ヘーゲル: 歴史と個人

ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)の思想において、歴史と個人の関係を考察する際の基本事項であると思われる論点を、レーヴィット(Karl Löwith、1897 - 1973)の著書を参照し、簡単にまとめてみた。

世界精神と人間

まずヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)は、世界を理性によって支配されているものだと前提し、世界史を「世界精神」の理性的な進行であると規定する。「世界精神」の理性的な進行とは、精神が精神それ自体によって意味する何ものかの意識に到達する進行の過程という意味で、世界史とはその過程の叙述のことである。そして彼が規定する歴史は、地上における絶対的な権力としての「国家」の歴史と実質的に同義である。

「国家」は歴史的な重要人物である「世界史的個人」(諸事件において、その普遍的な精神が宿る民族精神の表現者)によって先導される。世界史においてまず目立つのが、諸事件を先導する特別な「世界史的個人」であり、歴史は一般的に彼の行為や苦悩の物語を通じて語られる。一方ヘーゲルはそのような記述を通じて語られる歴史や世界観を、理性的なものであるはずの世界史をあたかも個人の私言や欲求に基づく利害関係の表象の場であるかのように偽装するものだとして退ける。ヘーゲルが一貫して強調するのは、歴史の原理を「概念の眼」で説く、哲学的(理性的)な歴史である。

哲学的な歴史とは、世界における神を意味する「世界精神」を歴史的顕現とし、それが民族の諸精神(理性)へと成り行く様相の記録である。「世界精神」とはまさに理性そのものであり、普遍的かつ全体的な基準となる。

理性は特殊な諸部分との比較において普遍的な全体としてあらわれるのだが、その諸部分とはそれぞれが特殊な目的を有する個人のことである。全体こそが究極目的である以上、個人は部分的なものとして、全体の目的達成のための手段だとして放置される。個々の人間の実体は、「世界精神」という全体に寄り添いそれを反映する存在として、世界歴史に包含される。

個人の位置

理性や人倫は「国家」の生起の場において、民族の形態のなかに最も明快にあらわれる。そこでヘーゲルは、「国家」を倫理的な理性全体の代表として、世界史の最も具体的で直接的な対象とする。「国家」における政治上の普遍的必然性として、国家全体の福利が私的道徳の上位に置かれ、あらゆる個人の福利はその下位に取り残される。

人倫は一般に人間の従うべき道義を意味するが、ヘーゲルはそれを「個々の道徳性に優先する慣習への融合」であると表現する。「民族精神」は個人の思考や行為へと侵入し、個人を普遍的なものとして再設定する。個人が所有する自由はそのような「民族精神」の振る舞いに対抗するが、私的生活の個別的欲求にしか関与できない消極的で抽象的な行為としての自由は、あまりにも非力である。ヘーゲルにおいて個人は、国家権力や全体の普遍的必然性に対していかなる権利も持たない、単なる「偶然的」なものとしてあらわれる。

個人は「世界史的個人」として世界史に参画する。そのために個人は、普遍的で精神的な本質のなかに自己の現実を埋没させる。本質のみが自身の客観性として許され、その他の属性はすべて形式的、主観的なものとして個人から切り離される。個人は決して不可分な全体にはなれない、単に関与を本質とする存在にしか過ぎない。そのような者として社会に参加する人間、それが「世界精神」の代理人として世界に関与する個人の姿であり、それが耐え忍び行動する人間として、「世界史的個人」を表現する所以である。

個人が真の存在となるには、万人に共有される国家精神への本質へとできだけ深く参入する以外に道はない。個人はそれが属し実体をもつことになる場所によって規定される対自的な存在として、つまり無関心な私的人間として規定されるべきものではない。

ここで参照しているレーヴィットは、ヘーゲルの方法を、小範囲に生じる傾向あるいは衝動と、全体的な世界史との利害関係にあらわれる衝動とを原理的に区別し、後者を通じて前者を断定するものだと規定する。ヘーゲルの言う理念は、全体の建前を公的必然性とすることで、最も明快に表現される。彼は世界史の大筋を理性的なものとして、理性を通じて「歴史的偉大」を評価する。

個人の形成

ヘーゲルの歴史では、「絶対的精神」が個人を利用する構造を通じて、個人が自己の目標を保ちつつも「世界精神」をその願望とし、個人が無意識的に成熟できる道筋が語られる。「世界精神」の正当性があらゆる個別の権利に優先されるという前提のもとに、個人的目的と普遍的目的との関連が位置づけられる。

