カント: 歴史、理念と時間

以下は理念、歴史、時間等、カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の哲学における基本事項の概要を簡単にまとめたものである。代表的な三批判書ではなく、彼が一般向けに著した短いエッセイをまとめた小冊子を参照した。

歴史の意味

カントは歴史を、自然が人間に与えた理性と自由という素質が、人間の現象を通じて次第に展開される過程であると定義する。人間は自らの理性と自由な意思に目覚め、未開状態を脱し歴史をつくりはじめるのだが、そこには常に自然の意図が反映されている。

歴史が記述するものとは、人間の行動を現象とする、その展開過程である。人間の行動は人間の自由な意思のあらわれであり、それは現象として、普遍的自然法則によって規定されている。歴史を人間の現象の記述として追いかけ、歴史を人間の意思の自由に基づく諸々のはたらきの全体として考察することで、自由の規則正しい発展過程が発見される。不完全な個々の人間の姿を全人類の姿として総括し観察することで、歴史の絶えなる発展の様子が認識される。

人間の本質的な素質は緩慢で、個々の人間が示す現象は一見無規則で乱雑なものとしてあらわれる。だが、人間のそのような不合理な性質のなかにこそ、自然の意図が潜んでいる。一見無規則で乱雑な人間の行動だが、それは自然がその意図として仕組む計画に沿うものだ。歴史はそのような状況を映し出す。

カントが定める自然とは、超自然的、反自然的なものの対極に位置する自然である。自然とは、道徳的秩序でも物理的秩序でもないある種の秩序に属する法則にしたがい、経験的かつ必然的に発生したものだ。素性的なものとしての自然、人間を超出し世界を支配する神の意思や力として創造される摂理としての自然を軸に、歴史は開始する。神の業である自然のもとに、人間の本性である善を下地に始まる歴史は、次第にその性向に基づく快適の感情としての美的趣味へと発展する。

理念と永遠

現象を時間的なものだとすると、万物の終焉は、あらゆる事物の破滅をではなく、あらゆる時間の停止を意味することになる。このような時間に対立するものとして、カントは永遠を強調する。永遠は時間とのかかわりがなく、そこには始めも終わりもない。時間の不在とはあらゆる変化の否定であり、それは不変を意味している。したがって、そこには終焉もない。

理念とは、理性がその本性の要求として、自らの求めに応じて理性それ自体がつくり出す概念である。理念の対象は、現実的認識やわれわれの視界をことごとく超出するもので、理念に相当するものは現実の世界には存在しない。カントはこのような理念への到達を、時間の永遠への移行とからめて考察する。

時間の永遠への移行とは、理性が道徳的見地において自らのために自ら行なう、経験的なものから超越的なものへ移行であると解釈される。その移行において、われわれは時間的存在者である自らに可能な経験としての、時間の終わり(万物の終わり)に到達する。そこで時間的存在者は超感性的存在者へと変貌し、時間に成約されない存在として、その存続が開始する。カントはそのような変貌を、道徳的規定の経過にしたがう、あるいはそれに由来するものだと考え、道徳的経過を超感性的なものだと規定する。

カントのこのような思考に神秘的な趣を感じる者があるが、彼は神秘的なものを瞑想的なものとして切り離す。「虚無」に関して付け加えると、彼はそれを悟性の消滅、思惟の終焉として、「主観が神性と融合することで、自己の人格が減却し、神性の深淵の中に没入したと感じるところの意識」であると解釈する。

参考文献
カント:啓蒙とは何か、篠田 英雄(訳)、岩波書店、1974

カント

カント: 美の合目的性と社会性

常に自己矛盾なく、他人の立場に立ち、自ら考えること。それがカント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の示す、「人間悟性の原則」の骨子である。カントの判断力批判はこの原則を基に、美の判定の前提となる趣味の先験的妥当性を模索する。美の判断とは、人間の超感性的基体を判断の基準とする、趣味判断である。

美は関心、概念、目的から自由である。したがってその判断には、快感、善の満足、理論による判断とは異なり、主観性が内包される。そこで「美の判断(aesthetic judgement)」は、特殊を普遍へと従属させる客観的な概念や対象の現存から離れ、感情による快不快の判定として行われる。そこで美は、対象の見え方における満足度を基準として、対象の表象方式(対象の見え方、様子、形式)によって判断される。「美の判断」は主観的判断だが、その主観的条件には普遍性が要求されている。

