Ingrid Monson、コミュニティーとしてのジャズ

ジャズはバックが放つリズムと、そのうえに演じられる即興のソロとで構成される音楽である。ソロは各奏者同士によるインタープレーとして交互に繰り替えされ、それぞれに演奏のクライマックスが演出される。リズムがジャズのゲシュタルトを構築しつつ、その空間にソリストが入れ替わり立ち現れるのがジャズの典型的なパターンであり、すべてのジャズに共通する演奏スタイルである。

自身演奏家でもあったアメリカの音楽学者Ingrid T. Monson(1955 -)は、このようなジャズ演奏をある種のコミュニティーだと解釈し、ジャズを多面的に分析する。Monsonは、本質主義的な音楽のあり方やそれを支える文化の単一的な見方に対して、懐疑的な姿勢を示す学者である。そこで彼女は、ローカルな文化、覇権的な高等文化、世界共通の文化、個人的な要素等を相同的に扱わず、それらの境界を揺さぶるような、各分野の交差に主眼を置いた分析法を選択する。相同的な見方はジャズのような相互文化的な行為においては不適格で、ジャズの議論において何かに固執するのは適切ではない。

分析において、Monsonがとりわけ注目するのが、即興演奏に内在するイロニーである。即興演奏における白人のスタンダードソングのアレンジ、作曲やソロ演奏における注釈行為、よく知られる各種の黒人音楽に対する滑稽な属性の強調等、イロニーはどこにでも存在するのだが、それを分析することで、断片的な音楽のディテールに埋め込まれた複雑な文化的構成が顕在化する。即興演奏には音楽的、文化的、社会的、政治的な文言が含まれており、演奏者と聴衆への意味の明確化、伝達、そして受領の痕跡が、イロニーに刻み込まれている。ジャズの即興演奏は、演奏家がその伝達プロセスにおいて選択的に用いる社会的アクションの様式であると理解できる。したがって、その音楽表現に潜む異種混交性と、黒人(アフリカ系米国人)の音楽コミュニティーにおける文化的同一性の中に潜む異種混交性との間の連続性、密接な関係の解明が必要になる。

以下はMonsonの論文からの抜粋だが、直訳とはせず、読みやすいように要約した。

ジャズの世界においては、高等文化と黒人のコミュニティーにおいて象徴的な役割を持つサブカルチャーとの間にある既存の音楽的関係が転倒されるのだが、その転倒が、分析において重要な意味を持つ。ジャズ奏者は、彼らを無教養、本能、非言語的、インモラルというような形容詞で修飾する白人の文献が示してきた見方を受け入れない。そのような論説は、ジャズを野蛮との関係から論じ、伝承されてきたアフリカ文化との比較において結論を導き出そうとする。加えて、ジャズを低い階級の生活や神秘的なサブカルチャーと比べることで、彼らの文化的生活の姿を歪曲する。彼らは、純粋で、感情的で、直截的な高貴な野蛮人(noble savage)として登場する演奏家の姿を、未開主義者による神話が作る人格だとして否定する。ジャズは標準的な中流白人の文化に対する降伏などではなく、黒人の主張なのであり、彼らの意識は自身の歴史に加えて、西洋的な社会文化的象徴を会得した進歩的な感覚によって支えられている。実際に黒人は既に中流的な環境に置かれており、都会に付きものの貧しさとは縁遠い存在である。

ジャズを支えているのは、そのような実状から生み出される二重の意識である。ジャズは切り離すことができない二つの異なる世界を内包し、その明瞭に分離されてはいるものの、絡み合う二つの世界のイメージは、アメリカにおけるヨーロッパ人とアフリカ人の出会いを象徴する。出会いは黒人対白人の構図の中にある部分的なオーバーラップとして、単純な黒と白との対立の構図とは異なる複合的な声、二重の意識を表象する。ジャズはコラージュ的な様相を示す音楽で、無数の固有の同一性(アイデンティティ)が帰する、二重の意識の上に成立する論理的空間なのである。二重の意識とは社会的同一性が構築される場を意味するが、従来の相同的な文化の策定においては、そのような同一性における複合性は学術的に十分に他者的ではなく、また、音楽学においては他者的に過ぎるものだった。そのような中間的な位置づけとその結果による疎遠化が、黒人の音楽と文化の重要性を覆い隠してきたのである。

黒人の言葉で書かれた文学では、その言語に内包される二重の声の仕業によって、本流の文学にある既存の文学的、言語的な様相が逆転する。そのような文学では、変容、つまり正統性の改訂と間テクスト性が常に意識されている。そこで重要な意味を持つのが反復で、それにはパロディーとの関連性が指摘される。パロディーとはイロニカルな(反語的な)文脈化や倒置のことで、反復には差異が含まれる。元のテクストとそのパロディとの間にある批評的距離がイロニーとして理解されるのだが、それは遊戯的であると同時に卑下的、建設的であると同時に破壊的な性質を示す。両者はユーモアとして受容され、その度合いは、誇張された親近感とその逆との間の距離と、読者がすでに持つ原本への信頼度に比例する。イロニーが示す表象は、ふたつの散漫な白さと黒さが示す表現を、具象的な方法で安定させる。白人の散漫な世界の言語の語法の、黒人の散漫な世界の表現的様式への転換は、そのような差異を伴う反復の基礎であり、黒人が具象的表現形式を用いて行うすべての変換を象徴する。そのような文学の場における反転、矛盾、意味の再考はまさにイロニーの典型であり、行われる反復と逆転は、距離と間テクスト的な誇張という、イロニーにおける重要な変容を代表する。

イロニーの骨子は本質と前衛、二つの相反する美学的な均衡のもとにあり、また、そのようなイロニーはあちこちに存在する。それは、美と醜、規律とその破壊、黒人の心中にある二つの衝動の間に位置するある種の駆け引きとして、また、受け入れ可能な枠の外側に位置する彼らの立ち位置の発見としても理解される。それは、彼らに与えられた社会的地位の反映として、社会に正式に受け入れられない彼らに社会が与える距離の明証でもある。

