人智学的美術について

人智学(アントロポゾフィー、Anthroposophy)は、ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky、1831 – 1891)らによって始められた「神智学(テオゾフィー、Theosophy)」を下地に、ドイツで神智学協会を指揮していたルドルフ·シュタイナー(Rudolf Steiner、1861 - 1925)によって発案された神秘主義的な思想である。霊魂の存在を信じる「心霊主義」の流行を背景に生まれた思想で、霊的な瞑想の修練による、物質的呪縛からの開放を通じた、真の自由の獲得をその目標とする。そのプロセスは、現世の背後に隠れた力の顕在化による、精神の気の肉体からの離脱を手始めに開始される。

人智学は霊性を重んじる、唯心的かつ観念的な思想である。自然の中で機能する精神を優先する一方で、テクノロジーや機械的なシステムを否定する。人智学は唯心論として、物質を精神の働きによる顕現として下位に置く。精神を根源的なものとして、精神の根源を物質に求める唯物論を否定する。人智学は神秘主義的な思想として、その要求を満たすために、オカルト的、超自然的な生理学を取り入れる。

このような基軸のもとで人智学は芸術、学問、宗教の同一化を模索するが、霊的な力を様々なスタイルの中に可視化し得る媒体として、とりわけ芸術を重視する。芸術は内的な世界体験から生じる生命的なものであり、文化を誠実な霊的世界の体験へと導びく力を有している。その唯心的な理念に合わせて、唯物主義を思わせる自然主義的な芸術は、抽象的な死せる芸術として拒否される。

人智学は観念を対象そのものにではなく、それを描く方法の中に潜むものだと考える。そこで対象は破棄され、その破棄によって芸術は感覚的な表現による支配から救出される。芸術の美は直接に方法(法則)が知覚される場所に発生する。美は観念が形成される外的現象の内部、つまり対象を描く方法の内部に生成されるのであって、物質的な完成の中に生成されるものではない。外的現象とは、感覚が外界へと開かれてゆく状態のことで、それは自然を尊ぶ心や、自然との融和を図ろうとする意志によって獲得される。また自然との融和とは、自然の支配に通じることでは全くない。それゆえ人智学は自然の支配を目論む一神教的な思想を拒否し、融和を求める多神教的な思想を尊重する。多神教的な社会では、シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759 - 1805)が説く素材本能(素材衝動)に相当するような、感覚の恒常的な外界への開放が要求されている。

人智学はその要求にしたがい、絵画を感覚魂(またはアストラル体)、彫刻をエーテル体(幽体)、建築を身体(肉体)として分類し、それらを素材への共感を示す「外的な芸術」としてまとめる一方、詩を霊我、文学を意志魂、音楽を悟性魂(自我)として、それらを人間の内側に共鳴する「内的な芸術」であると規定する。それぞれは形式的に隔てられており、独自の特徴を強調しつつ展開する。

このように分類される芸術だが、人智学は人間が生起する瞬間を描く媒体として、絵画を最も身近な芸術であると位置づける。そのような絵画においては、面や線が向かうところに空間の彼方を見据え、そこに塊を描き空間的な表象を破棄することで、すべてを光と色彩の中に包み込ませる。光と色彩を基本的な構成要素として、生と死、魂と霊の世界の中に存在する生を描き出す。描画とは言葉による語り、形態の形成、あるいは観念による思考の喪失のような、唯物主義的な、また自然主義的な思考の克服を、その絵画平面の表層において行う、超常的な行為である。光と色彩に包み込まれたその絵画とは、まさに生命、死、魂、霊などの要素が集約された場所である。

人智学的な絵画において、空間遠近法は、唯物論を表象する外的自然主義の象徴だとして退けられ、代わりに霊的なものの中に息づく人間的な内的自然主義として、内的遠近法、とりわけ色彩遠近法が重用される。その色彩とは事物の表面に張り付く質的なそれとは異なるもので、宇宙の真の本質の内部から湧き出て、その存在を啓示する観念的なものである。空間の中に開示され展開されるエーテル的な生を、色彩を通じて画面に写し出したものが絵画であり、空間を二次元へと止揚する超常的な描画行為によって個々の作品は完成される。