「美の判断」は、客観性に準じて特殊を普遍へと取り込むような判断ではない。「美の判断」は主観性が内包される直感的かつ個別的な判断で、感覚や理性の関心とは無縁の美の自立性に基づく趣味判断である。美が表象方式によって判断される際には何らかの普遍的な共通性が必要で、カントはそれを「普遍妥当性」と呼ぶ。「普遍妥当性」とは、特殊の内に普遍を求める他者の同意のことで、快を基準として、感覚能力(構想力)と悟性との調和を通じて行なうこのような判断における必須の概念として登場する。

「普遍妥当性」は、個々の表象方式に生来的に備わる「共通認識」によって保証される。「共通認識」における共通感が認識を美の伝達可能性(同意の必然性)として認めさせることで、客観的な証明なしで主観の判断に対する他者の同意が獲得され、美が普遍的なものとして伝達される。この共通感は、概念に基づく論理的共通感(いわゆる常識)とは異なる美的共通感である。主観的判断に基づく美の原理は、共通感が可能にする美の伝達可能性によって支えられている。

恣意的でも個人的でもなく、主観的な美の普遍性は、「共通認識」を支えにして示される。「美の判断」においては、この普遍性が理念となる一方、理念が備える普遍性によって、個別的な判断が反省的に規定される。美の判断は普遍性を軸に、美に対する満足度を基準にして行われる。ここでいう満足とは、美の調和に対する満足のことで、主観的で無目的な(目的を必要としない)満足である。

そしてわれわれは、このような「共通認識」に支えられる普遍性を通じた美の媒介のありかたとしての「美の合目的性(目的を伴うかのように見える形式)」に、美の道徳的、社会的機能を感じとる。

無目的で、超感性的なものを根拠にする「美の合目的性」は、「共通認識」という感性的現象(共通感)を通じて確証される。原理としての共通感を通じ、美の伝達可能性が描くのは、感覚能力と悟性との調和(感性と悟性との媒介)を快とする主観に、先験的に備わる「共通認識」である。その認識は個と他者とを結び、社会的次元へと拡張する。共通感は共同体的な感覚であり、それゆえ、この調和によって養われる美的関心は、社会に道徳的な感情として拡散される。認識一般の合目的性としての「美の合目的性」には、道徳的な特質が内包されている。

注)このノートにはカント日本語訳に共通する読解の難渋さにも起因する、不明確な部分が含まれる。

参考文献
美の変貌:当津武彦(編)、世界思想社、1988
判断力批判(上):イマニュエル・カント、篠田 英雄(訳)、岩波書店、1964

カント

カント: 判断力批判と美的想像

判断力批判

カントの哲学において主体と客体の基本的な対立は、知性と感性、認識と欲望のような、純粋理性と実践理論との二律背反的な構図の中に描かれる。前者の目的は道徳的で、道徳律の下に存在する自由を構成し、一方で後者は因果律に支配される自然を構成する。自由の領域と自然の領域とは全く異なるもので、主体の自律性が因果律を侵食することはなく、感覚的な素材が主体の自律性を決定することもない。

現実の客観的な主体の自律性に何らかの効果を加えると、主体が設定する諸目標は幾分現実的なものへと変化する。付加によって自然の領域は自由の領域に支配されることになるが、そこに自由と自然が媒介する新たな次元が出現する。判断力とは、自然から自由への移行、低次と高次の能力、欲望と認識の能力を結びつける力として出現する次元のことである。純粋理性は認識の先見的な原理を与え、実践理性は欲求や意志の先見的な原理を与えるのだが、判断力は苦痛と快楽で二律背反する両者を媒介する。

カントは媒介としての判断力を快楽と結び付け、芸術分野における美的判断へと応用する。彼の判断力批判は、中心となる自然は自由からの影響を受け入れ、必然性は自律性からの影響を受け入れる。実践理性は道徳における自由の範囲内で自己実現を図るのだが、美は現実の自由を直感的に表現し、その領域を象徴する。判断力批判は、自由を感覚や知覚と対応できないひとつの観念として規定するので、間接的に、また象徴的に、類推によってそれを表現する。

美的想像

美の秩序、つまり美的次元における体験や知覚は、概念的あるいは観念的なものではなく、感覚的、直感的なものである。とはいえ、美的な機能それ自体は道徳性と感性両方の領域に妥当する原則を含むので、両者が規定する人間存在の中間に位置することになる。

快楽は対象の質量や目的とは関係なく、対象の純粋な形式の知覚から生じてくる。一方、美的な機能は感性と内在的な関係にある。美は対象の純粋な形式として、想像力によって表象され定義される。それらが意味するのは、想像力と同様に知覚も感性的ではあるものの、知覚は想像力を越えたものだということだ。