そのような文学の場におけるイロニーと比較して、ジャズ音楽の底部に流れるそれは、より複雑な様相を示すものだ(*)。ジャズにおけるイロニーの実践とは、黒い顔をした吟遊詩人が、彼ら自らを風刺する踊りを風刺するというようなもので、ジャズにおいては、異文化的なものと単一文化的なイロニーとが交差する。前者におけるイロニーは、西欧のポピュラー音楽の即興演奏や、それ自体がイロニー的なスタイルをもつ現代音楽を主題とするもの、そして後者におけるそれは、ジャズの伝統的なスタイルを滑稽に参照するものとして例示されるのだが、それらはすべてイロニーの実践としてジャズの即興演奏に深く関わっている。黒人の音楽におけるイロニーは、彼らのアメリカ社会における位置を音楽的に再現し、即興演奏を行う奏者が世界の見方、同一性、美学を音楽的リソースの操作によって明瞭に表現する方法の証として、また、文化的に重要な事柄のシグナルだとして理解される。

ジャズの即興演奏のような言葉のない器楽曲においても、種々の文化的に特化された意味と同様にイロニーが伝達される。イロニー的な差異は、音楽的参照を用いるジャズの演奏において、むしろ強調される。言葉を使わない聴覚的なリファレンス、器楽的な手法による伝達は、音楽における間テクスト的な側面としてとらえられ、間音楽的な関係として読み替えられる。読み替えは、音それ自体を通じて引き起こされる伝達の過程を強調する。特定の曲のメロディの利用、音色の放散、悦楽の表現によって形成されるのがジャズである。レパートリーの内外からの素材の取り込みという参照行為が聴者との結び付きを確立し、彼らをコミュニティー(演奏者と観衆を含む)に融合させる。参照行為は、音楽的知識のある演奏者と観衆との反応の間にまたがる間音楽(間テクスト)的な連携を顕著に差し示す。理論的には、コミュニティーのメンバーである解釈者がその継続性を認める限り、ほとんど全ての音楽的細部や合成から何らかの参照が伝達されるのだが、そこで重要なことは、演奏者と解釈者が共有する文脈のその音の細部には、社会的に意味がある何かが潜んでいるということである。

ジャズの即興演奏における参照は、パース(Charles Sanders Peirce、1839 - 1914)の記号論における三分法のうちのインデクスとアイコンに習って説明される。各パッセージはインデクスと同時にアイコンとしても伝達され、それが過去と現在の演奏の関係の中で、そこに潜む社会文化的知識を認識させる。参照した音楽の詳細がインデクスとして他の演奏を示唆することで、両者は社会的な相互作用として音楽的な対話の中に並置される。それと同時に、アイコンとしての類似または反射効果によって、インデクスは原曲と演奏、その両者の意味を中間的に差し示す。参照で重要なことは、アイコンとしての瞬間が単純な類似ではなく、すでに類似したものの更なる類似を示しているということだ。即興演奏が行うある曲の変換においては、原曲と演奏二つのヴァージョンとの間の類似と、その奏者のバージョンとの差異とが同時に伝達される。そのように、即興のイロニーには、二重の差異を伴う反復が含まれている。

ジャズ演奏という音楽的会話における言語の交換プロセスは、まずグループのある一人があるアイデアの全体かその開始部分を述べ、次に他の一人がそのアイデアを受け取り、その聴取の感想を反映させつつ、それと同じアイデアに基づく解釈を発展させるという順序で繰り返される。したがって、その会話は断片の中に開始され、それへの反応としての異なる部分、異なる声で合成されたものとなるのだが、交換においては、間音楽性に関わるいくつかの条件が示唆される。非言語的な器楽曲として、ジャズにおいては、原曲の歌詞もジャズのリズムへと変換されるのだが、そこで成立する音楽的な関係は器楽的なものである。ジャズの伝達形態において共有されるものは、言語のように正確かつ明白なものである必要はない。他の奏者のアイデアを拾う、他の奏者が先導しようとしていることを予測可能にする、ある奏者が発展するアイデアを共に演奏する、そのようなプロセスとは、同じものを同じように演奏する能力に支えられたマジカルで錬金術的なものである。ジャズの演奏においては、同じフレーズを同時に思考すること、他の演奏家の演奏法の熟知を通じて先を予見することが重要で、各奏者には音楽的イベントのふくらみを、それがはじまる前に理解することが求められる。

そのようなジャズ演奏における連携、音楽的な伝達プロセスは、理論と実践両方における間音楽性の骨子を示している。リズム、メロディ、ハーモニー、構造、身振りというような隣接する要素の認識が、バンド各奏者の間における音楽的アイデアの発展という社会的行動の基礎となる。聴覚的な認識とは、連続的な社会化のプロセスを意味しており、それは個々の場合によって異なる各奏者のサウンド世界との重なり具合によって知覚される。そのようなプロセスにしたがう分析は、音楽を自律的な、あるいは具象的な生産物として眺める姿勢を回避する一方、それを議論の場へと差し戻すことを可能にする。その議論においては、音楽的イベントにプロセスとして埋め込まれた歴史が強調される。

西洋の自律的な高等芸術の複製とその具体化を、作品の底部に流れるものだと仮定し、ジャズ音楽を表面的に分析することは、必ずしも間違いではない。だが、それはジャズ奏者が音楽の知識に没頭する行為とは相容れない。黒人のジャズコミュニティーは音楽の表面的な理解を否定するが、多くの意味おいて、それにはイロニーが関与する。音楽イベントを社会的なものだとする見方は、音楽を生産物ではなく、プロセスとして考察させる。演奏を音楽家特有の会話にたとえて分析することは、散漫な会話を単なるテクストとしてではなく、コミュニケーションにおける社会的相互作用のプロセスとして強調する。ジャズコミュニティーの文脈において、黒人の散漫な表象に対する見識を適用すること、それは単なる知的な隠喩の生産を目的とするものではない。