芸術を正気ある創造的な力の産物とする人智学においては、無機的表情のような、その真意を損なう表情は作品がつくる形象からすべて除去されることになる。対象が多分に抽象的なものとして再現されるにせよ、その抽象化とは形態の模索とは異なるものだ。

人智学はこのような絵画を最も身近な芸術媒体とはするものの、彫刻の有用性にも深い理解を示している。彫刻は抽象から離脱した形象として、頭脳から離れた外部に位置する立体である。腕や指が思考の道具と化すことで、思考が形となり生を得たのが彫刻で、それは頭脳的な思考の停止と、芸術的な抽象概念からの離脱を通じて完成される。人智学にとっての彫刻とは、その芸術的な形態の意味を、観念の象徴的あるいは寓話的な模造として結晶させたようなものではない。彫刻とは、観念をある一定の点から流れ出るままにまかせた結果として得られる、純粋な形態そのものであり、「硬化したかのような人々の肉体的欲求」を実現する唯物論的な形態などでは全くない。

唯物論的形態の忌避は、精神世界と物質世界の共存を求める現代主義の転倒を目指す人智学の真意の顕現なのだが、その真意を支えるのが、主体と客体との関係、内部と外部との関係を模索する「転回(inversion)」と呼ばれる概念である。「転回」とはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)が残した変容の概念その起源とする、有機的な世界の動きのことであり、芸術作品における連続的な変形の中に、その様相が表現される。変形とはいえ、思考をデザインに置き換える方法として、または内部と外部との間にある障壁を有機的に解消するための手段として普段取られる形態的なアプローチとは異なるものだ。形態的な模倣から精神的な充足を得ることは不可能であり、障壁を有機的に解消するためには、無形なものと彫塑的で構造的なものとの間で揺れ動く内的な体験を、外界へ持ち出すという作業が必要になる。

芸術創造とは自由の体験であるがゆえに、制作作業には単なる既知の自然からの解放を超えた、より高次の自然の創造が要求される。作品制作とは、物質的現象や感覚を超えた精神によって導かれる行為であり、事物を内面から想像し、その内的体験を外的な世界にもたらそうとする行為として、自然の模倣を否定する。それは自己の知覚によって内面に広がる外界と等価値の世界の存在を認識する自然に対する意識がもたらす精神によって支えられた行為であり、それが自然の束縛からの開放をもたらし、自己の内部に新たな世界を構築させ、現実からの決別を達成させる。

作品制作とは「転回」の概念の模倣、実践であり、その過程において意識の動きが転写されつつ、抽象化されてゆく。抽象化とは外界との関係を断絶し、「転回」の過程のもと、単なる模倣を拒否しながら、自然とは隔絶された純粋形態を獲得する行為である。模倣からの離脱によって、主観と客観との合流による自由が獲得され、自然的なものと精神的なものとが合体される。このような対象の抽象化は、事物を限定的で一過性のものとしてではなく、永遠を指向するものとして理解しようとする精神によって支持される。

人智学は美を、感覚的で現実的な外観の中に現れた神的なものとしてではなく、神的な外観をまとった感覚的で現実的なものであると理解する。新たに創作される美によって、世界は神的なものへと高められる。美は芸術家によって創作され、地上にもたらされ、芸術家の精神を通じて私たちの感覚の前に、その現実の姿が現出される。その現実の姿とは、理念の世界の表象を意味している。

芸術家は何を描くかという感覚的な概念と同時に、どのように描くかという理念を尊重する。その過程において美の本質は、理念の世界の表象として真理から分離されるので、現実が表現手段へと堕化されることなく、独立したものとして留め置かれる。現実は新たな形姿で表象され、また単なる自然の模倣から離れた、あり得るもの、可能なものとしての実体として出現する。

