ベンヤミン、写真小史

以下はベンヤミン(Walter Benjamin、1892 - 1940)のエッセイ「写真小史」から、彼の言葉をもとにいくつかの論点を要約したものである。ここでは「ベンヤミン著作集2、複製技術時代の芸術」に収録された和訳を参照しているが、当エッセイはタイトルにある論文の内容を予見するかたちで、写真の歩みをアウラや複製というキーワードを通じて解読する。進行する芸術の大衆化の起因を写真がもつ複製技術と関連させ、複製化がもたらす芸術の変化をひとつの効用として、芸術の未来が示される。

芸術としての写真

写真が創作的な写真、すなわち芸術としてその最盛期に置かれた期間は、写真の産業化がはじまるまでの最初の十年程度に限られる。「写真としての芸術」は、写真が社会の現象に目覚めはじめる前であるからこそ存在できた様態である。芸術的な観念を近代技術から切り離そうとする思惑にそれが対抗しはじめると、芸術はその意味の変更を余儀なくされた。

写真に芸術性を付与させるのは、絵画には持ち得ない魔術的な価値を対象に付け加える、自然を独特なかたちで取得するその技術である。写真は、実際に見てはいても正確には捕捉できない瞬間の動作や対象の細部をつぶさに記録し、普段は見えないものを明確に描き出す。

だが初期の芸術としての写真において、カメラが対象の瞬間の内部へと向かわせ、それを強調できたのは、そのような技術によるものではなく、むしろその機能の未熟が求める長時間の露出によるものだ。対象への持続的な露光は、写真に偶然性を凝縮するような独自の時空を表現させるが、そのような写真では、鑑賞者の回顧を通じて、対象の過去に潜む未来があらわになる。

初期の芸術写真は視覚的無意識を表象する媒体として、動作を止めたり、細部を誇張することなく、写真空間を人間の意識とは別に無意識に浸透された空間として立ち上がらせることに成功していた。写真技術が発達する前、対象に課せられる努力(長時間のポースに耐える)と撮影技術のレベルとの一致が、写真の芸術性を支えていた初期の時代においては、写真家がカメラと同じレベルに立つことが可能だった。

アウラとその喪失

後にレンズが大口径化され露光時間が短縮されると、最明部から最南部へと向かう絶対的な連続性が失われ、明部と暗部との分離がもたらす、光が影のなかから湧き出る効果が喪失した。加えて、写真家の細密肖像画家というその出自を活かしたネガの修正技術の上達や、撮影時に行う様々な演出によって、被写体が発散する貴重な要素が失われて行った。

その要素というのがアウラである。アウラとは、それを透過する人間の視線に確信や満足感をもたらすある種の媒介であり、時間と空間がつくりだす、つかみどころのない、ひとつの特別な織物のような現象である。写真においてそのアウラを呼吸するためには、それが出現する瞬間や時間が対象の現象に関わるまで眼で追うことが要求される。写真平面からの明部の喪失とともに失われるアウラを追い求める写真家の種々の試みはすべて徒労に終わるのだが、このようなアウラの消失は、ブルジョアの現実逃避という社会の流れに合致する。

複製技術

複製技術の登場に伴う変化の一つとして指摘されるのが大衆の芸術作品への関わり方で、人々は作品を個人としてよりも、集団がもたらす産物として見るようになる。複製技術は、複製と同時に対象を縮小する技術でもあり、それが作品把握を容易にする。

実際に現代ではあらゆる事物の一回性が、複製によって克服されようとしている。事物を事物自身、それそのものとしてではなく大衆に近づける方法として、事物は画像(一枚の写真)としてではなく、複製(新聞等に掲載される複製写真)として入手されるようになる。画像には一回性とその持続性とが包まれるその一方で、複製には一回性と反復可能性が包まれる。複製とは対象にあるアウラを破壊し、一回限りのものから同じものをつくり出す知覚である。それは現実世界を察知するための知覚として、とりわけ社会の権力移動がなされる時代に必要とされる能力である。