ジャズの即興演奏におけるイロニー、または二重性の概念には、黒人音楽の枠外にある音楽によって描き出される、黒人音楽の美学の主張が記されている。黒人の音楽文化の知識は、黒人と白人の両方の音楽に対する親しみに由来するもので、ジャズの演奏はそのすべての知識をもとにして立ち上がる。黒人の美的スタイルの実践とは、支配的文化が行う人種差別に対する対話的な反応である一方、そこには文化の混合主義的な形態の進化を通じて形成される、成熟した文化を借用する行為が含まれる。ジャズの演奏における音楽的要素の二重性には、黒人の文化体験における二重性との深い関連性が指摘される。ジャズの体験とは、一般に信じられているそれよりも多様なものである。

黒人の真性の同一性は、決して単一的なものではない。その美学は反対側にあるそれをも包含する、二重の意識によって支えられている。各個人は等しく幅広い文化的知識を有し、その知識を選択する姿勢は多様であり、彼らはテクストからテクストへと跳躍する。そこで、ジャズ音楽の何が白で、何が黒かの分類を柱にする研究は無意味になる。どの部分が各美的カテゴリーにおける白や黒に属するのかを検証するかわりに、ジャズ演奏家がどのような方法で異質なものの文化的表現、特有の美学と音楽のイデオロギー的位置の表現に必要な音楽的知識を引き出すのかということが検証される。どのようにして多岐に渡る人種的グループに帰する参加者から、特定の美学的境界を定めるのか。多くのジャズ音楽家に見られる多重的な音楽性=複数の音楽形式を演奏する能力は、文化的同一性の溶解としてではなく、多くの文化的他者と接近する、文化的同一性の重要な構成要素であると判断される。異質な音楽と文化の要素が重なり合うこの美的な体系と価値の体系は、統合され評価されることで、文化の同一性としての分析が可能なレベルに達することができる。

ジャズの即興演奏は、社会的な行為であると同時に象徴的なシステムでもある。奏者は音楽を通じて、感じられる何かと同時に学理やレパートリーを学び、そこで生まれるサウンドそれ自体によって文化的な評論を明確に示す。ジャズの相互作用が生み出す美学は個人よりは大きいが、大枠としての文化と比較すると、全体制に欠ける非歴史的な何かと参加者を結びつけ、力強くエトスを具体化する。即興演奏を行うに際し、奏者はそのレパートリーにあるすべての種類の音楽を借り受け、参照し、変化させ、展開する。奏者は聴衆と他の奏者を、その音楽と社会的知識をもって満足させる。ジャズにとっては音楽それ自体がすべてであり、またそれは、社会的意味の構築という部分においては周縁的なものである。ジャズとは、文化的活動として定義される共有された社会知識と、より伝統的な分析的カテゴリとしての人種、性差、民族性、階級、文化とによって形成される社会的同一性との間における相互作用なのである。

(*)Monsonはそれを説明する理論として、ミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin、1895 - 1975)がドストエフスキーの文学作品を解読する際に用いた「内的対話」を例示する。バフチンが説く内的対話においては、意味は複合的に互いに変化させ、またさせられるのだが、その交換は、意味とその意味を正当化する文化的背景との関係の要求によって可能になる。意味はそのような交換を経て、互いの言説の歴史との関連において、物事が表現される時間的背景の上に構築される。特有の声として発せられる言葉は、一方では統一された中心へと向かい、他方ではそれから遠く離れた場所で理解される。言葉はそのような自己矛盾のうちに引き裂かれるが、その断裂から意味が再構築される。内的対話を支えるのは他者の声=演奏を聴くという行為であり、それが話者と他者との間に展開する、弁証法的定式を繰り返し立ち上げながら、対話を形成する。

参考文献
Doubleness and Jazz Improvisation: Irony, Parody, and Ethnomusicology: Ingrid Monson, Critical Inquiry, Vol. 20, No. 2 (Winter 1994), pp. 283-313
Saying Something: Jazz Improvisation and Interaction: Ingrid Monson, University of Chicago Press, 1997
ドストエフスキーの詩学:ミハイル・バフチン、望月哲男・鈴木淳一(訳)、ちくま学芸書房、1995

Ingrid MonsonSaying Somethingミハイル・バフチンドストエフスキーの詩学

トルド・グスタフセンのジャズ論

トルド・グスタフセン(Tord Gustavsen、1970 -)は、2004年以降トリオロジーとして立て続けに発表したアルバムを通じて幅広く知られるようになった、ノルウェーのジャズピアニストである。彼は学究的思考を持つジャズ演奏家で、独自の概念を「The Dialectical Eroticism of Improvisation(即興演奏の弁証法的エロティシズム)」と題された論文(原文はノルウェー語=Norsk)にまとめている。

グスタフセンは学理的な、あるいは形容詞に頼る安易な音楽分析を否定し、即興演奏をひとつの弁証法的方法として、ジャズ演奏の意味を理論的に解釈する。ジャズの分析は、コード、ノートスケール、モード等、学理的な側面を芸術音楽との比較を通じたもの、あるいは、とりわけ二十世紀後半以降に広がりを見せた、心理学、現象学、社会学、人類学等の成果を取り入れた、文化論的視点を介するものとに分けられる。演奏家として学理に精通しているグスタフセンだが、彼は学理的な分析手法を避け、後者に準じる哲学や社会学の成果を下地にした分析方を選択する。