主観に依存する快楽だが、それが対象それ自体の純粋な形式によって生じるものである以上、知覚する主体にかかわらず必然的に美の知覚を伴うことになる。したがって、美的な想像力は創造的であると同時に感性的(=受容的)なものでもあり、自由な構成のもと、感性にある客観的な秩序が、普遍妥当性を伴う原則を生じさせる。

カントは、対象が美しく自らを表現する場としての形式として顕現する秩序を伴う形式のことを、「目的なき合目的性」と呼ぶ。それは美の構造を規定する形式的な合目的性として、抑圧のない秩序の本質を描写し、人間と自然に潜む可能性の開放を模索すると同時に、その内容を定義する。

日常や科学とは異なり、美的想像における対象の判断は合目的性や完全性に依存することはない。美的想像は対象からそのような特性を切り離し、対象を自由に表現された姿として判断する。対象は想像力によって自由に表現されることで、純粋理性や実践理性との結合を保留し、自由な存在として解き放たれる。美はそのような対象の経験の中に出現する。形式における純粋で多様なものの統一として、それ自身の法則によって機能する美は、さまざまな運動や関係が一致する快楽の純粋な顕現を意味している。

悟性が認識する観念と想像との一致によって、美的な対象の自由な受容にほどよく反応する、心的な諸能力の調和が確立する。その一方で美の秩序は、想像力を支配する秩序から生じたものでもある。だが、そのような二重性にもかかわらず、調和そのものは自由である。それは抑圧的に押し付けられたものではなく、そこで特定の目的達成を強要されているわけでもない。それは存在そのものの純粋な形式として、美的な法則が存在それ自体の純粋形式と一致することで、一旦保留されていた対象の純粋理性や実践理性との関係、相反する自然と自由、感性と知性、快楽と道徳性を結合する。美の秩序における、そのような相反する関係を媒介する第三の心的能力。それが想像力なのである。

参考文献
エロス的文明:ヘルベルト・マルクーゼ、南博(訳)、紀伊國屋書店、1958
判断力批判(上):イマニュエル・カント、篠田 英雄(訳)、岩波書店、1964

カント

カント: 趣味判断

カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)はブルジョアの台頭に伴う市民意識の高まりを受け、認識能力、欲求能力、判断能力の先験的な三つの批判原理を追求することで自己の能力範囲を明確にし、真に責任ある自己を哲学を通じて確立しようとした。そのうちの判断力批判では、美が論じられている。

カントは美の原理を「目的なき合目的性」と定め、主観的側面を注視して美に関する議論を展開する。彼は美を超越者からの導きとしてではなく、感性的であると同時に主観的(理性的)な存在である人間へと基礎づけし直すことで、その内部に美の根拠を求めようとした。彼は美の自立性と媒介性を追求するにあたり、美の判断力を「趣味」と呼び、趣味の先験的妥当性を、美の基準を決定する際の根拠にした。

美はカントの趣味判断において、その現存自体ではなく、その表象方式による「対象の属性」として判断される。だがその判断とは、既知の概念にしたがう客観的判断ではなく、対象によって喚起された個々の表象方式に対応する快・不快の判断、つまり感情による判断を意味している。感情による美的判断とは、個別に行われる判断という意味であり、対象をある共通した概念にしたがって判断するような規定的な判断ではない。

趣味判断は特殊を普遍に従属させるのではなく、特殊の内部に普遍を求める反省的判断であり、超越論的主観を拒否することからはじめられる。同時に、美の世界は特殊の内部に普遍を求めることで導き出される主観的普遍性を前提とするので、ある種の共通感という主観的原理に支えられているという事実が条件になる。そこには美の倫理的、社会的機能が求められるが、それらは感性領域である自然概念と、理性領域である自由概念とを媒介するものだと予想される。

趣味判断は主体の現存にも客観的概念にも留まらない固有の場で生じるのだが、特殊の内部に普遍を求めるという個別判断の内側にある普遍妥当性にも、美的判断に対するある種の同意が必要となる。

超越的な概念への同意だとして存在する普遍性とは、真理としての理念なのであり、趣味判断では常にそのような普遍的な理念が反省される。趣味判断では、美は表象方式の、ある共通性の存在を前提とし、その主観的条件が満たされなければならない。その共通性とは、主観に先見的に備わった認識へ向けての共通の前提として証明不可能ではあるが、規定せざるをえない理念である。趣味判断の根拠は究極的には人間の超感性的基体に求められ、美は道徳的善の象徴、純粋理性と実践理性をつなぐ媒体として表現される。

注)執筆に際して、Oxford University Press出版のカントの解説書(英語)を参照した。出典は省略する。

カント

Top