J.M.バーンシュタイン、文化産業とポストモダニズム

以下の文章は、「The Culture Industory: Selected essys on mass culture」というアドルノの論文集に添えられた、J.M.バーンシュタイン(J.M. Bernstein)による序文(英語)の翻訳をまとめたものである。翻訳は筆者によるもので、まとめる段階で直訳は読みやすいように変更した。クオテーションは省略する。

アドルノの文化産業(カルチャーインダストリー)に関する論文は、高等芸術と大衆芸術とのポストモダン的な関係を予見するが、それは決して安泰なものではない。アドルノは真実性を基盤とする高等芸術と、それへの手に負えない抵抗力を示す大衆芸術との調停の場における両者互いの損傷を指摘することで、和解の虚偽的終焉を予想する。彼の見解に従うとポストモダン的な階差の逆転と崩壊にある種の疑問が付されることになり、そこでポストモダンの擁護者は彼の見解に批判的に接することになる。ここではまず、その批判の内容を概観し、その後に文化産業内部で行われる調停の細部の考察へと進むことにする。まずその批判だが、それは概ね次の二点に集中すると考えられる。

まず指摘されるのが、アドルノが行うとされる、文化産業の否定的側面としての拒絶の力とそのごまかしに対する過度な強調や誇張である。アドルノには意識の相対的な自律性を否定するか、あるいは大衆を愚民であると前提し、そのうえに文化産業の巧妙な手口を過大に評価し、その否定的側面を大げさに描写する傾向があるという。そして、そのような誇張は、彼の高級芸術の裁定のありかたを基底とするものだ。アドルノはまず高等芸術を社会から隔絶した存在であると規定する。だが、この見解は一方的に過ぎないか。たしかにモダンアートはその奥義的な性質をして少数のエリートに仕え、商品としての存在からは距離を置いてきたのだが、とりわけ1950年代の終盤以降、市場へと身を晒すことにより従来の批評的地位を失ない、その評価も進化の言説も投機的な市場で決定されるようになっていたはずだ。

次に指摘されるのが、アドルノがモダンアートを擁護する際に、まずその進歩的な素材の開拓を強調するという、その行程だ。素材とは文学における単語やイメージ、意味に相当するもので、絵画における色彩、線、筆跡、キャンヴァス等をあらわすのだが、モダンアートはそれに加えて、再現=表象、形象化、説話、ハーモニー、統合性といった事柄をも否定する。アドルノは芸術素材を最先端のものだと解釈するが、そのような解釈は、暗黙のうちに芸術の進化を内包されたものだと規定することになる。ポストモダニズムはそれらをみな回帰させるのだが、その回帰においては、アドルノの言う最も進化した芸術素材の状況が要求する直線的な歴史の進化は否定される。

実際にモダンアートが否定する素材や概念は、まさに文化産業に内包されているものなので、ポストモダニズムはそうした否定こそが、モダニズム特有の階層化による分割への要求を克服するのだと考える。反駁を通じた高級なものと低級なものとの統合は、ポストモダニズムにとっては、高等モダニズムのエリート主義に対する民主的な反応なのである。伝統的芸術の要求を否定し、また自律的かつ統一的な芸術の構成要素の否定をも通じて、モダニズムの成功に疑問を投げかけること、それはまさにそうした抵抗の機能に反駁する囲いを除去することなのであり、そこでは不協和音、ショック、矛盾は、もはやモダニスト的実践の結果ではないのだということが示されるはずだ。

そのようにしてポストモダンの擁護者はアドルノを批判するのだが、そこには一方的で不適切な側面が見え隠れする。実際には、そのような批判にもかかわらず、アドルノの美学理論は、その最初から意識的にモダニズムの老化を指摘しているし、クレメント・グリーンバーグの美学などとは異なり、芸術の未来を描こうともしていない。単にアドルノは、いつ消え去ってもおかしくはないモダニズムの真の意味を暴露しようと試みているのである。彼は漸進的な芸術素材の概念が、個々の芸術の論理を非歴史的に表象すると信じるような本質主義者ではない。彼が用いる漸進的な芸術素材の概念は、特定カテゴリーの実践の可能性を、経験主義的な現実から排除された結果のあらわれなのだと規定する。

アドルノの関心は芸術の未来にではなく、啓蒙の合理性によって最も脅かされている感覚的な特殊性、理性の死、個の実体的観念、真正な幸福といった要素の救出にある。モダニズムの理論は、まさにそのようなカテゴリー的な要求を、歴史の中に相続する。そのようなカテゴリー的要求は現代社会の内部において力強く実現されるのだが、もし高等芸術がその社会の内部だけに位置するものであったのならば、アドルノにとってはその点が重要な事柄になっていたはずだ。だが、もしそうでないのなら、それは文化の批判として解釈されるべきである。実際に、文化産業と高等芸術には密接なつながりがある。両者の内向きな崩壊の瞬間とは、まさに両者の交感の瞬間なのであり、それはまた、両者の差異の虚偽の妥協でもある。それはつまり最も端的に、普遍と特殊との虚偽の妥協であると理解できるのだが、そうした見解こそ擁護するに値するのではないだろうか。その点をもう少し考察する。