グスタフセンの論文は大きく二部に分かれている。前半部ではアドリブ奏者(インプロヴァイザー)の視点から、現象学や社会学等いくつかの論説を引用しながら、即興演奏を客観的に見つめなおし、後半部は前半部でまとめた理論を下地に、弁証法的視点からなる独自の理論を完成へと導いてゆく。

グスタフセンはこの論文で、アドリブ奏者が直面する、現状の音楽学では対処しきれない数々の問題を提起する。グスタフセンの言葉によると、その問題とは「冷徹な音楽構造とアドリブ奏者の、それを超えようとする努力や楽曲への傾倒との間に生じる矛盾。瞬間として訪れる演奏の厳しさと、時間の中で構成される多面的な音楽デザインとの間に生ずる軋轢。音楽に対する支配欲と服従との関連。あるいは、演奏中の緊張の中で生じる想像を絶する困難と、それに相反する成長や達成の構造に関する疑問」というもので、いかにも学理的には解析しがたいアポリアである。彼が掲げる理論とは、アドリブ奏者が実際に演奏しているときの「生活世界(Lebenswelt)」に焦点を当てた音楽学、演奏の場における現象学である。彼の「即興の現象学」は、即興演奏それ自体の性質によって喚起される理論であり、弁証法的心理学と、現代の「生の舞台上での」音楽理論とが融合されている。

グスタフセンの論文は弁証法的に展開するが、本文はその序論にあたる前半部の一部分を要約したものである。グスタフセンは前半部で理論全体を構築する際に基準とする分析方法を示し、それを手掛かりに、後半部で自身の理論を展開する。演奏中の演奏者の聴き手としてのあり方、演奏者と演奏の場としての音楽との関連、そして、音楽表現における隠喩の取り扱い。それぞれの場合に応じた分析方法が、この前半部において示されている。

「musical objects」による即興演奏過程の分析

即興演奏の場では、合理的な意思決定プロセスと、演奏家自身のパーソナリティーを露呈する感情的プロセスとが、常に同時に持ち出される。ふたつのプロセスを同時に持ち出すことで、即興演奏における問題は総体化されるが、その総体の検証が、即興演奏の音楽学的解析の第一歩になる。

Pierre Schaeffer(ピエール・シェフェール*)による「musical objects」と「scenic consciousness」の概念、Helm Stierlinの「Conflict and Reconciliation」、Anne-Lise Lovlieの「The Self」で論じられる、自己の環境への直面過程における弁証法的モデルを基にした心理学的関係論の(弁証法的)検証。グスタフセンの理論は、それら諸概念を下地に構築される。中でも、とりわけグスタフセンの概念の基礎部分に深く抵触するのが、シェフェールの「musical objects」と「scenic consciousness」の概念である。シェフェールは聴取体験とそれを基にした分析に焦点を当て、音楽をジャンルにこだわらず、時間の中での音的体験であると規定し、音楽的構成や概念を「いま立ち上がる特性」に従属するものとして、それへの聴覚的なアプローチを主張する。

「musical objects」は、一般に「楽器」と解釈されるが、シェフェールはそれを、体験する範囲内の時間的区切りの中で起こる響きの展開、音が明確化してゆく様子(の一部分)という意味で用いている。「musical objects(複数形)」は、単音から曲全体までの様々なレベルで存在し、また、ある固定化された音楽的要素の全体は、聴き手の意識の中で、「a musical object(単数形)」を形成する。「musical objects(複)」は、それがまさに立ち現れようとする時に出現する特性を聴き手に差し出し、同時に自らを特徴付け、その現象学的輪郭を構築する。

シェフェールは「a musical object(単)」を、音楽全体の中で言語化、あるいは形式化(記号化)し、それを分析結果として、また音楽体験の根拠として応用する。彼は、和声や調性といったものではなく、時間の中での聴き手の音楽体験をもとにそれを分析し、時間の経過と共に進行する視聴経験の象徴的「表現」、基本的情報(事実)としての視覚的、聴覚的な知覚(認識)の並列を強調する。まさに立ち現れんとする時に出現するという「musical objects」の特性を分析することで、音楽分析を、「経験される音」に着目したものへと転換する。そして、そのような分析法が、グスタフセンが提起する現象学の基本的な枠組みを準備する。

一方グスタフセンは、「musical objects」による現象学に潜む、ある矛盾を指摘する。その矛盾とは、それらと聴き手との間の時間差によって生じるもので、実際に「musical objects」は、時間の経過の中から生じるものであるにもかかわらず、自らを安定、固定化された全体としての意識、ゲシュタルトの中に表現する。したがって、聴取行為には、流れの感覚と感覚の組成との間に発生する恒常的な相互作用の中で起こる、変化と固着の間をさまよう部分が含まれることになる。

「musical objects」の構造は、物理的音響が途切れたもの同士の相互作用で成り立っているのだが、一方で聴き手は、全体から部分へと、そしてまた全体へと、常に移動しながら音楽を聴いている。加えて聴き手は、そこから最も興味のある部分を選び出し、そのような断絶を意識の意図的な動きの中で意味のあるものとして受け入れる。なぜそのように聴き、受け入れるのかというと、個々の聴取経験の中で聴き手の内部に新しい何かが生みだされるのは、個々の聴き手が音楽をそれぞれ異なるかたちで体験し、また、その音楽の基底や中心となる部分も、ア・プリオリに与えられているものではないからである。音楽的景観の具現化は聴き手の中で起こるので、分析は聴き手の予測的体験に基づく理論的「真実」をもって、その到達とするのではなく、その意識を音楽的真実の特権的、存在論的領域として尊重しなければならなくなる。

アドリブ奏者を受け手である聴き手へと転化する。それがシェフェールの理論を解く鍵になる。演奏者が自身の音楽的興味とコマーシャリズムとの間の隔たりや、音楽の内部と外部に横たわる非生産的な隔たりといった、解決しづらい問題に直面したときに、自身と他者とを噛み合わせることで、音の風景の開示の可能性が引き出され、そのような問題を、好奇心や創造的な驚きへと変容させることができるのである。