現代では芸術写真よりも身近な対象の写真が重要視される。それは写真の社会的な機能を象徴する出来事であり、今まで顧みられなかった平凡な写真が「写真としての芸術」として、複製機能を活かし、新たな芸術として重要な意味を持ちはじめる。

今や、政治や科学から距離を置く、創作的かつ構成的な写真は、社会的な危機の増大に連れて、物神的性質を増大し続けている。その実体はもはや広告と化しており、対象を流行へと引き渡す単なる媒介以外の何物でもない今やその種の写真においては、対象の真実を単純に表現する以外に何も語ることはない。

参考文献
複製技術時代の芸術:ヴァルター・ベンヤミン、佐々木基一(訳)、晶文社、1970
ボードレール:ヴァルター・ベンヤミン、川村二郎・野村修(訳)、晶文社、1975

ベンヤミン

ベンヤミン、翻訳と批評

ある国語を別の国語へと移し替えるのは、実際には不可能だということは、よく知られた事実である。生きた言語は自身の形式と、それを擁する文化との間に成立する。したがって、ある言語の文法を異なる言語の文法と対照し移植するだけでは不十分で、また実際にはそのような機械的な行為でさえも、容易なものでは決してない。とりわけ翻訳が困難なのは、諸々の分野、とりわけ文学等に多い、種々の操作、方言、比喩やトロープなどを駆使するテクストで、原作のパロデイなのかと思わせるような悪訳が市場に出回ることもある。

ある国語独自のシンタックスの限界へと迫り、逐語的な解釈が必要な部分とそれを拒否する部分とが混在するようなテクスト、散文に散りばめられた特有の表現機能が、物語とともに言語の可能性を追求するようなテクスト、そのようなテクストの翻訳にはとりわけ多くの危険が伴うもので、結果的に翻訳が原作の内容に加えて、翻訳のプロセスとその苦悩を語るという、二重のドキュメントとして落ち着いてしまうことも少なくない。翻訳における原作とは、あたかもそこに内包された下意識のようなものだという考え方が存在する。その一方で、自我としての原作は、常に単なる分身として読者とともに周縁へと投げ出され、自らの疎外へと収束されてゆくのだと考えることも可能である。

原作と翻訳の間には何らかの二項対立的な状況が形成されており、定常的なヒエラルキーにおいて前者は必ず後者に優先され、翻訳は悪文や曖昧さを包含する第二項として自身の地位に甘んじることで、ようやくその存在意義を得ることになる。だが一方で、翻訳をそのような対立構造の中に置き去りにするのではなく、両者の補完関係を強調することで、翻訳の価値を見つめ直そうとする動きが存在する。そのひとつがヴァルター・ベンヤミンの翻訳論で、彼は言語本来が持つ能力の考察する中に、翻訳者の使命と翻訳の意義を再考する。彼の翻訳論は「翻訳者の使命(課題)」と題されたエッセイをはじめ、いくつかの論文にまたがるものの、要旨は統一されている。

ベンヤミンにとって翻訳とは根源的な行いであり、異なる言語領域への移動という単純な伝達作業とは異なるものだ。ただし、そのような行為の根源性を保証するためには、原作に高い水準が要求される。テクストにおいて直接に意味を媒介してゆく逐語には真の言語、真理もしくは教義への従属が求められるからなのだが、そのような従属を介して想起されるのが、彼が言語の真の姿と考える「純粋言語」である。翻訳とはまさに言語を発掘する過程なのであり、翻訳者にとっての使命とは、それをひたすら実行することに他ならない。純粋言語とはベンヤミンが提起する伝達記号へと堕する前の原初的な言語のことで、それは人間と事物との間に、精神的な類似関係を締結させてきた言葉である。だが、いつしか言語は、対象を同一化する指示関係を表す記号へと変化してしまい、多言語化の道を歩んでいった。