芸術が表現する美は完全で、自然の美を超越する。それが芸術に非現実、虚構、あるいは仮象という名を与えるが、芸術とは自然が本来そうであろうと欲しながらも、そうできないものの表現なのであり、そこにこそ芸術美の自然を超えた真実が存在する。「美とは理念のごとくに出現した感覚的現実である」とゲーテが説くように、芸術においては理念が真理として現象する限りにおいて、有限の世界を超越する。美とは隠された自然の法則の表明なのであり、芸術への抗しがたい欲求とは、自然の秘密を暴露し、それを解釈する最良の手段への欲求のことである。芸術家は制作と破壊とを繰り返しながら、個体を創造する原理にしたがって美を創造する。

このようにまとめられる芸術とは、個々の媒体独自の形式とは関係なく万人に賦与され、誰もが芸術家としての契機を得ることができるものである。

参考文献
芸術と美学:ルドルフ・シュタイナー、西川隆範(訳)、平河出版社、1987
その他いくつかの英語論文

神智学シュタイナー

人智学的美学の概要

人智学(アントロポゾフィー、Anthroposophy)は、その発案者であるルドルフ·シュタイナー(Rudolf Steiner、1861 - 1925)の言葉によって語られる思想である。神智学(テオゾフィー、Theosophy)から派生した唯心的な思想で、形而上学と意識的に対立する。

一般に美術作品は、シェリング(Friedrich W. J. Schelling、1775 - 1854)が示すような、美と真理の同一化を目指すものであると解釈されることが少なくない。彼にとっての美とは、最高の真理が高まる場、真理の高まりの観照なのであり、美は真理との融合が必須になる。芸術作品は、それ自身によって美しいのではなく、美の理念を模しているから美しい。そこで芸術は、学問の内容との合致を目指し、その合致によって作品は表現された理念、永遠の真理としての美の結晶になる。ヘーゲル(Georg W. F. Hegel、1770 - 1831)も同様に、美を理念の感覚的あらわれだと定義し、芸術の目的を学問の目的と同一化、芸術と理念との合致を企てている。

だがその一方で、シュタイナーにも多くの影響を与えたゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)が示唆するように、芸術を隠れた自然法則の表明としての美として理解することも可能である。ゲーテは美を、理念のように現出する感覚的現実であると解釈する。理念は真理として現象するにしても、理念が美の内容そのものになることはない。自然の秘密のベールを除去すること。そこにゲーテは自然の解釈に最もふさわしい、芸術への抗しがたい憧れを感じていた。

シュタイナーは学問における唯物主義、芸術における自然主義、そして芸術の象徴的または寓意的な側面を否定する。芸術、宗教そして学問の源泉はひとつであると断言する彼にとって、芸術は悟性ではなく、感覚的現象としての理念によって形成される。理念が感覚的現象と言うかたちとるのは、美が神的な外観をまとった感覚的、現実的なものだからである。そこで芸術家には、感覚的なものの中に理念を現出させることが要求され、表現においては、テーマよりもプロセス、つまり何を描くかではなく、どのように描くかということに、焦点が当てられる。

人智学的な美学では、まず霊的なものの芸術への受容が論じられる。それは対象へのより高度な変容衝動の欲求に基づく受容で、芸術家はその欲求にしたがって、作品における人間精神の課題を、単なる模倣から逸脱させる。欲求は人間の霊魂や物質組織の中にある余剰への覚醒によって支えられているので、芸術は余剰を感覚的なものとして表現することになる。事物を内面から想像し、内的に体験された対象を外的な世界に造り出すのが芸術で、それは芸術に求められる課題として芸術を必然から解放し、芸術に物質的現象や感覚を越える、芸術的自由を体現させる。

人智学的な美学は、その芸術的自由をひとつの主題として据え付ける。それが語る自由への意識とは、人間内部にひろがる、外界と等価値の世界存在を、自己認識することで得られる、自然の束縛からの解放を意味している。芸術は現実から決別し、自らの内面へ新たな世界を構築することで、自然を越えたより高次の自然を創造し獲得する。芸術的な精神は、万物の限定性や過去への流出には否定的で、視点は永遠へと向けられ、つねに原像を指向する。