「環境」の設定と基礎的弁証法の確立

グスタフセンは、シェフェールが提唱する「musical objects」を通じた即興演奏過程の分析を踏まえながら、音楽の中でのアドリブ奏者の存在を意識的に強調する必要があると考え、「環境」というテーマを設定する。環境という概念は、即興演奏における基本的な弁証法を図式化する。

即興演奏では、音楽全体に対する直感的把握から始まり、次にそれが細部への集中へと向かい、そしてそれが全体の把握へと向かうという解釈の循環が行われる。グスタフセンはそのような即興演奏の流れを全体論的な概念として模索するために、個人が社会と、社会的な物質世界の交わりとの間に取り結ぶ関係をテコにして、音楽全体を「環境」として捉え直し、その中に存在するアドリブ奏者の状況を、弁証法的プロセスの内部に再構築しようと試みる。そこで彼が参照するのが、ピーター・バーガー(Peter L. Berger、1929 -)とトーマス・ルックマン(Thomas Luckman、1927 -)の共著による、「現実の社会的構成(The Social Construction of Reality)」という、社会学分野ではよく知られたテクストである。

バーガー / ルックマンの理論によると、体系、物事の名称や行動の可能性は、世界が個人を具体化し、その世界は個人によって具体化されるという、弁証法的プロセスの中において、そのすべてが個人に強いられ、維持され、発展する。グスタフセンは、そのような常態的に行われる個人の具体化と抽象化という基本的プロセスを、アドリブ奏者が音楽世界へと進入して行く状況に合致させる。演奏の世界を顧みると、一度行った演奏は二度と取り消すことは出来ず、その場に存在し続けるのだが、その音世界は、極めて柔軟性に富んだ異なる解釈、強調、選択、対比へと開かれている。そうした図式のもと、アドリブ奏者は意図的に遂行されるプロセスの中で世界を創造し、音楽の知覚を通じた増幅や発展を可能にさせてゆく。

バーガー / ルックマンは慣習化と制度化(定義、役割や基準)という観点から議論を進めている。慣習化と制度化は「無」の状態から立ち上がる。

慣習化された行動の背景にあるものが物事を熟考し、それを革新するための前景を用意する。関連性のある一連の行動の帰結として、または一連の意味の付与によって、行動は慣習化される。行動は慣習化されることで、客観性を獲得する。行動は意味の客観的世界へと突入し、その方向性を決定し、位置を定め、個の生命維持活動に必要な潜在能力を獲得する。

制度はその内面化において、個とその行動を具体化する客観的現実だと定義されるのだが、制度は同時に外面化(外化過程)の中で、それを現実のものとし、維持し、変化させ、再創造させる機能も併せ持つ。外面化と客観化は、連続的に行われる弁証法的過程の瞬間の内に行われるのだが、その第三の過程といえるものが、客観化された社会が意識へと再注入されることで生ずる内面化である。それが「社会は人によって作られ、社会は客観的な現実であり、人は社会による産物である」という一節に要約される、バーガー / ルックマンの弁証法的プロセスである。

グスタフセンは音楽創造の場、即興演奏の分析に、そのプロセスを応用するのだが、応用にあたり、彼は鳴り響く音楽は演奏家の生産物であり、音楽の創造とは演奏家の外面化であると前提する。今生み出され鳴り響く音楽は客観的現実であり、また、その音楽の構成要素は客観的存在であり、そこで演奏家は音楽の生産物となる。音楽の内にある演奏家の存在が、音風景から寄せられる形式と要素とによって、その意識を具体化する。知覚による演奏家の具体化そのものは、選択、統合、強調段階での活発なプロセスの中にあるので、その循環は演奏家が音楽を創造しているその場へとすでに回帰していることになる。

そのような循環プロセスが即興演奏の最も基本的な弁証法を形成し、音楽経験の意味を表象する。演奏中にそれを熟考することで、アドリブ奏者の前に多くの新しい音楽的アイデア、刺激的な瞬間、音楽的反動が自然に立ち現れてくる。

即興演奏家は、演奏の戦略的な発展を促す連続的なプロセスの中で絶えず選択に迫られつつ、同時にそこで実現されるサウンドから休みなくその反応を受け取っている。そして反応が、次の行動を想起させるための道筋と要件を提供し、サウンドの表現を深め洗練する。そのようなプロセスが、「即興演奏家は連続的に音楽をかたち付け、また同時に音楽によってかたち作られながら、原曲と演奏された音楽の結果として、彼の内的な音楽風景が現れる」という、即興的な音楽創造の基本的弁証法を形成する。

音楽を表現可能にする精神的、身体的能力とそこから鳴り響く音楽は、相互的に作用し合いながら進行する。そこで必要とされる演奏行為における確信と創意、音楽を享受する率直さと謙虚さと、そうした相互作用との合体が、「表現し表現される」という即興による音楽創造の基本的弁証法の基礎となる。

隠喩の多元的な割り当て

分類、記譜、説明等、ありとあらゆる場面において、音楽は決して言葉に当てはまるものではなく、その表現には隠喩が不可欠である。例えば、ジャズではよく「物語」という隠喩を割り当てて、即興演奏を物語の展開であるとみなし、音楽の「語」や「文章」、あるいは演奏家の「語彙」に焦点を当てようとする。だがそのような方法は、即興演奏の「意味論」の探求には役立たない。その種の探求に際しては、隠喩の多元主義的な注意深い取扱いが必要で、そうした注意深さが、人文主義的研究の基盤を失わせることなく、広い創造的展望や知覚領域の拡大に寄与する環境を準備する手助けをする。グスタフセンは、Rolf Inge Godoyの助言を参照し、隠喩とその問題を扱う際に生じる多元性を、ミクロとマクロレベルでの連続的な切り替えや、異なる焦点の間での起伏の激しい切り替えによって問題を「解決」へと導かせる多元性、あるいは、その中に現れる種々の「側面」という意味での多元性として捉え直し、彼が提唱する即興による音楽創造の基本的弁証法に関わる問題を解決するための糸口として応用する。