ルカーチ的楽天主義は、そのナイーブな性格で、マスメディアが表現する際の自らの萎縮を指摘した。メディアはその萎縮を通過しなければ、社会批判とイデオロギー的逆転の媒体となり得ないのだと彼は言う。今では当時よりも効果的に多様性がマスメディアの中に存在するとはいえ、それほど自明なことではない。1950年代の終わり頃までに、意識の単一化は資本の増大という意味において、非生産的なものになった。そこで新たな需要に対する新たな商品の開発が必要になるのだが、それは一旦排除された最小限度の否定性の復活を要求した。それは、モダニズムの時代と戦後の統一と安定の時期を通じて芸術の特権であった新たなものへの崇拝が、それをもともと生じさせた資本の拡大へと回帰したことを意味している。

その問題は否定的な事柄であるとはいえ、日々の生活の基本的な仕組みの変更を予感させるようなものではない。したがって、それはショッキングなことでも、また開放を促すような問題でもない。資本は文化産業を通じて、絶え間なく新たな異なる商品を生産することで否定の活力を通時的なものとし、加えて新たなライフスタイルの促進を共時的に選択する。新たなライフスタイルとはまさに文化産業による芸術形式の再利用を意味するのだが、それはかつては否定の機会を含んでいた美的カテゴリーを変容し、それを商品の消費の質として再現する。したがって、ライフスタイルの役割の競合的な拡大と、そのスタイルの家庭への浸透、そして生産品がそれらの宣伝するイメージの直接的な拡張となる方法、そのような現象のすべてが、文化産業と日々の生活とのギャップの消滅や、社会的現実の審美化の証となる。消費社会では商品それ自体がイメージ、表現、見せ物になるのであり、使用価値は包装と宣伝に取ってかえられる。美術作品は商品へと変化することで享受され、また、そのような美術の商品化が商品を審美化するのだが、それは芸術の終焉を予兆する。

ポストモダン期の文化産業は、芸術と生活の差異の消滅という、まさにアヴァンギャルドが絶えることなく要求し続けたものを達成した。だが、そうした状況の中で、現代の芸術には重大な自己矛盾が発生する。社会の現実はますますユートピアを遠ざけ、同時に慰めや幻(まぼろし)を大衆に与えることで、非ユートピア的な世界の実現を、その罪悪から遠ざけようとする。その一方で、芸術は正直に自らがユートピア的であることを欲し、またそうあらねばならないと思い込んでいる。そのような矛盾を抱えつつ、もしも芸術のユートピアが達成されるとすれば、それも芸術の終焉を意味することになるだろう。文化産業は常に慰めと幻を巧みにあやつりながら、モダニストの力の衰退から利益を得てきた。文化産業は対戦相手としての美的モダニズムに対する成熟した非難をすることもなく、異形の美的形態と社会形態とを絡ませることができたのである。

そのようにしてブルジョア芸術による幸福の約束は消滅するのだが、それは分散化された喜びと強い幸福との間の差異の消滅の表現だと解釈される。そして、その解釈は、文化産業はポルノグラフィックであると同時に潔癖であるというアドルノの見方をベースにしたものだ。差異の消滅は、統合的な作品に対する期待の消滅と、不協和音を響かせる批評的瞬間の対位法と言う意味での、ユニークな作品の制作とその享受に対する要求の昇華と消滅とを意味している。とはいえ、文化産業が昇華を否定するその努力が、欲望の充足や作品の倫理の抑圧の真の克服へと結び付いているというわけではない。個々に対する適度な概念が欠落する状況においては、新たな文化的基盤が、個々が放つ欲望の力に対して、少なくともそれと同程度の攻撃を加えることになるからである。

芸術の形式は昇華への道筋を規定しようと圧力をかけてくる。だが、そうした圧力を受けるまでもなく、昇華しきれない欲望は偽りの慰み、そして、まずはじめに昇華からの脱却の必要性を促した真の幸福の障害と呼べるものに、自らが対峙しているのだという状況を理解する。文化産業はそれへの返答として、作品の制作とその審美化を模倣することで、鑑賞者が何も無いということに満足を得られなかったのだという事実を告発する。厳格な形式からユートピア的な差異の戯れへの開放は、資本主義のもとでの生活の抑圧と単なる幻影としての高等文化の力動からの、崇高なる開放をもたらしたはずである。

だが、ポストモダン的崇高はそのような事のかわりに、閉鎖的な形式のアプリオリを見事なまでに破壊しながら、高級と低級との克服を攻撃的に主張する。芸術と生活実践との統合における開放の瞬間を見るまでもなく、ポストモダン的崇高はその主張を通じて、崇高の暴力的な欲望の抑圧を恒久化する。その道筋において、ポストモダンの仮定的な肯定は、希望しなかった死への祝い事でもあるかのように抑圧を満足として提供し、自己否定の瞬間を永続的なものにしてしまう。なぜなら、ポストモダン的実践は、変更を加えることなく経験的な世界を改めようとするのだが、その抽象的な断言は、偽をもってそこで引き伸ばされる絶望を示すからである。その絶望には侵略や暴力の兆候が見られるが、その暴力とはメディアによって再現され開拓され讃えられたものである。アドルノが非同一と呼ぶ、手段としての理性によって感覚的な特殊性のうえに永続化される暴力は、暴力によってのみ回答される。