芸術において、自然はそのような原像への指向をベースにして観察される。そこで個人は超越され、個体の内部に一般性が内包されるような世界が創造される。感覚の世界と、理性の世界との並置が、新たな世界を構築する。そこでは、悟性は必然性から逸脱し、主観となる。主観性は客観性と相同になり、両者の分離された働きは止揚される。その主観と客観との合体が、自由を獲得させる。芸術においては、その自由の中で、自然的なものと精神的なものが、互いに交錯する。

霊的なものは、芸術に取り込まれることで、神的なものとして、芸術を通じて地上にもたらされる。したがって美とは、感覚的、現実的な外観の中に現れる神的なものではなく、神的な外観をまとった感覚的、現実的なものだと解釈される。神的なものは、遊戯本能に支えられた芸術家が、世界を神的に高めた結果、得られるものである。芸術家は何を描くのかという感覚的な行為ではく、理念を現出させるためにどのように描くのかという行為に没頭し、有限の世界を超越する。

芸術家はそのような行為を通じて、美の本質を真理から分離する。現実を表現手段へと変化させることなく、独立した状態として維持し、新たな形姿を模索するのが芸術家の仕事である。芸術においては、既知の存在ではなく、現実を越える可能性が創造の起点になる。芸術家は個体を創造する原理にしたがって、創造と破戒を繰り返し、美の真実へと接近する。その表象とは、完全なるものに近接する、自然には存在しないものである。美は自然を越えて真実に接近する。それは非現実、虚構、仮象として印されるのだが、それこそが、自然が本来欲しているものの姿である。

参考文献
芸術と美学:ルドルフ・シュタイナー、西川隆範(訳)、平河出版社、1987

芸術と美学

仏教における空と世界

仏教は紀元前五世紀半ば頃、インドで仏陀(釈迦、釈尊)によって開かれた。輪廻からの解脱という、その目標に変化はないが、時を経る中、また国外へと伝播してゆく途上において、様々な解釈や注釈を加えながら今に至る。北伝、南伝、大乗、小乗を皮切りに、中観(ちゅうがん)や瑜伽行(ゆがぎょう)など多様に分派した仏教だが、ここでは各派固有の教えに偏ることなく、総括的にその概要を眺めている。仏教の概念には絶対的な解答がなく、以下も書物の読みを通じた私的な解釈にしか過ぎない。

仏陀とは「目覚めた人」を意味するが、その「目覚め」の意味は「空」へと集約される。「空」においては、その沈黙によって、あらゆる概念的設定は否定され、あらゆる二元論は静寂の中へと解消される。仏陀は臨終の際に「おのれのみがともしび」という言葉を残したが、そこには仏陀が達した無我の境地が聞き取れる。この無我をして、アートマンと呼ばれる意識の最深部に位置する真我の存在が否定される。

仏教はその根本義において、事物の不変や実体的な我を否定し、涅槃(ねはん)を最上の安らぎとする。義は「三宝印」として、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という語で示されるのだが、そこには「一切皆苦」としてすべてを見つめる、悲観的な態度がうかがえる。仏教は現実世界を苦に満ち溢れるものとして、その原因を内的な煩悩へと集約させる。苦がまとわり付いて離れないのは、すべての行為、つまり業(ごう)が煩悩の産物であるからで、またそれゆえに、人は輪廻を繰り返す。

苦は四聖諦(ししょうたい)と呼ばれる、苦、集、滅、道という四つの諦による真理として語られる。人は苦に満ちた世界に住み、その全人生を苦として生きる。その原因になるのが煩悩で、それが絶滅された場所こそが、涅槃という無我の境地なのである。無我は色、受、想、行、識にわかれる、五つの蘊(うん)で説明される。五蘊とは心身における五つの作用のことであり、色を物質的存在、他を心的作用として、個体としての人間を五つの束の形成体だと解釈し、我や魂などの実体的な存在を否定する。これら四聖諦や五蘊の根本原理をなすものとして浮かび上がるのが「縁起」である。