(*)ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer、1910 - 1995)は、ピエール・アンリ(Pierre Henry、 1929 -)とのコラボレーションによる「concrete music」で有名な、現代音楽のパイオニアの一人である。「concrete music」とは1940から1960年代にかけて行われた、現在のサンプリング音楽の前身にあたるもので、自然界に存在する様々な音素材の合成による音のコラージュである。彼らのサウンドにはライヒやライリー等、後にミニマルと名付けられる音楽の萌芽が聴き取れる。

トルド・グスタフセン・トリオ(Tord Gustavsen Trio)
Tord Gustavsen(Piano)、Harald Johnsen(Bass)、Jarle Vespestad(Drums)

Tord Gustavsen TrioThe Social Construction of Reality現実の社会的構成

ジャズの現象学的解読

バロック音楽は、合理主義的な思想を背景に、対象を模倣する、現実的、技術的な要素に強く傾斜する音楽形態を模索した。一方、次世代の古典派やロマン派の音楽は、非合理的な感情や直感を尊重し、それらを類型化し難い主観的、内面的表現として主題化した。両者には隔たりがあるものの、ヘルダー‎(Johann Gottfried Herder、1744 - 1803)の言う、「模倣する対象をもたない創造的理念そのもの」として、理念を形而上学的普遍の中から立ち上げ、それを音楽のかたちにするという点においては合致する。

異なる理念に支配された両時代だが、共通して用いられた形象化のための音楽手段が、器楽曲である。とりわけ十九世期後半以降、抽象的度合いが高い器楽曲は、ハンスリック(Eduard Hanslick、1825 - 1904)等が唱えた形式主義をはじめとする音楽論にも支えられ、やがて単なる感情表現のためのツールという地位からも脱出し、音楽美を追求するための、あるいは批評的役割を担うツールとして発展した。

器楽曲として、ジャズも同様に理念を表象する。だがその理念とは、大衆音楽としての出自や即興に傾斜した表現法に影響された、多分に感情的で直感的な理念である。ジャズは過剰な修飾、形容詞(様式や解釈)を許容し、むしろそれを強調する音楽で、過剰の中に音楽美と悦楽を追求する。

ジャズの解釈においては、とりわけその出自に着目し、その先天的な過剰を考慮しつつ、社会学的に論じる場合が少なくない。だが、それとは別に、ジャズ特有の即興という演奏の場における交歓を、現象学的概念を通じて解析する試みが存在する。その試みへと至る前に、音楽における悦楽とは何かを把握しておくのも一案だ。構造主義的な概念、とりわけロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)が提起する概念においては、音楽をテクストであると前提し、その構成要素を物質的な観点から読み替えることで、音楽における悦楽の性質が描き出されている。

意味の透明性を失い、物質的に体現される音響は、言葉では語り得ないものである。音の物質性への目覚めとして、バルトは、歌を生み出す演奏者の肉体の物質性に着目し、それを声の「粒=Grain」と呼ぶ。声の粒とは「音色と言語活動のエロティックな混合物」という、肉体や舌の文節として、喉のあるいは楽器の奥底から発せられる音響のことである。

声の粒は、隠喩としての役割が与えられた「声をあげるエクリチュール」として、主観的な歴史や文化といった概念を覆す新たな意味を産出する。その「声をあげるエクリチュール」が聴者に受け渡すのが悦楽だ。悦楽とは、劇的な感動や明快なメッセージといった物語的なものではなく、個々の瞬間にまとわり付く「衝動的な偶発事」と表現されるものである。様式や解釈は興奮をそぎ落とす。そこで、それらを除外して、「衝動的な偶発事」のうちに、聴き手へと投げ込まれる(無名の)演奏者の身体的、物質的なイメージを直に享受することで、音楽から遊戯的な悦楽が導き出されてくるのである。

次に、そのような悦楽が伝達される演奏の場へと視点を移す。ジャズ特有の即興による演奏の場においては、奏者が聴き手となり、聴き手が奏者となる、交歓の過程が立ち上がる。悦楽は、偶発的な演奏の場において交歓され、奏者と聴者という他者の関係の中で結実する。ミケル・デュフレンヌ(Mikel Dufrenne、1910 - 1995)は、そのような交歓をエロティックな交歓と呼び、その瞬間を「反響しあう」という言葉で表現する。彼はメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の言葉を引用し、現象学的な語りを通じて、演奏者と聴取者をまとめて「音を出す同一の肉」であると定義する。

聴者が演奏者の発する言葉を、同時にそれ自身の内部に生まれたものだと感じることで、言葉が両者の共有物へと変貌し、両者による「同一の可聴性」が実現される。演奏の場ではそのような相互性が他者同士の身体を一体化し、そこに音楽におけるエロティックな交歓が実現される。デュフレンヌは音楽の聴取を、他者同士の交歓の中で巻き起こる、言葉を伴わない互いの内在化であると解釈し、言葉によって表現を外在化するような形容詞、エクリチュールを否定する。メルロ=ポンティの哲学は、「語りえないものを語ろうとする」のだが、デュフレンヌはその語りえぬものを、互いに内在化する「音楽的身体」の内部に芽生える隠喩として、それがもたらさす語りえぬ言葉、「愛する他者のイメージ」であると規定する。

参考文献
Image Music Text: Roland Barthes, Stephen Heath (Trans.), Fontana Press, 1977
テクストの快楽:ロラン・バルト、沢崎浩平(訳)、みすず書房、1995
眼と耳:ミケル・デュフレンヌ、棧優(訳)、みすず書房、1995