加えて、そのような状況をさらに悪化させるのは、 高等芸術を目立たせるものが極めて少ないか、あるいは何もないということだ。もしも伝統的なハイモダニズムの批判的な力が疲弊したのだというのならば、ポストモダニズムは単に偶然またはでたらめに、強い否定の瞬間を生み出すための方策を発見したということになる。その事実は現在の美的生産物を侵食しているが、それは個々のモダニストの作品だけにではなく、一時的にモダニズムを文化的に重要なものにした、文化の否定的な役割を延長させた芸術的モダニズムのプロジェクトそのものにも存在する。ポストモダニズムという定義は、可能性に欠けている。だがそれは、ポストモダニズムへの批判を予言するものではなく、またモダニズムの論理への回帰を求めるものでもない。歴史がモダニズムに暗い影を落とすことになったのは、ポストモダニズムの失敗のためではない。ポストモダニズムの状況は、モダニズムのそれよりもより難解で組織立ったものではないし、ポストモダニズムの芸術家は、もはや彼らの作品の生産活動を先導する素材や、彼ら自身の芸術の論理を信頼することができなくなったのである。

ポストモダニズムが試みる高級と低級芸術の統合は漂流する。そうなるのは、モダニズムや伝統的芸術が、経験的事実を破壊的な結果とともに審美化するのだという事実を忘れ、加えて、批判的に示される高級と低級芸術の分かれ目を忘却したか、あるいは全く知らないうちに、それぞれをの統一を試みるからだ。そして、そのようなことが、ポストモダニズムへの称賛を躊躇させるのだ。まずはポップアートが、加えて魔術的なリアリズムがその適切な一例としてあげられる。それはいかなる手段を用いてでもモダニズムのプロジェクトを継続するために、否定性を工夫という意味に解釈しながら、統合的な展開を引き継ごうとする。どのような見方においても、ポストモダニズムは二つの領域の真の統合をつくり出すことによって、偉大な分裂を克服することに成功しなかった。それは資本の要求に屈服した偽の統合であるか、モダニズムのプロジェクトを継続するための偶発的な手順、つまり否定のプロジェクトなのであり、それは普遍と特殊の統合が架空のものである限りにおいて継続されるだろう。そのようなポストモダンの状態は、その空想的な状況の縮小というよりも、むしろ悪化といえるものだ。

確かにアドルノには、文化産業の同質性の目標を過度に強調する傾向が見られるかもしれない。だがそれにもかかわらず彼の理論と分析は、虚偽の個性と個性、快楽と幸福、コンセンサスと自由、虚偽の行為と行為、架空の非似性と同一でない非似性といった事柄を連続的に喚起させる。そして、それらと血縁関係にある事象の分析は、アドルノの批判理論の本質的な核心をなすものだ。おそらく文化産業が生み出す中立化と退行とは、アドルノが描くようなものなのだろう。現在の文化産業の表層的な論理がアドルノの執筆時期のそれとは劇的に異なるにしても、その効果は奇怪なほどに一致する。アドルノは明確に文化産業の軌道と、それを気取る脅迫に直面したのであり、現実のものとなった彼の最も悲観的な予想が、彼の文化産業に関する執筆を不快なまでに時宜を得たものにしているのである。

参考文献
"On the fetish character in music and the regression of listening" in The Culture Industory: Selecten Essay on Mass Culture: Theodor W. Adorno, Routledge, 1991

アドルノ

アドルノとイデオロギー

イデオロギーはその対極にあるものを真実や理論としてではなく、差異や異種混淆性として認識する。

後期資本主義社会における等価関係は虚偽的だが、その偽りの等価性のもと、支配的イデオロギーは同一化思考のひとつの形式として、我々の個性や多様性を自らの模像に変更するか、外部へと排除する。先進資本主義における物象化され官僚化された管理社会は、いかなる矛盾をも抑え込む同一性原理の過程を完璧に模倣する。そのイデオロギーは形而上学的な絶対概念や超越的思考に準拠しつつ、他者としての我々を、自らの同一性へと暴力的に還元する(*)。

一時期、アドルノが用いた差異や異種混淆性という概念が、ポストモダン的な思考を暗示するものとして、再読されたことがある。だが実際の彼の思想は、差異を無条件に擁護するわけでも、同一性原理をすべて否定するわけでもない。アドルノは多様性にもとづく共存による真の調和の達成というユートピアを描いたが、それはイデオロギーと商品生産が、歴史に強制する偽りの等価性(同質性)から歴史そのものを開放することで得られる理念であり、それを達成するためには、同一性の概念と差異性の概念の両方を超越する必要があった。

アドルノは同一性をイデオロギーの原初的な形式であると規定し、その束縛から逃れるために、思考と現実、概念とその対象との間に横たわる本質的な非同一性を提起する。イデオロギーを、個性的な現象を同一化し世界を同質化するものとして、その打破を、思考の中への異種混淆的なものの包含として目論む、そのような思考形式を、アドルノは「否定弁証法」と呼ぶ。彼はそのような異種混淆性に導かれる否定的理性の範例を、専制的な全体的性質に逆行し、感覚的な個性に乗じた差異や非同一性を基盤とする純粋芸術に要求する。。。