ここでは「世界精神」を通じた個人の成熟が、「衝動」と関連することで、無意識的だと表現されている。ヘーゲルの言う「衝動」とは、主観的特殊としての精神が、普遍的理念と一体になるまで人間が精力を注ぐ、そのような力のことである。「衝動」は、意識的な動機を原動力とする力ではなく、むしろその隠れた必然性によって個人が強いられることになる無名の、つまり無意識の力である。ヘーゲルは個人を自分の真の願望を知らない者だと前提する。したがって個人の根本的な願望は、意識的かつ恣意的な目論見としてではなく、無意識的な「衝動」のうちに実現されることになる。

「世界史的個人」は、そのような前提のもとに語られる個人の意思によって形成される。その意思を本能的な力で嗅ぎとり、その実現に身を投じ、そこに自らを発見するのが個人の本質である。歴史的行為者が情熱的に自己を忘我し、最も我に近づく時にはじめて積極的な自由として自由が与えられる。必然的に行わざるをえないことを自由意志とする欲望を介して、意思は積極的な自由となる。

このようにして、個人の主観的意思と客観的意思(目的)が和解され、そこにひとつの全体が形成される。ヘーゲルが行なう「形而上学的普遍化」とは、「普遍的精神」を通じた真理の普遍性の証明であり、個人はそこで世界過程の内部へと取り込まれ、世界史との関係において必然的に普遍化される。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977

ヘーゲル

ヘーゲル: 理性、世界史と芸術

ヘーゲル: 理性、世界史と芸術

以下は主に「歴史哲学講義」からまとめたノートの要約で、多少の重複が見られる部分があるが、そのまま示している。

理性の定義

ヘーゲルの言う歴史とは「哲学的な歴史」のことである。彼は歴史の検証方法を三つに分類し、「哲学的な歴史」を「歴史を直接的に相手にする」方法として優先し、他の二つ、「事実そのままの歴史」とそれに「反省を加えた歴史」とを退ける。「哲学的な歴史」は精神による世界誘導の認識を目的とし、目的達成の基準として理性が示される。世界は理性に支配されており、それゆえ歴史は理性的に進行する。

理性は感情や感性の対極に位置し、神として個別に存在する、自然で精神的な生命をつくり出す無限の力である。理性はあらゆる実在と真理の源であり、その無限の力、無限の内容を通じて、あらゆる現実が存在し、また存在し続けることが可能になる。理性は自己充足的で、それ自身を素材とし自ら活動する。理性は自らを糧としてそれ自身を加工する。理性の活動は無限であるがゆえに、有限的な活動のように、外部から与えられた材料や手段を糧として用いることはない。

理性の目的は絶対的かつ究極的であり、理性はすでに証明された真理として、歴史のなかに前提されている。その理念は、理性の活動と生産を通じて外部である世界へと啓示される。

自由と世界史

ヘーゲルの哲学における実体的な世界とは精神的な世界であり、物理的な世界は精神世界に真理を奪われたものとして従属的に扱われる。精神はその内部に中心を持ち、自らのもとで安定した存在だが、彼はそのように外部との接触なくして自律する精神を自由と並立させる。自由の理念とは神の本性と同義であり、自己を知ることから、その概念が獲得される。自由には自己の意識を通じた自己の実現という、必然的な企図が含まれる。

世界が目指す究極的な目的とは、自由な精神に寄り添う意識の示現としての精神世界そのものである。精神世界とは神の唯一の目標である自由そのものであり、自由は自らを目的としてそれを実現する。

諸々の歴史の現象とは、自由が世界において自己を実現する手段のあらわれに他ならなず、世界史は、人間の活動が示現する精神の概念やその潜在的な内容を通じて、その究極目標を達成しようと動き出す。

人間の役割

世界は偶然や外的要因にではなく、神の摂理としての理念によって支配されたものである。世界史とはそのような世界の動きのことで、「世界精神の理性的かつ必然的な歩み」であると定義される。神の摂理とは、「世界の絶対的かつ理性的な究極目的を実現する全能の知恵」であり、理性はそれを記す思考として、全く自由に自らを示現する。

人間に課せられているのは、摂理の手段やあらわれとして神を認識し、それを歴史や理性の原理として関係づける行為である。神の存在を人間の認識や行動の彼岸に放置することなく神の存在を正統化し、また認識し、弁神論としての哲学を全うするという行為である。