縁起とは仏陀の基本的立場といわれるもので、そこから仏教における苦や存在の意味が考察される。あらゆるものは、何ものかの縁(因)として発生する。「何ものかによるあるものによって、あるものが起こる」。このような相対性が縁起の根幹で、すべての存在を、「他により、他を縁として、他との相対性における存在」として、その自立性が否定される。そこで自立性が否定された個は条件に束縛されながら不自由の中に生きるのだが、その自由の喪失こそが苦の所以である一方、その喪失こそが「空」である。本質実体を否定され相対性によってのみ成立する有(う)に自由はないが、そのような不可得(否認)こそが縁起であり、また「空」である。縁起するものとは「空」であり、「空」においてはじめて生滅が存在し、無我の内に、無常の生滅変化を繰り返す。

ここにおいて今一度「色即是空」や「空即是色」という言葉を通じて、「空」の意味が確認される。両者を通じて、ものの非存在と、非存在としてのものの存在が確認され、目前にある世界の存在が無化されるのだが、「空」はその無化された世界に在りつつ、その存在を否定する。それが非存在とするものは、人間にとって唯一の確証としてあらわれる我執(執着心)であり、世界はその我執によって形成されたものである。それゆえ世界は虚妄(こもう)なのだが、その一方で、世界は有と無を超えた所において、我執にかかわらず有り続ける。

このように世界を縁起として、他を軸としてある相対的な場所だとする見方を「依他起性(えたきしょう)」と呼ぶ。そこで示される「空」の理論と、発生や生滅の存在との融和を試みる思考として、ここで唯識(ゆいしき)が示される。唯識は世界を心識が織りなす仮象だとして、外界の実在を否定する。「空」は虚妄が付きまとう不完全なものであり、したがって、「依他起性」による世界は、妄想的かつ虚偽的な分別に束縛された世界であると解釈される。その妄想や虚偽の原因は我執であるが、それを一元論的純粋無垢な世界に残る陰りとして排除し円成実性としての世界を得ることで生死流転から免れ、涅槃解脱へと進む道筋を開示すること。それが唯識の目的である。

唯識は世界を心識が織りなす表象として捉え、心の外部に存在する外界の実在性を否定する。唯識が描く世界とは、八種類の識が織りなす心的な表象としての仮象にしか過ぎない。識は五感である眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)をあらわす「前五識」と「意識」と二層の無意識である「末那識(まな識)」、そしてそれらを生み出しそれらとの相互作用によって心の中に世界を描かせる根本的な識としての「阿頼耶識(あーらや識)」に分類される。自我が描く単なる表象にしかすぎない世界とは主観が描く虚像であり、したがってそこでは全ての存在とともに客観性も失われている。唯識は唯心論的な思考だが、心を虚像とし無意識を重要視する姿勢において、存在が意識によって規定される西洋哲学的な唯心論とは隔絶される。

「この世界に自我はなく、有情もない、、、これらのもの(心身)は原因によって生じただけである、、、この身体はただ諸要素の集合である、、、この身に自我はなく、有情もなく、命もなく、人もなく、個我(プドガラ)もなく、人間もなく、享受者もなく、行為者もない」中論を説く学者ヴァーヴァヴィヴェーカは人間や世界を、 そのようなものとして総括する。

参考文献
大乗仏典、長尾雅人、中央公論社、1978
お経、浄土宗、藤井正雄、講談社、1983
原典訳チベットの死者の書、川崎信定、筑摩書房、1989

本田哲郎神父の聖書解読

旧約、新約を問わず聖書の解読方法は多岐にわたるが、作業はそれを行う者の理念からの影響が伺える。ここでは大阪で献身的な宗教活動を続ける本田哲郎神父のイエス・キリストとキリスト教の解釈と、そこから生まれる彼独自の理念を、その一例として簡単に俯瞰し、要約した。

ユダヤ教では民を救い導く救世主を、またキリスト教ではイエスそのものを表すキリストとは称号であり、ヘブライ語のメシアに相当するギリシャ語で、油を注がれた者という意味を持つ。そのような称号を抱えるイエスの姿と生涯を描くのが四つある福音書で、新約学によると、「マルコ」、「マタイ」と「ルカ」、そして「ヨハネ」の順に記されたとされている。それら福音書から一般的に共通して読み取られるイエスの姿は、神の子として尊大で光輝に満ちたオーラに取り囲まれていることが少なくない。そうしたイメージに挑戦するのが本田神父の解読である。