ロラン・バルトメルロ=ポンティImage Music Textテクストの快楽眼と耳

ハンスリックの音楽美論

エドゥアルト・ハンスリック(Eduard Hanslick、1825 - 1904)の「音楽美論」は、現在では定石となった形式主義や純粋性という芸術の根幹にかかわる議論の原点のひとつに数えられる芸術論である。本書が出版された当時の西欧とは、芸術におけるモダニティーが確立されはじめ、唯物論的歴史観が萌芽の時期を迎えた頃で、未だ精神分析すら存在しなかった。そのような時代状況の中、ハンスリックは新たな理論として登場してきた形式主義を擁護する。本書には時代特有の矛盾や感情的な表現も見られるが、現在へと繋がる形式主義的芸術論の原点として、一定の価値を保っている。

「音楽美論」の初版は1854年に出版された。十九世紀半ばといえばイギリスで起こった産業革命からすでに百年近くが経過し、西欧の階級制度や消費社会が社会に定着した頃で、文学界ではロマン主義から自然主義への移行が、美術界ではロマン主義的なサロン芸術からの脱却が模索されたはじめた時期である。比較的短命に終わった文学や美術におけるロマン主義とは異なり、音楽のそれは約一世紀の間、世紀をまたいで継続したが、社会の変化を反映しつつ、その頃から後期と分類される時期へと移行した。

後期ロマン主義音楽では、それまでの感情表現を主体とする音楽美学を引き継ぎながらも、規模の拡大、劇化、標題化をして、それまでとは一線を画する表情を音楽に付け加えようする動きが顕著になる。リヒャルト・ワグナーやフランツ・リストの作品に代表される、感情的表現の誇張、音楽とテキストのヒエラルキーの逆転、そして題材の音楽外部への依存といった後期ロマン主義音楽のあり方に対して、それを音楽の純粋性にかかわる問題として疑問を投げかけたのが、形式主義的音楽論である。十九世紀の半ばとは、それまでの観念論や形而上学から派生した音楽論から距離を置く新たな音楽学が確立の時を迎えはじめた時期でもある。その新しい理論的枠組みの中で、そのような音楽の変化に異議を唱えたのがハンスリックで、彼は音楽芸術の自立性を強調する音楽美学として、形式主義の一翼を担うことになる。

バロック時代の非類形的な情緒の表現としての模倣音楽から抜け出し、音楽に主観的、内面的感情表現を求めたのが古典的音楽観である。次世代のロマン主義的音楽観はそれを引き継ぎながらも、観念論的思想を基に感情表現を重視した音楽を展開し、それを発展しようと試みた。文学のロマン主義が自然主義へと変遷したように、そうした音楽観も時代の進行に伴い実証主義的なものへと変化してゆくが、その流れの中で生まれたのが形式主義的音楽観である。ハンスリックは音楽における不要な感情の高揚や標題音楽を否定し、音楽の純粋性を中核に据える絶対音楽を示唆し賞賛した。音楽の美は、感情表現の内部に潜むのではなく、形式の中に存在するのだと彼は説く。

ハンスリックが主張する自律的音楽美学の条件は、各芸術媒体に固有の特性に由来する。文学、詩、美術等、各芸術は、それぞれに固有の技術的な諸条件に応じて受容される。各芸術が固有の素材を用いて表現するイデーは、個々の芸術特有のものであり、作者が置かれる境遇や状況も作品からは切り離される。音楽作品の美は音楽として特殊な存在で、その美は音楽にとって異質な思想範囲になんら関係なく、音の結合のみに内在する。ハンスリックの考えを最も端的に示すのは、特に古典派時代以降、音楽表現の中心的な存在として興隆を高めてきた器楽曲である。彼は詩による侵食もなく、音楽自体の特性が顕著にあらわれる器楽曲を、最も純粋で絶対的な音楽であると位置づけた。

ハンスリックは、音楽を感情表現媒体として扱い、文学的表現の付与をも肯定するロマン主義的音楽観に対し、音楽の純粋性を掲げて反論する。だが、彼の感情表現の否定は、学問への感情の不当な侵入に対する抗議なのであり、音楽から聴き取れる感情表現のすべてが否定されているわけではない。彼の理論は激しい感情をむやみに惹起しようとする、不必要に劇的な音楽形式に対する反論であり、個々の楽曲そのものというより、その背景にある思想へと矛先が向けられている。それまでの音楽美学は、音楽美の基準を設定することもなく、音楽が示す聴き手を圧倒するような感情の描写力を、ただひたすら賞揚した。そのような行為が美の哲学を感覚に従属させることになり、音楽の哲学にさえ感傷的性格を帯びさせることにもなったのだと彼は主張する。

もしもハンスリックの論点に多少の多義性が感じられるとするならば、それは彼のそうした感情に対する曖昧とも受け取られかねない表現によるものだ。ハンスリックは体験にもとづき、音の強弱やリズムの変化、種々の楽器の用法等による、音楽における情景描写の可能性を、ある程度は認めている。彼が否定するのは、当時のロマン主義的解釈が主張するような、音楽による具体的な感情表現である。音楽には具体的な表現を行う術はなく、その表現は実際には聴き手の心の内にゆだねられたものにしか過ぎないのだと、ハンスリックは主張する。音楽は外的現象を模倣することはできるが、それによって惹起されるであろう特定の感情を模倣することはできない。音楽には具体的な感情を表現する能力はなく、それが描くのは単なる類推的な聴覚現象なのであり(p.59)、仮に可能であるとしても、それは不定の感情の喚起と表現とに限られる。もし音楽に個別の感情表現が出来るのならば、音楽がある感情的状況を引き出す単なる手段として、単に付随的、装飾的に利用されるようになり、純粋芸術としての作用を中止することになるだろう(p.154)。