以上はイーグルトン(Terry Eagleton、1943 - )の著書を参照し、まとめたものである。アドルノはマルクス的な物象化現象(人々の主体や社会関係が物と物との関係として再現される現象)との対比によって、先進資本主義における官僚的(硬直的に規律や権限を遵守し、合理的だが階層的)管理社会を分析し、それが行う極端な同一性原理を指向するイデオロギー的な抑圧を批判する。同時にそれへの対抗手段として、他者性、異種混淆性や周縁性の強調による政治的解決を提案するが、そのようなアドルノの手法にイーグルトンは疑念を示す。

アドルノよるハンスリック(Eduard Hanslick、1825 - 1904)等の形式主義批判と、自らの理論における形式の擁護との間には矛盾が見える。そこでイーグルトンは否定弁証法や芸術にユートピアを求めるアドルノの手法を形式主義的だと非難する一方、それを補う理論としてコミュニケーション言語の可能性を模索するハーバーマス(Jürgen Habermas、1929年 -)に着目する。ハーバーマスはヘーゲル的な啓蒙思想に着目し、リオタール(Jean-François Lyotard、1924 - 1998)等が掲げるポストモダンに反駁する学者のひとりであり、その反近代的な言説を、ニーチェ的ニヒリズムを踏襲するものとして批判する。

(*)哲学を「同一化を通じて、自らの最も奥において、社会と結び付く」ものだと考えるアドルノは、そのような状況を認識するために、「同一性」の概念を用いて思想に潜む社会との接点を考察する。アドルノにとって「同一性」は、思考と社会両者に統一する原理、認識批判を社会批判へと受け渡す媒介という意味を持つ。彼は認識と対象と概念との一致を「同一性」として、それが行なう「同一化」を批判する。思考を対象(事物)の概念(言語)としての把握であるとして、「同一化」とは、その思考が行なう、対象化による概念規定化を通じた他の事物に対する改変行為を意味している。アドルノが模索し追求するのは、そのような思考における同一化からの離脱と、非暴力的な同化の可能性である。そこで彼が注目するのがその可能性が「同一化」の原理によって支えられている「交換」の原理である。彼は「交換」を「同一化」の原理の社会的原型として指し示し、資本による人間の搾取、つまり労働の剰余価値の利潤としての剥奪を、「同一化」が孕む対象と概念の不一致が生み出す差異に例え解読する。このノートの記述には「現代哲学の名著」、アドルノの章を参照した。

参考文献
イデオロギーとは何か:テリー・イーグルトン、大橋洋一(訳)、平凡社ライブラリー、1999
不協和音:Th. W. アドルノ、三光長治・高辻和義(訳)、平凡社ライブラリー、1998
現代哲学の名著:熊野純彦編、中央公論新社、2009

アドルノ

アドルノが描くプルースト

テオドール・アドルノ(Theodor W. Adorno、1903 - 1969)の著作の中に、「ヴァレリー プルースト 美術館」と題された論文がある。彼はそこで美術作品を美術館という特異な場に展示、位置されるものとして考察し、芸術の意味の再考を試みている。ヴァレリーとプルーストというふたつの異なる芸術観を参照し、両者の見識の違いを通じて、美術館とそこに収まる作品の関係性を考察し、試みの弁証法的解決の糸口を模索する。

本論では美術館が文化のシンボルを担う典型的な場所として扱われるが、その象徴性は暗澹たるもので、美術館では新たに生まれた作品が、死の象徴としてやがては滅びる自らの姿を暗示する。永遠を彷彿とするそのみずみずしさの中には、すでに自らの破戒のモチーフが含まれているのである。そのような作品にしても、当初は幸福の付与という芸術の使命を担い、登場したわけだが、その使命は美術館で作品どうしが競い合う中で失われてしまう。とはいえ、そのような事実を念頭にしつつも、仮に作品の価値を真理に求めるのであれば、そうした摩擦とそこに生じる敵対性を肯定せざるを得なくなる。真理は競合を通じて生まれるものであり、したがって競合による生の保持という事実のうえに問題が止揚されるからである。

そのような状況の中に作品との関連性を保ってきた美術館を、プルーストは神の真の創造物であるかのように崇めていたのだとアドルノは考察する。プルーストは記憶をもとにした独自の長編で知られる作家である。本論においてアドルノは、その長編の第二編、「花咲く乙女たちの影に」の第三巻に記された、憧憬に満ちたプルースト独自の芸術観に着目し、そこに描かれるプルースト独自のディレッタンティズムに支えられた作品の解読に潜む矛盾を指摘する一方で、それを賞揚する。アドルノはプルーストが示す芸術への愛着を、かつてゲーテが予期したような、芸術の相対化による芸術への尊厳の付与という難題に対するひとつの解答だとして、その意義を主張する。

プルーストは即時的なありかたを自らの歴史的傾向の力で破壊してゆくような文化、純粋で即時的な存在としての文化に対する保守主義的な信仰を、彼の長大な小説の中で批判した。芸術作品は個々をカテゴリの中に押し込めることで、「芸術のための芸術」と定義されるような、形式性を保持している。だが物象化と無関心への誘惑がそれを否定し、芸術の純粋性を脅かす。作品は実際には社会的関係を指示しているのだという不可避の現実が、その純粋性を不純なものへと変貌させるということがその理由であるわけだが、そのような現実を鮮明に目の当たりにさせてきたのが美術館なのである。