本田はまず、イエスの出自を規定する。処女懐胎するマリアと婚約したヨセフの職業を石切りとして、そのような境遇で育つイエスを、寄留者や罪人としての生い立ちを持つ社会の底辺に立つ者であると位置付ける。彼はイエスのそうした出自からイエスをその復活後の姿も含め、「いちばん小さくされたもの」と規定するのだが、そのイエスの立ち位置が本田独自のキリスト教理念の根幹に位置することになる。イエスは受肉した神であり、父である神の姿を体現する存在だ。父である神の姿そのものであるイエスを「いちばん小さくされたもの」だと規定することで、本田独自のキリスト教理念が自ずから浮かび上がって来ることになる。

キリスト教において、人は皆死後に裁きを受け、その後の道筋が定まるのだが、本田はそこで望まれる行き先としての神の国を、弱者の正しさを認識する、小さくされた人々による解放と平和を尊ぶ国だと理解する。その前提のもと、貧しい人々、つまり小さくされた人々と交わり、彼等の救済に生涯を捧げたのがイエスなのだった。本田にとってイエスが行う救済や癒やしとは、上位に立つ神の子が下位に落ちた貧者のところへ降臨し行う施しなどではなく、同じ「小さくされたもの」という仲間同志が支え合う行為に他ならない。そのような行為を通じて確信されるのが、何物も自分だけの占有物とはせず、それが誰のために役立つのかということの問い掛けを通じての、痛みへの共感と共有であり、それが生きてゆくための基本的な理念となる。

このような痛みの共有、「小さくされたもの」への共感を、平和をもたらすためのための前提条件として、聖書の教えは要約する。最高の道とは人、つまり隣人を大切にするということに他ならず、互いに分け合い大切にし合うという一点へと、全ての行為が収束される。神は隣人としての「小さくされたもの」と同義的な存在であり、したがって、神を大切にするということは、主を天上に位置するものとして拝めることでは決してない。

このような理念とそれを下地にする行動の源泉となるのが、「メタノイア」と「コンバージョン」である。前者の「メタノイア」とは座視を移し他人の立場に立つという意味の言葉で、我々は座視の移動を通じて悔い改め、自分自身の痛みと共に他者の痛みを共感、共有できる低みに立ち、その座視から何を行い何を改めるべきかを問い直す。「コンバージョン」とは回心のことで、自からの現実から浮遊し背伸びした状態を悔い改め、自からの現実や痛みの底辺に、あるいは仲間と痛みを共感できる立場に立ち戻ることを意味している。

本田神父はこのような聖書の読み込みと、そこから生じる理念を通じて実際の教会活動を行ってきた。彼が毎日曜日に行う「労働者のミサ」では、参加者全員に聖体拝領が行われ、洗礼を受けていない者にも聖餐としてのパンの小片と葡萄酒(教会が位置する地域の特殊性から、実際には葡萄ジュース)が与えられる。礼拝とは互いに差し出すという行為を象徴的に表現する場でなければならず、したがってそこには様々な参加者が集うのだが、そこには他の宗教を信奉する者の姿もある。本書において本田神父は、キリスト教における福音の普遍性を己の宗教的囲いの内部に制限するべきものではなく、むしろその普遍性を開放するために、自らその宗教の相対性を認め、他の宗教を認知することが重要だと説いているが、それが彼のミサにおいて実践されている。

参考文献
聖書を発見する、本田哲郎、岩波書店、2010

大乗仏教と六

日常生活を司る規範や慣習は、いくつかの語をまとめた言葉によってその枠組が与えられていることが少なくない。例えば「六」という数からそれを見ると、喜、怒、哀、楽、愛、憎の情を表す「六情」、父母、兄弟、夫妻を呼ぶ「六親(りくしん)」、馬、牛、羊、犬、猪、鶏を表す「六畜(りくちく)」や、それぞれを先勝、友引、先負(せんぶ)、仏滅、大安、赤口(しゃっこう)と表現する「六曜(六輝)」などが挙げられる。いずれも宗教、とりわけ仏教的な趣のある言葉だが、密接な関連性はなさそうだ。六曜は鎌倉時代末期に中国から伝来し、江戸時代末期に至り広く普及したものの、当時の廃仏毀釈の影響からか、明治時代に使用が禁止されている。ちなみに、日本語における文節の継続も主語と述語、修飾語と非修飾語、対等、接続、補助、独立という、六種の関係によって支配されている。