ハンスリックはそのような主張を下地に、音楽の美の性質を、特殊音楽的な美であると規定する。音楽はそれ自体として独立しており、その美の構築にあたっては、外部から挿入される内容を一切必要としない。美は音の芸術的結合の中にのみ存在し、したがって、音は聴き手の精神的観照の前に自由な形象をもって顕現し、美として人を魅了する。他の芸術形式においては叙述と解されるものでも、音楽においては比喩=メタファーとなり、音楽は音楽そのものとして理解され、それ自身の内部で享受される。音楽の美が表現するのは旋律、和声そしてリズムといった音素材で構築され、それ自体を目的とする、自立的な美としての音楽的イデーである。ハンスリックはそうした純粋な形式に基づく音楽の内容を「響きつつ動く形式」と規定する。芸術家の創造力の中に芽生えたイデーを、外的現象にもたらすことが芸術の目標であるとするならば、それは音楽においては音自体に則したものであり、外部から侵入する音に翻訳されるべきものではない。「響きつつ動く形式」。この表現には、彼の音楽に対する見方が集約されている。

ハンスリックは彼の形式主義的音楽観を通じて、感傷的な音楽聴取に対する警鐘も行っている。彼は後期ロマン主義的な音楽の過度の音響効果による肥大化や標題化には徹底的に抵抗したが、聴者は音響を作用として捉えるので、音楽が肥大化すればするほど、それを成功した重要な作品として受け入れる傾向がある。聴者がその種の音楽から強圧的な印象を受ける状態というのは、聴者の側に強い肉体的興奮が混入しているということに他ならず、それは音楽を聴くというよりも、感じている状況に等しく、音楽を生産されつつあるものとしてではなく、生産物として捉える行為である。音楽の美的享受とは、作品の種類や理解の度合いにかかわらず、作品をそれ自身のために聴くという自立的態度であり(p.154)、音楽を原因や結果的作用として捉えようとする行為ではない。絵画や詩を前にする鑑賞者とは異なり、音楽作品の聴者は、音楽を総体的な作品としてではなく、つぎつぎに生産される音として、個々の音それ自体を感じ取るのである(p.120)。

音楽が詩や絵画とは異なるかたちで享受されるように、本来両者の自然に対する模倣関係には大きな隔たりが存在する。自然との模倣関係に支配される詩や絵画とは異なり、外部から混入する題材を持たない音楽は、自然との間の模倣関係が存立しない。また、そもそも自然界にはリズム以外の要素である旋律や和声が存在せず、音楽が自然の表象に依存することはない。音楽は自然の中に対象となる素材を持たないので、詩や絵画のように、そこから模倣された自然美をその中に発見することはない。音楽のイデー(内容)とは自然からかけ離れた音そのものであり、個々の音が作品の一部として結合され、音楽全体が形成される(一部、p.177)。

芸術作品からその内容が読み取れるということは、その形式に対しての、何らかの内容が存在するはずである(p.182)。内容と形式の両概念は互いに制約し補完し合うが、形式が内容から分離しがたい場合には、内容は存在しなくなる。音楽と自然との疎遠な関係からも示唆されるように、音楽においては内容と形式、素材と形成、形相とイデーが不分離に一体化しているが、そのことが音楽を異なる芸術として、詩や美術から分離させる理由のひとつになっている。

音楽は外部からの内容への添加を否定する。音楽は常に自立的な内容表現にのみ支えられ、題材を自然や外部から得ることはない。ハンスリックは、そのような性質を持つ音楽の思考単位、音楽において自立的で、美的にはもはや分割し得ないような思考単位を、主題(テーマ)であると定義する。音楽上のすべての諸規定はその主題の中に明示し得るものでなければならず、その内容はすでに形式化された音それ自体であり、その形式も音自体として、充実された形式でなければならない(p.183)。音楽の形式美とは無対象的である。しかしそのことが、決して作品固有の個性の獲得を妨げることはない。自立的な音楽思考として、主題の発案そのものが作品の個性となり、作品に投影されるからである。

ハンスリックが形式主義的音楽論を通じて実際に対峙したのは、リヒャルト・ワグナーをはじめとする当時の先鋭的な音楽家による作品群で、そのひとつにフランツ・リストが確立した標題音楽(シンフォニックポエム)がある。リストはそれまでの四楽章を主体としたソナタによる書体から離れ、文学テクストを題材とし、そこに想像と感情を巧みに織り合わせることで、具体的な情景や風景の雰囲気を音楽を通して描き出そうと試みた。外部に素材を求め、付随的なアイデアを惹起するリストの音楽は、ハンスリックが掲げる音楽観のまさに対極に位置するもので、彼は「ベルリオーズやリストが詩や題名や体験以上のものを持ちうると考えたならそれは自己欺瞞である。(p.93)」という言葉のもとに、それを一蹴した。言うまでもなく、詩を音楽の上位に位置づけ、無限旋律のような劇的手法でいたづらに聴き手の感情を高揚するワグナーの目論みにも、ハンスリックは対峙する。

当時の状況を歴史的見識を通じて俯瞰できる現在から眺めると、ハンスリックが理想とした形式主義を真に体現するような音楽は、彼の同時代の作品の中には見当たらなかったとも言えるだろう。ハンスリックはブラームスの擁護者としても知られるが、ハンスリックの唱えるような形式主義をそのままに当てはめるのならば、ブラームスの音楽も決してその条件を完全に満たすものではなさそうだ。ハンスリックの理論に従い、ロマン主義的感情表現から完全に決別し、音楽の内部ですべてが解決されるような、まさに純粋な「音楽のための音楽」へと接近する作品の出現は、世紀が変わりしばらくの時を経るまで待たなければならず、結局ハンスリックはそれを聴くことなく世を去った。

参考文献
音楽美論:ハンスリック、渡辺護(訳)、岩波文庫、1960

音楽美論

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