理性の意味の問い掛けとは、世界の究極目標への問い掛けに他ならない。世界の本体とは精神であり、したがって世界史は精神の発展過程、精神の具体的な顕現として検証され発見される。また、精神の本質とは自由なので、自由の完全な実現状態が、国家とその現実の姿にあらわれる。哲学的思索とは、それを唯一の真理として認識する行為である。

神のイメージと芸術

神のイメージは時代や地域によって様々に表現されるが、それらはすべて民族を支える土台としての民族精神の媒介としての機能を果たしている。民族精神の本質的な姿が神として人々にイメージされ享受されるのだが、それが崇拝されると宗教に、また像として直感的に表現されると芸術になる。神が認識の対象として概念化されると哲学になる。

真理は宗教においてはイメージと感情へ、また芸術においては直感と思考する精神へと訴えかけられるが、そこにあらわれる主観と客観を統一するのが哲学である。哲学は思考と直接に関わるもの、最も高度で自由、かつ最も広範な統一を可能にする個別の思考として優遇される。

芸術とは宗教と同様に神の精神をあらわすもので、主観と客観の統一を精神として表現する。芸術は宗教と比較して現実と感覚の内部へとより深く侵入し、「神々しく精神的なもの」を神の形態として格調高く示現する。「神々しく精神的なもの」は芸術によってはじめて直感にもたらされ、それにふさわしい幻想的な姿となって示現される。

神の存在を内面化することが、民族の原理を認識する唯一の方法である。そこで芸術や宗教はその役割を担い、神の精神の表現として帰結する。国家の原理は絶対的な価値を有する神の本性をなすようなものとして認識されなばならない。そこで芸術が示現するその姿は、現状の国家形態における唯一の形態として、国家の精神と不可分に統一される。

芸術の歴史とその終焉

ヘーゲルは世界史を「自由の意識を内容とする原理の段階的発展」として指し示す。彼は世界史のはじまりの形式を、精神が成長する三つの段階に分類し、その流れを検証したが、その方法は全体的な世界史を同じく三段階に分類する方法の下地をなす。

その図式では、精神はまずその第一段階において、自然の様相に埋没した状態としてはじまるが、第二段階においてその状態から脱出し、自由を意識するようになる。しかしその離脱が不十分なため、残された自然との関わりが、自由を部分的で不安定なものに留めてしまう。精神は最後の第三段階に至り、ようやく純粋で普遍的な自由を獲得し、「精神の本質が自己意識および自己感情として捉えられた状態」として確認される。

ヘーゲルはこのような精神の発達段階を下地にして、世界史全体を段階的に訪れる三つの時代に分類する。理念としての神は、各時代の歴史的展開に応じた絶対精神として、それぞれ異なる姿で実体化される。

ヘーゲルが認める文化の歴史は、まず「オリエント」から開始する。「オリエント」は自然神を崇拝し自然の力を絶対視する時代であり、神は精神的なものとして自然の内に模索される。したがって神の形態は象徴的に表現され、それを適切にあらわす芸術として、「建築」が示される。

次に到来するのが「古代ギリシャ」で、人倫的事柄を絶対視する若き時代として、その精神が人体の形象をしてあらわれる。精神を身体として、神が人間の姿を通じて表現される古典的芸術の時代ににおいては、「彫刻」がそれにふさわしい媒体として選ばれる。

最後に世界はローマ時代を経て、中世から現在へと続く「キリスト教の時代」へと突入する。近代においては、精神自体が絶対視され、表象行為は内面に押しとどめられている。したがって芸術は理想を超えたロマン的なものになり、それが欲する感情の表現に適する「絵画」や「音楽」が、時代を彩る芸術として示される。

ヘーゲルは自ら分類した各時代のなかで、とりわけ「古代ギリシャ」を、「精神と自然とが調和する真実の精神の世界」として優先する。彼はギリシャを芸術の故郷、感性と理性が調和する美的な世界としてそれらの筆頭に据え付けるのだが、近代における「キリスト教の時代」では、それを超える新たな世界の出現はおろか、その復興の可能性すら見出せない。

「キリスト教の時代」では神が「絶対精神」として表象されるので、感性から精神的なものへと向かう過程で、身体の代わりに内面が自己存在の表現素材としてあらわれる。芸術美は絶対性や自律性の保証のなかに示されるのだが、近代の「キリスト教の時代」における芸術では、それがあらわす絶対的真理(感性化されない真理)が、感性的現象が擁する視界の範囲を超えている。そのような様相を端的に示すのがロマン主義芸術で、それは芸術として自己自身を超え出ている。

