極限に達したときに立ち上がるが、画面に確認できる対象が存在することを、その過程が排除してしまうわけではない。

絵画が取得するのは対象の形状だけではない。抽象は図と内容の両方を拡張するが、その拡張は存在と行為の同時性として確認できる。グリーンバーグは視覚的(オプティカル)な動きと関連付けることで、そのような性向を、マネや印象派から現代に至るまでの絵画の中にたどっているが、彼はとりわけ十九世紀のマネの作品における色彩と線画との対立の停止に伴う完全に視覚的な経験だけの残留を、モダニスト絵画の最終段階と結び付けている。最新の抽象画は、印象派という典型的で完全に絵画的と呼び得る美術が引き起こす感覚としての視覚についての主張を満たそうとするもので、それを語るには視覚性とともに、時間の概念を再考する必要がある。モダニスト絵画の議論の中での厳密な部分において、自己定義は同時にまた一度に鑑賞者に与えられるという事実と視覚性とは、密接に繋がっている。視覚的経験の同時性(単一性)は作品の同時性によって支持されており、抽象絵画における表象空間の軽視または排除は、その存在、行為、そして時間の同時性との間における、相互作用の結果である。

参考文献
What is Abstraction?: Andrew Benjamin, Academy Editions, 1996
Avant-Garde and Kitsch: Clement Greenberg, Partisan Review 6(Fall 1939)
Modern Art and Modernism: Ed. Francis Frascina and Charles Harrison, Open University, 1992
Harold Rosenberg, The Tradition of the New, Granada, 1962

Clement Greenberg

フーコーの抽象絵画観

芸術や美学を専門に取り扱うことがなかったフーコー(Michel Foucault, 1926 - 1984)だが、その数少ない例外の一つに、ルネ・マグリット(Rene Magritte, 1898 - 1967)の作品を論じた「Ceci n'est pas une pipe(これはパイプではない)」というタイトルの著書がある。フーコーは本書で言語と画像との断絶が明確に表象されているマグリットの絵画を通じて、言葉と物が出会う場=秩序としての言説の仕組みを解説しているが、絵画が言葉を取り込む過程の中で、クレー(Paul Klee、1879 - 1940)とカンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866 - 1944)による抽象作品に言及する。フーコーの解説は、その仕組みが完成される前段階としての例示に留まるが、われわれが抽象絵画とその表象の仕組みを、芸術におけるエピステーメーの変貌として考察する際に参照され得る、ある基本的な事柄がそこに描かれているようだ。

フーコーは言語とイメージとの関連を追求するにあたり、まず十五世紀から二十世紀へと至る西洋絵画を支配してきた二つの基本原則を規定する。彼は透視図法の導入にはじまり、抽象による模倣の完全な廃棄へと進行してゆくまでの五百年にわたる絵画の歴史を考察し、イメージと言語との、また対象と表象との類似という観点に基づく絵画の仕組みを考察する。その仕組は二つの基本原則によって支えられてきたが、クレーの作品によってその第一が疑問に付され、カンディンスキーの作品によってその第二が断裂される。

十五世紀以降の西洋絵画では、類似を暗示する造形的な表象と、それを除外しようとする言語的な連関が完全に分離されている。それが第一の原則で、その原則においては、類似によって語られるイメージと、差異によって語られる言語が、融合したり交差することはなく、したがって両者のあいだには絶えず従属関係が伴なうことになる。だが言語がイメージに、またイメージが言語にと、どちらかが一方的に支配されるわけではなく、両者の関係は不安定で、テクストの注釈化や、その逆のテクストによるイメージの独占というように、両者の優劣は交代する。そこで重要なのは、いかなる場合においても、言葉とイメージ、言語記号と視覚的な表象とが同時に与えられることは絶対にないということで、現れる順序によって両者は常に階層化されつつ、常に叙述と形態との境界のあいだを行き来する。

クレーの絵画は、そのような不均衡のうえに成り立つ危うい均衡を表現し、それを疑問に付す。彼の作品の多くは、描かれた対象が確認できるものの、絵画空間には奥行きがなく、平面的で抽象性が高いのだが、そのようなクレーの絵画から、フーコーはある作品を選び出す。その作品の画面には、矢印という前言語的な記号が並置されているが、その独特な浮遊感を伴う矢印は、形態と線画が織り成す構文の仕組を解説すると同時に、この原則を支える均衡の破壊を模索し、原則の不確実性と両者の反転可能性を予見する。

矢印とは原初的な方法で類似を表す記号であり、図像化された声として、従属関係を定式化する。矢印は描かれたイメージの行く先、眼差しが進む方向を示すことで、イメージはそれに沿って動かされ、そこに描かれるべき線画が示唆される。作品にはそのような仕組みを持つ矢印がいくつも描かれているが、それらを追う眼差しは各々を中心へと送り返すかのような、あるいは各々が示す場所にあるべきイメージを表すかのような言葉を連想させる。形態であると同時にエクリチュール(書かれた言葉)の要素でもある矢印は、表象された対象と前言語的なイメージとを交換する。

そのような交換の一例として、コンクレートポエムやカリグラムにおける一連のオペレーションが連想されるかもしれない。コンクレートポエムでは、語が塊となり形態を得ることで、次々に記号が形象へと変化する一方、カリグラムでは逆にそれ自身をアルファベッドの要素へと解体し、形象が記号へと逆流する。だがここでフーコーが描き出そうとしているのは、エピステーメー(思考や認識が成り立つ土台)のありかたで、それはクレーの絵画で行われる交換によって、より鮮明に表現される。

クレーの絵画も、まずは絵画として、類似による表象と記号による表象が、絵画内部で交錯する仕組みを描き出す。だがそこでは両者の交錯が、一般的な絵画とは異なる空間で行なわれている。通常の絵画では、第一の原則(造形的表象と、言語的連関との完全な分離)のもとで、類似を暗示する造形的な表象と、それを除外しようとする言語的な関連が完全に分離されるのだが、作品に描かれた矢印が、異なる媒体の間を行き来するある種の特権を主張することによって、第一の原則が疑問に付されている。つまり、エピステーメーの揺らぎがそこに表象されている。

第二の原則は、第一の原則とは多少趣を異にする。絵画が叙述と純粋に戯れるためには、形象に対象への類似を許すだけで十分である。そこで絵画は類似の事実と、表象の対象への密着性が保証される事とのあいだに等価関係を結ぶのだが、それをフーコーは第二の原則と定義する。いかなる形態と表象の関係を結ぼうとも、いかに身の回りの世界を参照しようとも、あるいはそれらから独立し、自らに似せた見えない世界を確立しようとも、そこに存在するその姿、それがその絵画の姿に他ならない。第二の原則が記すのは、類似とそれに対する肯定とを分離するのは不可能だという事実だが、表象のレヴェルが異なるカンディンスキーの絵画では、その事実が断裂する。彼の作品では、類似とそれに対する肯定とが分離されている。

カンディンスキーの抽象作品では、類似と表象との結束(密着性)が、同時に、また二重に削除されている。線に対する信用が高く、色彩を物と呼ぶ彼の絵画において、それらは具象に描かれる建物や事物以上のものでも以下のものでもない。彼の絵画は、類似を完全に手放した後に出現する、露骨な肯定によって完成されている。だが、それを構成するのは即興やコンポジションを通じたジェスチュアーであるとしか語りようがなく、そこに発見されるのは色彩と幾何学的な形態、緊張、内的な関係とバランス以外の何物でもない。

参考文献
This is Not a Pipe: Michel Foucault, James Harkness (Trans.), University of California Press, 1981

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