純粋言語においては、個々の言葉が他の諸言語の表現可能性の総体を内包し、その機能を果たす(*1)。それはまた、概して批評的な行為でもあることから、ベンヤミンは翻訳を批評と同等に位置づける。批評が目指すのは、危機にさらされた芸術作品の救済だ。救済は、作品の奥底に寓意となって隠蔽される原初への憧憬を露にし、純粋言語が行う真の模倣能力を回復させることで達成される。

ベンヤミンは翻訳作業を、救済を実現するための批評行為と見なす。彼は翻訳を、「生成しつつある言語そのものの唯一無二の厳格な修業過程(*2)」であると規定する。彼の言う批評的な翻訳過程においては、原作と翻訳両者の間にある類似関係は排除され、また、原語(国語)は外国語の精神によって拡大され、両者は互いの補完を通じて、完成形へと到達する。原作に潜む純粋言語は、むしろそうした関係の中でこそ想起され、言語はその原初的な機能を回復し、新たな生を得ることになる。

ベンヤミンが示す翻訳過程においては、先験的な血縁関係の有無や国語の隔たりが、翻訳行為の成否に影響を及ぼすことはない。翻訳とは「微細な細部にいたるまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成」することで、「純粋言語を翻訳固有の言語のなかに救済する」ということであり、それを成功に導く鍵は、行間の中に仕組まれている。彼は翻訳による行間への働きかけこそが、純粋言語の回復による逐語と自由との合体を実現させる近道だと考える。行間とは「間」のことで、その存在は空白によって活発化される。「間」の発見こそが、純粋言語発掘への道筋を一層明確なものにする。

ベンヤミンの翻訳概念は、ボードレールの詩篇の翻訳を前提に組み立てられている。したがって、詩的な要素を含む文学作品、真意を行間に委ねるような文体から成る散文の翻訳にこそ、彼の翻訳論は有効に作用する。それは、現代において排除されがちな言葉の呪術的な働きを、原作とその翻訳との中に同時に再現する。呪術的な働きとは読者の人格を通り越し、情念の深層に直接働きかけようとする機能であり、とりわけ詩にとって、それは精神を司る重要な機能のひとつである。

付加や削除そして選択という行為が間断なく要求される翻訳作業には、強い忍耐力が必要だ。二つの国語の隔たりは大きく切実で、日本語と英語に例えると主語の有無、日本語の左傾と英語の右傾という構文の違い、名詞にまつわる修飾の掛かり方の相違から、アポジションの扱いに至るまでの様々な文法的な課題に加え、文化の違いに起因する単語解釈にも大きな隔たりが存在し、また時にはそこに方言の壁がのしかかる。一見冷徹な構えを見せる翻訳作業だが、ベンヤミンの翻訳論は、作業に秘められた密かな意義を、翻訳者の内に自覚させる。

ノート
(*1)翻訳者の課題(暴力批判論所収):ヴァルター・ベンヤミン、野村修(訳)、岩波書店、1994、p. 302
(*2)ibid. p. 99
参考文献
翻訳者の使命(ベンヤミン著作集 6:ボードレール所収):ヴァルター・ベンヤミン、川村二郎・野村修(訳)、昭文社、1975
雑誌「新しい天使」の予告(暴力批判論所収):ヴァルター・ベンヤミン、野村修(訳)、岩波書店、1994

ベンヤミン暴力批判論ボードレール

ベンヤミンとアレゴリー

日本で外来語として用いられるエッセーという言葉には、随筆、とりわけ作家が虚構を離れ気軽に現実を語るそれが連想される。だが、本来エッセーという言葉にはや試論という意味が強く内包されていて、論文と近接するものも少なくない。エッセーをそのようなものとして見たときに、まず思い出されるのが、ヴァルター・ベンヤミン(1892 - 1940)が残した種々のテクストである。論文であり、哲学であり、また随筆でもある彼のテクストには、また、ある種の先見性が読み取れる。