そこでヘーゲルは、芸術に不可欠の生命感を、理性的(一般的)なものと感覚的(特殊)なものが分離して存在する「古代ギリシャ」のような人倫的世界が支配する時代でのみ開花できるのだと確信する。個と全体のみならず、個それ自身も分裂し抽象化される近代では、芸術は任意に任された自由な手段になる一方で、足場としての真理を喪失する。芸術が表現すべき真理の喪失は、芸術の過去的な状況への没入を意味すると同時に、芸術の学問的認識の場への変化を予兆させるが、ヘーゲルはそこに美的世界の終焉を見る。

参考文献
歴史哲学講義:ヘーゲル、長谷川宏(訳)、岩波書店、1994
美の変貌:当津武彦(編)、世界思想社、1988
Introductory Lectures on Aesthetics: G.W.F. Hegel, Penguin, 1993

ヘーゲル

ヘーゲル: ロマン主義批判

ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)は、善や正義によって意志が満たされにくい時代に生きた哲学者である。善や正義を自己の内面に求め、自己のうちから知り、規定する。そのようなロマン主義的、イロニー的主観に支配された時代で、現実において失われた調和を観念的内面の中で獲得するために、現存する諸々の義務が放棄された。

そのような時代状況において、ヘーゲルは合一を志向した。合一とは文字通り複数のものを合体させてひとつにするという意味ではあるが、ヘーゲルが生きた時代、またその場所における合一とは、理想を捨てた体系への傾倒、既存の体系に身を置き、全体性に真実を求めるという姿を意味していた。時代との合一によって、内実や実存が保証される。人間は自己の想起や内化ではなく、自己を外化することで、すべての人々に共通する世界の本質に携わることができる。自己と他者とに共通の世界をより良く表現できるのが真に優れた人間であり、批判から順応へと向かい他在のうちに自己を同一化できる存在のみが、完成された構造概念を得ることができるのである。

ヘーゲルは合一に傾倒し、現実的で行動力に満ちた主観性を標榜する一方、イロニー的な主観性を批判した。イロニー的な主観性とは合一とは真逆のものであり、普遍的世界と客観性、その両方を欠いている。本質的に自由なイロニーがその自由の中で悟るのは、自己が実体的内実を免れた空白であるという事実であり、そこで自己は憶測されたものへと凋落するに違いない。ロマン主義とは客観性の挫折であり、その運命の行き着く先は、ロマン主義者という順応なき人間の虚偽や不幸への転落でしかない。

ヘーゲルはイロニー的主観性のような、個人がその良心の決断にしたがって主観性を持つ立場を、抽象的自己規程と呼んだ。抽象的自己規程は普遍的人倫の全体を抽象化する一方で、客観的確実性を消失させる。そのような主観のうえに立ち、自己自身の絶対的内省に到達した自己意識は、自己をあらゆる現存する所与に優先させる。そのような主観が最後に到達する場所は矛盾に満ちているのだが、それを表象するのが憧憬だ。

イロニーの持つ否定性は、客観的で即時的かつ対自的に妥当するあらゆるものからその価値を奪い取り、加えて、具体的なもの、理論的なもの、自らのうちに内実を持つものを空虚化する。自我は自己自身の主観性を除き、すべてを無価値で空虚とする、その一方で、自己の主観性自体も、それによって空虚化される。その結果、自我はそうした自己享受に満足できなくなり、自分が不完全であると思い込み、強固で実態的なものへの本質的な関与を渇望し始める。主観は真実の内部へと進むために客観性を求めるが、孤独、自らのうちへの隠匿から脱出し、不満足な抽象的内面性を払拭するのは不可能だ。そこに矛盾が生じるのだが、その矛盾こそが憧憬である。

結局ロマン主義という根本感情は、自己の殻を破ることができず、危うい憧憬の中へと収束するしか道がない。ヘーゲルにはそうした末路に拘束されるロマン主義が、時代を表象する病のように思われた。そこで彼は、病を癒せるのは実体的内実による充実に限られ、癒しは真の厳粛を生み出す実体的関与と自己自身の内への内実の実現を通してのみ行われるべきだと主張した。人は自身において、本質的なものとしての内実のなかに沈潜し、それが自らの全知識、全行為と一致する場合にのみ癒される。