経典には数字を冠する言葉が多く登場するが、大乗仏典も例外ではない。その「六」で括られる言葉を追ってみると、神足(じんそく)、天耳(てんに)、他心(たしん)、宿命(しゅくみょう)、天眼(てんげん)、漏尽(ろじん)をして、仏や菩薩などが持つ超人的能力を示す「六神通」。眼、耳、鼻、舌、身、意に対応する感覚的能力として、色、声(しょう)、香、味、触、法を置いて、煩悩を発し仏心を汚す六境を表す「六塵(じん)」などが発見される。しかし、より身近な言葉としては、倫理的指針として浸透する、「六波羅蜜」が挙げられるだろう。

迷いを振り切り、悟りへと至る状況を「波羅蜜」というが、大乗仏教はそれを「六波羅蜜」と再解釈し、それを通じて倫理的指南を表明する。最初に布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定(ぜんじょう)と呼ばれる、それぞれが施し、規律順守、忍耐、努力、平静心の維持を意味する五つの波羅蜜を配置し、それらを階梯(かいてい)として、知慧(え)を完成させるという意味の般若を最後に、この波羅蜜を締めくくる。

もうひとつ、よく語られる言葉としては、「六道(りくどう)」、あるいは、「六道輪廻」が挙げられる。「六道」とはいわゆる輪廻転生において、次の生が生成される際の行き先を示す言葉であり、それは苦行としての生を繰り返す輪廻からの解脱を目標としてはじめられた仏教の基底を抽象する。「六道」では人が死後に至る世界を生前の善悪の業因によって、天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄という六種の境界に振り分ける。一般的には上位三段を三善道と、下位三段を三悪道として差異化する。

次の転生先が決まるまで、人は特異な状況に置かれることになるのだが、その期間を「中有(ちゅうう)」と呼ぶ。ちなみに、人が生を受けるときの状態を「始有(しう)」、生を受けている間を「本有(ほんう)」という。中有をとりわけ重要視するのがチベット仏教で、そこでは意識が有為(うい)である血肉としての身体を離れ、自からが生まれ付き備えていた虚空の世界を彷徨するその状態が強調される。この無常で幻惑的な状態を、我が国の大乗仏教は中陰と呼び、儀式的としては通常チベット程には重要視しないのだが、「六道」を示す境界のうちのいくつかは、文化に深く浸透しており、その名を聞く機会は少なくない。

その一つとして挙げられるのが、「餓鬼」である。子供を卑下する言葉としてよく耳にする言葉だが、本来それとは無関係で、その「六道」の下位から二つ目の「餓鬼」の世界に住む生き物を表す言葉である。生前の罪によってその世界へと進んだ、常に飢えと渇きに苦しむ亡者として骨と皮ばかりに痩せ細り、ただ腹だけが膨らむ生き物で、その様相は飢餓状態にある人間の姿に一致する。黒い肌に、浮き出た大きな目を持つ鬼面のような形相をした醜い生き物であると総括されるが、多くの種類があるともいわれる。「餓鬼」の大きさに決まりはなく、三十センチ程度から人間を遥かに越える巨大なものまで存在し、一万五千年ともいわれる長寿を苦しみながら生き永らえる。

死後における餓鬼道への転落を防ぐには、欲の心を捨て、布施の心を持ち他者に接する必要があるという。ちなみに六道の一番上位を天上界と呼ぶのだが、極楽浄土とは異なる場所で、そこはあくまでも人間の住む世界として、見返りの苦難も課せられる。また「人」のすぐ下にある修羅道に住む「阿修羅」とは、妬み深く争いを好む、仏教の守護神でもある悪鬼のことを意味するが、こちらも各種の大衆文化の中に、様々な解釈を通じて登場する。

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