ベンヤミンの思考の先見性を見抜き、その新たな解読を試みたひとつの成果として挙げられるのが、クレイグ・オーエンス(1950 - 1990)によるベンヤミンの解釈だ。1950年代の終盤以降、構造主義を下地にして、唯心的な哲学に対し、言語的かつ唯物的な方法で挑んで行った一連の動きの中で、ベンヤミンのテクストも再評価されてゆくのだが、そのひとつとして挙げられるのがオーエンスの解釈である。芸術が絶対性やアプリオリを前提とする主観的な表現媒体から、客観的な視点に支えられた批評媒体へと移行してゆく中、芸術はテクストとして読み替えられ、文学においては世界の現実や虚構の意味を再考することで、叙述のさまざまな方向性が模索された。ベンヤミンのテクストは、そうした動きを裏側から支えるのに役立った。

オーエンスはベンヤミンを解釈するにあたり、彼が行う主観性の保留を強調する。ベンヤミンはそれまで重要視されてきた主観性を、表象の問題の発生源として一旦保留する。主観性が排除されたテクストは、客観的な表現に供する媒体として、全体が引用から成る総体、引用の織物であると解釈される。総体における個々の断片を配列する構成や、各細部をクローズアップし寓意的に機能させる機能は、世界の姿と一致する。そこでは、意味は湾曲され、証明や結論は保留され、問題は未完のままに放置される。解決不能な矛盾の集積として、それはすべてを中断する。ベンヤミンはそのような状態のテクストを、バロック悲劇におけるアレゴリーの中に発見した。オーエンスが着目したのはその点で、アレゴリーにおける独特な言語の物質的なあり方が彼の議論の中心になる。

バロック悲劇は寓意化する対象を自然や日常生活から抽出し、そこに人工的な象徴を加えることで、観念を慣習的な悲哀を伴う記号として表出する。だがベンヤミンはむしろ、バロック悲劇の寓意における視覚的要素、人工的な象徴に反し視覚的なものへと進行する言語の運動に着目する。活版印刷における文字の整列や高次な隠喩による文字の視覚化が、寓意的なテクストを無定形の断片の集積へと変化させ、人工的な象徴に彩られた、有機的で古典主義的な全体性に強く抵抗させる。そこでは意味が字義的に読み取られるので、各断片の本来の特徴が強調された、重層的でコラージュ的な構造が示される。字義的な読み取りによる意味作用は、観念の恣意的な再現を防止し、物質的な基盤に基づく具体的な表象を強調すると同時に、寓意的な機能を従来の憂鬱な状況から、より構築的で動的なものへと変貌させる。

「思考の領土におけるアレゴリーは、事物の領土における廃墟である」、これはベンヤミンの言葉だが、物質的に断片を積み上げ折り重ねるコラージュ的な構造は、彼が体験したブルジョアの没落やユダヤ人の排斥といった文明崩壊のイメージと合致する。廃墟をブルジョアの腐敗=崩壊の記号として、廃墟を文化に、アレゴリーを思考に結び付け腐敗や崩壊をあらわにする、その過程を図式化する行為、それが彼のテクストであり、エッセーである。ベンヤミンは科学と芸術との摩擦や、バロックやロマン主義が寓意的な象徴として扱う特殊で非概念的なものを強調したが、オーエンスが引用したのもまさにその点で、彼はアレゴリー的な表象が、そのような摩擦や決定不能性を主題として扱い、隠蔽と暴露という二重の構造を展開する、そのような機能に着目した。

参考文献
反美学 - ポストモダンの諸相:ハル・フォスター(編)、室井尚・吉岡洋(訳)、勁草書房、1987
The Origin of German Tragic Drama: Walter Benjamin, Verso, 1985

反美学

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