イロニー的主観性は実体的内実を測る尺度として、世界史の中に配置される。個々の人間が持つ主観性が歴史に組み込まれることで、歴史はすぐさま忘却されることになる。歴史的正当性が喪失してゆく時代の中、ヘーゲルは反省の段階での外向的発展を擁護することで、歴史的正当性を保存しようと試みた。彼はやがて統治的現実への非難から、国民の過激な意志の排除、そして国家への盲目的な順応を志向してゆくことになる。

注)執筆にあたり、レーヴィットの著書を参照した。個々の出典は省略する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977

ヘーゲルブルクハルト(単行本)ブルクハルト(ちくま学芸文庫)Introductory Lectures on Aesthetics

ヘーゲル: 芸術の終焉と素材の価値

芸術の終りを考えるときに、よく語られる理論のひとつがヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)が示した終焉論だ。ヘーゲル独自の歴史観を下地にした、進化の終わりとして芸術を説く終焉論で、彼は本論を構築する際に、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775 - 1854)が唱えた精神の表現としての芸術のありかたを参照したようだ。

シェリングの理論は新プラトン主義を下地にしたもので、物質的素材の精神の形成による克服と、観念的な存在への変化を重要視する。芸術は生きた自然を把握するが、客体の外形にではなく、そこに形態として表現される精神そのものを表象する。芸術においては常に現象(形式)と理念(内容)が対立するが、理念を現象の内側に啓示しつつ存在するのが芸術である。ヘーゲルはシェリングの意にしたがって、芸術をその内部に理念の感覚的現象を内包するものであると前提する。

理念は素材への働きかけや制作を減じたり否定したりすることで、次の段階へと発展する。その過程においては、素材からの脱却を通じて確立される概念的認識が、常に優位な位置に置かれることになる。素材は芸術の価値を減ずるものであり、素材が喪失するにつれ、芸術の階位は高くなる。ヘーゲルはそうした古典主義的ともいえる前提を下地に、内容と現象、理念と形式との関係から三段階の芸術発展モデルを構築するが、そのうちの最後の発展形式において、芸術の創造と享受の時代の終焉が語られる。ちなみに、へーゲルの発展モデルは自然ではなく、すでに加工された自然としての古代の作品を模範とし、それを起点として構築されている。

ヘーゲルが示す発展モデルにおいて、まず最初の段階として語られるのは、インドやエジプト等の古代東方の芸術が示す象徴的芸術形式(Symbolism)である。その時代は未だ形式と内容の統一が達成されておらず、作品の内容は抽象的で、素材への対応は荒削りである。その次の段階は、ギリシャやローマの古典的芸術形式(Classicism)である。その時代には理念の発達と共に芸術内容も進展し、作品は素材の持つ形式の中にその姿を表現するようになる。ヘーゲルはその芸術形式を、理想的な統一を示す形式だとして評価する。彼は最終段階として、キリスト教に触発されたロマン派としての芸術形式(Romanticism)を置くのだが、彼はその形式の内に、芸術の終焉を垣間見る。

理念は古典派以降も更なる発展を続けたが、やがて形式との統一から逸脱しはじめ、精神として内面の変化を目指すようになる。そこに至り芸術は精神として発展し続ける理念をついに吸収しきれなくなり、衰退しはじめる。精神の発達に芸術の形式が追随できない以上、今後ギリシャ芸術やダンテあるいはシェークスピアに匹敵する作品を望むことはできなくなる。芸術は沈思とイロニーへと埋没し、過去のテーマを反復しながら、次第に消滅への道を歩んでゆく。それがヘーゲルが示す芸術終焉の概要だ。

ヘーゲルは芸術の存在既定を表現するものとして、芸術を宗教や哲学と同列にか、または近似なものとして取り扱う。そのような彼が発展モデルを通じて問いかけるのは、その価値を神的絶対性に基づく感覚的所見や、ギリシャ時代における世界観、形式と内容の均衡に求めた芸術が、現在のキリスト教的信仰や反省的なイロニーにもとづく世界を、包括することが出来るのだろうかという疑問である。彼はそうした疑問を下地に、芸術の限界を見極めた結果として、その終焉を宣言することになった。

歴史や哲学がその頂点を迎えたとされるロマン主義の時代において、さらなる理念の発展が芸術の成立を困難にするのは明白で、芸術を通じて精神が理念を把握していた時代は必然的に終わりを告げる。以降は単に芸術とは何かを学術的に認識する時代へと突入し、芸術の創造と享受の時代は終焉を見ることになる。

参考文献
Introductory Lectures on Aesthetics: G.W.F. Hegel, Penguin, 1993

ヘーゲルシェリングIntroductory Lectures on Aesthetics

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