アドルノは、プルーストがそのような美術館を賛美する理由を、彼の美術作品への想いが、後に訪れる第二の生から出発するからではないかと推測する。プルーストが作品の死後に作品の生へと目覚めるのは、彼が芸術作品を何か仮のもの、それを観ているものの生活の一断片、自らの認識の一要素だと考えているからだ。それはプルーストの感性にもとづく見方であり、彼はそれに従い、芸術作品が持っている志向が死滅する層、作品が歴史的な展開を開始して初めて解き放たれる層の存在を、作品の構成法則から解読する。歴史的なものを自然の風景として知覚することができる彼においては、美術館も讃嘆に値する場所へと変貌する。

プルーストにとっての芸術作品とは、その終焉を意味するものでは決してない。作品とは経験が具体的契機へと立ち上がり、そこに根源的な芸術的直感が惹起されるたびごとに、新たに生じるものである。その時彼は、感動的な作品を眺める自分の眼差しの裏側に、幼年時代の一断片が再現されるのを目撃する。プルーストは作品の内部に歴史がある種の風化過程として存在すること、作品には後の生があるということを確認する。作品の美学的価値を評価するかわりに、彼は人工物特有の風化に焦点を当て、そこに自然の美との類似性を発見する。そこには記憶によって伝えられるもの以外に、永続するものは何もない。彼にとっては作品の死こそが生への目覚めであり、作品はそれが機能していた命あるものの秩序を喪失することによってはじめて真の自発性を解き放つ。

プルーストは文化水準や等級を、客観的精神の占有地としての地位から貶め、主観性の中へと引きずり込む。それを実現させるのが、彼特有のディレッタンティズムである。プルーストは作品をただ感動とともに消費するアマチュアであり、専門家や制作者の姿勢からは距離を置く。ディレッタンティズムは彼をさまざまな束縛から開放し、作品を新しいタイプの生産性へと反転させ、内側から形態への瞑想を湧き上がらせ、無意識的な記憶としての想起にまで高めてゆく。プルーストは自由な主観性で、作品の文化への内在という壁を突き崩そうと試みる。それは「その種において完全なものはすべて、その種をこえて彼方をさし示す」というゲーテの指摘に対応する試みとして、芸術の相対化による芸術への尊厳の付与という難題の解読に寄与している。

だが、そのようなプルーストの行動にも、ある種の矛盾が存在する。アドルノの言葉によると、芸術の立場への移行とは、客体のフェティシズム、主体の自らの感溺というふたつのものが、互いの内部に自らの矯正策を見つけ出すということになる。作品は即物的なありかたを示すが、それを否定することでプルーストは文化に対抗し、文化を通した否定や批判に甘んじない自発的行為を擁護する。擁護は芸術作品に正当性を付与するが、その正当性は作品が自発性の塊とならなければ生じてこない。にもかかわらず、プルーストは客観的な幸福を得るために、止むことなく文化を問い詰めるのだが、その点にアドルノはある種の矛盾を発見する。

芸術作品は、それを観る者の主観的な意識の流れの諸要素として自宅へと持ち帰られることで、礼拝物としての特権が切り捨てられ、暴君的特徴から解放される。だが、プルーストはそれに対して、芸術における自由の行為を過大に評価し過ぎる傾向がある。彼は生産者や観賞者の赤裸々な表現として作品を理解する。だが芸術作品とは、構想された瞬間にひとつの客観的なものとなり、観賞者に対してその一貫性と論理をもって何事かを要求し、何かに立ち向かってゆくものなのだ。彼の思考は、その事実に対する釈明が不十分で、作品が芸術家の生活と同様に、外側から見た時にだけ自由に見えているのではないか。作品は魂の反映でも、プラトンのイデアの具体化でも、純粋な存在でもなく、それは単なる主観と客観との力の場なのである。したがって客観的に必然的なものは、主観的自発性の行為を通じてのみ実現されるはずである。

本論においてアドルノは、マラルメの意を継ぐヴァレリーをプルーストに対置させ、問題の細部を検証する。プルーストにしても、ヴァレリーにしても、芸術家の心象には必ず矛盾が存在するのだが、アドルノは両者の矛盾を引き出しながら、それを軸に問題の弁証法的解決を画策する。ヴァレリーは美術館を忌避するが、やはりそこにもある種の矛盾が存在する。

ヴァレリーは美術館を野蛮な場所、文化を神聖なものとして崇めるような感覚に満ちた、凶悪な場所だと考えていた。美術館は真理に固執し、とりわけ社会的な異端に対してそれを強要する。美術館は作品の正当性を、他者への奉仕が認められる時にのみ保証するので、作品という精神的な形成物の存在意義が、その一点にだけ集中されることになる。理性の優越にもとづき形成される全人的な信仰が、社会における非人間化を促進してきたが、美術館の作品への関与のしかたは、まさにそれを象徴的に表現する。

ヴァレリーは主観にもとづく経験とは何かということや、芸術家の仕事にまとわり付く強制の存在を熟知した詩人であり、作家でもある。彼は精神的な形成物が持つ客観的な性格、芸術作品の中に機能する内在的調和、その調和に直面した時の主観の偶然性などを熟知する。そんなヴァレリーにとって作家の作品とは一種の光学機械なのであり、彼は作品が唯一提供できる何かを、読者の心の内部に発見できるように差し出すことが、作品の役割だと考えていた。

ヴァレリーはマラルメの芸術観を引き継ぎ、芸術によって食い尽くされるためにのみ、存在と事物がそこにあるのだと主張する。世界とは一冊の美しい本を生み出すために実在するもので、一編の絶対的な詩は、世界の完成を意味している。だが彼はその一方で、純粋詩がやがては落ち込むことになるはずの、消尽点の存在にも気づいている。「ただ純粋精神にのみしがみついていることにもまして確実に、完全な野蛮さへと導いてゆくものはない」と、彼は述べている。

美術館では芸術が物質化され、そこに消耗化のプロセスが生じるが、それをヴァレリーは忌避し、美術館を退ける。だが逆にそのプロセスは、彼の偶像崇拝の域にまで芸術を高めようとする戦略にとって好都合なものでもある。美術館では作品の鑑賞が自己目的化するが、美術館はそれを意識的に強調する。アドルノは作品のそのような提示のしかた、それこそが作品に対するヴァレリーの夢、その絶対的なものへの昇華を実現するのだと指摘する。

注)この文章はアドルノの論文「ヴァレリー プルースト 美術館」をまとめたものである。クオテーションは省略する。

参考文献
ヴァレリー プルースト 美術館(プリズメン所収):テオドール W. アドルノ、渡辺祐邦・三原音平(訳)、ちくま学芸文庫、1996、pp. 265-288

アドルノプリズメン

アドルノの大衆音楽、文化論

芸術音楽においては、その歴史的形式と音楽内容との間に、弁証法的関係が成り立っている。また全体は、それを形成する各部の連関によって構成され、内容は全体から細部へと流れてゆく。一方、大衆(ポピュラー)音楽に、そのような弁証法的関係は存在しない。あらかじめ決められた形式の中で編曲作業を繰り返しながら、単純化されたメロディーによって聴衆を誘惑する。大衆音楽は概して飽きやすく、単純なパターン化された音楽である。だが、寄せ集めとして作られた部品の各部を入れ替えたり、そこに陳腐な仕掛けを加えたりといった擬似個性化を図ることで、問題を回避する。

聴衆の音楽に対する努力や集中力を阻害するのが大衆音楽の効果、目的であるが、それは同時に聴衆に無個性な機械的労働に対する免疫力を植えつけるのにも役立っている。大衆音楽は退屈で過酷な機械的労働を、ひと時でも忘れさせるための気晴らしとして存在するかのようにみえるが、その仕組みはまさに機械的労働の過程そのものである。そのような二重性がそれと気付かぬうちに聴衆の変革意思を萎えさせ、単に欲望するだけの擬似主体となることへの暗黙の了解を打ち立てる。大衆音楽の図式の中で、個人は社会へと働きかける意欲を失いながらも、挫折することなく、ただ生きながらえてゆく。欲望の循環という環の中で、産業のニーズとしての自身の存在を快楽のうちに確認しながら、ただ粛々と日々を過ごす。

大衆音楽はその魔力を減じないよう内に秘める仕掛けを隠蔽し、商品的性格を美的性格に対して常に優位に保つ必要がある。そこで、音楽の物神崇拝を巧みに利用した宣伝やショーアップが用いられる。音楽における物神性とは、その交換価値が使用価値に取って変わられることを意味している。聴衆は音楽の所有という錯覚と引き換えに、音楽の意味内容を忘却し、企業の利益欲求を自ら後押しする。聴衆はあらゆる意味において、単に企業のニーズとしてのみ存在し、それに呼応するために、聴衆自らが個人の内面性や価値といったものを無力化し、人生に、また社会に対する欲望や価値感を、気付かぬうちに捨て去ってしまう。

アドルノの大衆音楽論が強調するのは、彼が音楽の物心崇拝の裏側として位置づける、聴取能力の退行である。聴取能力の退行は、大衆音楽の受容による人々の現状の運命に対する肯定の強化に結び付いている。大衆音楽は様々な手札を用いて聴衆に生じる複雑な思考を阻害し、聴取方法までも規格化することで、聴衆の自律的思考を阻害する。聴取が退行する中で、聴衆は単にその生産者の都合で操作され、個としての自立性を失ないながら、社会集団へのさらなる帰属意識に目覚め、その確認作業に没頭する。

交換価値の世界を表現する物質的現実世界の受容を否定することで、世界を健全なものへと組み替えるのが、文化の担う役割だと言われている。しかし文化が理想とする自由で公正な交換とは実際には虚偽であり、見せかけにしか過ぎない。文化を通じて幸福の実現をもたらそうとしても、社会の物質的諸条件への依存が、その実現を阻害する。

精神的労働にたとえられる高級文化と、肉体的労働にたとえられる物質的生活様式に依存する大衆文化は、たえず分裂を繰り返す緊張関係の中にある。その関係において、大衆が単に一見難解な高級文化を否定し、安易に与えられる大衆文化に傾倒するだけでは、階位関係を解消し克服することはできない。否定は徒労に終わり、その上、高級文化の内部に潜む開放的勢力の実現をも阻害する。

アドルノは大衆音楽の典型として、現代社会における生存の苦痛の表現の極みとして、ジャズを例にとる。ジャズを典型とする大衆音楽は、高級文化の内部に潜む革命的要素の実現を阻み、まやかしの革命によって、大衆を暗黙のうちに卑下し続ける。彼は音楽におけるサドマゾ的性格を強調するが、それは大衆音楽に留まらず、芸術音楽の中にも存在するもので、一例としてストラヴィンスキーの音楽が示される。

アドルノは現代社会における絶望的な状況の中、シェーンベルク等の音楽に代表される自律的芸術に一抹の望みを託す。だが、彼の自律的芸術の擁護には、アヴァンギャルド芸術に対する冷やかな姿勢が見え隠れする。

アヴァンギャルド芸術は、芸術の自律性とそのイデオロギーへの批判として、芸術と生活の融合、高級芸術の大衆芸術への接近を企てた。だが、結局その目論み自体が自らを解体へと導くことになり、ひいては社会にもたらされるその影響が、反動としてファシズムを生みだし、それを助長した。アヴァンギャルドの挫折は、理性や文化に対する新たな疑念を投げかけ、産業へと堕落した文化の暴力的な実態を暴露する。文化とは普遍的なものだが、それは特殊としての人間や自然に対して同一性を強要し抑圧することで成り立つ普遍である。文化とは決して公正なものでも、解放を約束するものでもない。その実践とは主体を弱体化し、特殊や多様性を剥奪する野蛮にしか過ぎない。一見その文化が尊厳に満ち溢れたものであればあるほど、そこには非同一性に対するより強力な抑圧の芽が隠されている。

芸術は文化の一部として、そのような性格を直接的に引き継いでいる。芸術もやはり野蛮な抑圧なのであり、その戦略には同一性の強要が絶えず見え隠れする。芸術は既存の支配に抵抗を企てるが、非同一のみならず自己の内部にある自然に対してまで抑圧的で、社会的矛盾を告発するというその動機の礎である内部的な自然的欲求を、現実との断絶による苦難の忘却とすり替えてしまう。

アドルノはそのような見方から、芸術、とりわけ生活との融合を目論むアヴァンギャルド芸術に見切りをつけ、それが対峙しようとした自律的芸術、彼らのいう非現実的で欺瞞にみちた自己完結的な芸術に一抹の望みを托す。アドルノは制作の立場から芸術をとらえることで、芸術に悪をもたらす現実的な社会との関係を切り離すと同時に文化の批判へと切り込むことで、文化の否定的側面を効果的に利用しながら、自律的芸術の両義性を強調する。文化や芸術は現実の悲惨を美によって覆い隠そうとする虚偽的な目論みによって成り立っている。その虚偽の存在は事実を比喩的に表現するが、それに加えて、現実と虚構との対比が悲惨を超越し得るという、ある種の真理が予見されている。

注)本文はアドルノ(Theodor W. Adorno、1903 - 1969)の大衆音楽論を、アドルノ自身と他の著者による書籍を参照し、簡単にまとめたものである。クオテーションは省略した。

参考文献
"On the fetish character in music and the regression of listening" in The Culture Industory: Selecten Essay on Mass Culture: Theodor W. Adorno, Routledge, 1991
プリズメン:テオドール W. アドルノ、渡辺祐邦・三原音平(訳)、ちくま学芸文庫、1996
アドルノ:マーティン・ジェイ、木田元・村岡晋一(訳)、平凡社、1992

アドルノプリズメンアドルノ(マーティン・ジェイ)

アドルノ、時間のない流行

ジャズはある種の変革の糧として、また重層的な文化を記す地層として、概ね好意的に語られることが少なくない。そうした中で異彩を放つのが、「時間のない流行」と題されたアドルノ(Theodor W. Adorno、1903 - 1969)のジャズ論だ。ジャズを文化的虚偽の象徴として、アドルノは各所でジャズへの批判を展開してきたが、本論はそれらを集約する。現代社会に生きる人間にとってのひとつの深刻な問題を、自虐の自発的状況、抹殺の機運の外部からの主観への働きかけだと規定するアドルノは、ジャズをそれを幇助する「時間のない流行」、野蛮な現代社会における退行的な文化の象徴だとして、ジャズの本性を暴露する。

本論においてアドルノは、いわゆる「サド・マゾ的傾向」を足がかりして、ジャズの真意を暴露する。現代人は自らのサド・マゾ的気質を脱個人化の様相としてジャズの中に発見する。アドルノが参照するサド・マゾヒズムはフロイトの用語によるもので、父親像への反抗とは裏腹に、それへの敬意を示すような態度のことであり、アドルノはそれを本心の裏切りと既存の従属関係の温存として象徴的に用いている。

ファシズムの内部において、とりわけ有効に機能したのがサド・マゾヒズムだったのだが、大衆文化の内部にはそれと同様の諸傾向が存在する。ファシズムとは多分に心理的なものであり、その策定はそれを邁進する何者かの欲求にしたがって心理学的に遂行される。現代社会においてそれを引き継ぐのが資本であり、資本は新たに君臨する支配的イデオロギーとして、抽象的な社会の心理学的気質を下地に、社会が擁する大衆文化を通じて、サド・マゾヒズムを助長する。アドルノはジャズを、そうした社会の傷痕をとりわけ顕著に内包する欺瞞に満ちた大衆文化の代表、「去勢の象徴的表現の機械的再生産」を露にする大衆文化の象徴であると位置づける。ジャズはファシズムの代弁者として、挑発的な音列の裏側で自らを規格化しながら媒体の硬直化を推し進め、サド・マゾ的に支配者への服従を宣言する。

尽きることのない逸脱と過剰によって、媒体の自由な発展を演奏の中に示現する。それがジャズの約束だが、その約束は内部に仕組まれた各部の組み換え可能性や、後進的な拍子に記されるジャズの無時間性によって結局反故にされてしまう。ジャズの特徴的なシンコペーションは、社会の抑圧力の表象として、また自由を標榜するという即興演奏は、支配的なスタイルの内側にとどまる偶然性の範囲内での無為な反復というその本性をもって、ファシスト的な潜勢力を強化する。ジャズの反復は、過去を新たなものだと見せかけるための偽装として、永遠の反復を目論む社会に迎合する。ジャズの真実の姿はまさに絶望的で、抵抗の非在の証に他ならない。

ジャズは文化産業の精髄、抵抗の非在の証として社会に君臨する。だがその図式こそが、愛好家の熱狂と、愛好家同志の密接なつながりを助長する。ジャズとの邂逅を歓迎するジャズの愛好家とは、まさしく現代の制度によって去勢された人間の典型である。彼らは自らの行いを通じて、願望を実現するために願望を諦めるというサド・マゾ的な自虐行為を望ましい社会的行動としてとらえるその姿を、ジャズの中に示現する。そのような大衆自らによる去勢の肯定が、「退行的契機の機械的再生」によって、主体の心理の奥底に無味な現実世界に対する承認を取り付けるというジャズの威力を増大させ、目的の達成を確約する。

文化産業の使命として、ジャズはそれ自身の大衆的性格を再生産することで、美的昇華と社会的適応との間の妥協点を、大衆自らに探らせようと画策する。ジャズは自らの非合理性を隠蔽しつつ、フロイト的な去勢不安を強調し、自我にその成熟への虚偽の可能性を得心させようとする現代社会のイデオロギーとして、大衆の去勢を目論む現代社会の願望をまさに象徴する媒体だ。

絶望的なジャズではあるが、あるものは芸術音楽へと接近することで、それからの回避を画策する。ジャズはその実践において、作曲、素材、奏法等、そのすべてを網羅しつつ、芸術への接近を試みる。アドルノはジャズの芸術化の試みを否定するが、その理由にはジャズの回復不能な素性に加えて、彼が抱く芸術そのものに対する危機感が含まれる。ジャズとは芸術が原理的に反抗する対象の一部分の顕現である。その事実はジャズを「芸術の間違った清算」という言葉に置き換えさせ、その力を「見えないユートピアの実現」という、虚偽を提供する娯楽の領域の範囲内に押し込める。隅々にまで文化産業に侵食された現代においては、芸術音楽ですら実際には自らの地位を保つためにその自律性を犠牲にし、世俗の支配に身を任せることを容認せざるを得ない状況に直面しているのであり、結局ジャズに逃げ道はない。

アドルノはこのジャズ論、「時間のない流行」を、1938年に発表した論文、「音楽における物神的性格と聴取の退化」を補完するものだと考えていたようだ。論文は、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin、1892 - 1940)の、「複製技術時代の芸術」への返答として書かれたもので、アドルノはそこでベンヤミンの大衆芸術に対する意識を批判した。

ベンヤミンはその論文で、複製技術の発達によって芸術からオーラが失われ、その価値を保証してきた一回性や礼拝的価値が崩壊する過程を描いている。彼はその過程の顕著な例として映画をとりあげ、大衆的性質を内包するその媒体に、次代の芸術の理想の姿を見ようとする。映画は、演劇において温存されている礼拝的価値、芸術性を担保する役者のオーラや演技の一回性を、編集過程において消滅させると同時に、観賞における精神集中の欠落を許容することで、作品の所有者を作り手から受け手へと譲り渡す。そこにベンヤミンはファシズムの耽美主義に対抗する「芸術の政治主義」を実現する大衆芸術の本領を見て取った。それに対してアドルノは、大衆芸術における放漫とそれがもたらす快楽を、マゾヒスティックな大衆をモノマニアックなイデオロギーで翻弄する支配者の真理の投影であるとして一蹴するのだが、その様子をこのジャズ論はより鮮烈に描き出す。

参考文献
時間のない流行(プリズメン所収):テオドール W. アドルノ、渡辺祐邦・三原音平(訳)、ちくま学芸文庫、1996
啓蒙の弁証法:マックス・ホルクハイマー・テオドール W. アドルノ、徳永恂(訳)、岩波文庫、2007
アドルノ:マーティン・ジェイ、木田元・村岡晋一(訳)、平凡社、1992
複製技術時代の芸術:ヴァルター・ベンヤミン、佐々木基一(訳)、晶文社、1970

アドルノプリズメン啓蒙の弁証法アドルノ(マーティン・ジェイ)

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