社会の平準化と超人、単独者

19世紀の西欧では封建主義体制の崩壊に伴い、民主、自由主義が台頭した。だが一方で、資本主義を背景とする社会の階層化が顕著になり、各階級の内部では人々の平準化(*)が進行した。とりわけ社会を支えるブルジョア(中産市民階級)には、ある種の倦怠や無気力が蔓延しはじめる。台頭する市民階級に求められる自立心を内側から支えてきた哲学も、状況の変化に呼応して新たな展開を模索する。

19世紀の半ばから後半にかけて登場した新たな思想の中で、とりわけ後の世代にまで多大な影響を与えることになったのが、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)とキルケゴール(Søren Kierkegaard、1813 - 1855)の思想である。前者の強靭なアフォリズムは、哲学飛び越え社会や政治にも多大な影響をもたらし、後者の反ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)的な個の思想は、後に出現する実存主義を予見した。両者に共通するのは、すでに遠い過去となった宗教的結合の時代への望郷で、ニーチェはキリスト教以前の古代への回帰を通じた、新たな世界の構築を企図する一方、キルケゴールは原始キリスト教時代へのと帰郷を通じて、キリストの後継者として自らを殉教者とし、自己の内部から発する救済の契機を模索した。彼らは共に社会への同化を拒否する孤高の人として、深い孤独の淵から時代に警鐘を鳴らし続けた。

ニーチェは人間を、過去が絶え間なく繰り返す、半過去形的な存在であると考えた。人間は完了なき状況の中で、自らを消費し否認しながら、自己矛盾の中に生きてゆく。ニーチェはそのような人間を、歴史的人間と呼ぶ。歴史的人間が救済を得てゆく過程の中で、彼に対して、いかにして歴史的時間を忘却し、超人的、超歴史的に過去と未来とを統合できるのか、また、いかにして実体としての生の中で、個々の瞬間に永遠性を付与することができるのかが試される。虚無の中から永遠に回帰する生を肯定することで、人間は超人になる。人間はニヒリズムを極限にまで追求することで、あらゆる過去から救済され、山頂へと到達する。

自らの想いを超人へと託したニーチェとは異なり、キルケゴールは自らを単独者として定義することで、平準化する社会を批判した。単独者は歴史的意志を抹消し、自己を歴史的なもの、自らを真に時代と共にある者だと規定する。彼は自らを個として、またキリスト教世界を含めた世界の生起全体を還元する場所として、自己自身の超越を通じて全世界の抽象化を試みる。時代と共にありながらも決して同化されることのない単独者とは、時代の真の理解者として、孤独の高みに生きる殉教者である。

ニーチェに超人を創造させ、キルケゴールを単独者へと駆り立てたもの、それは、過度の平準化を下地に、倦怠と腐敗がはびこる当時の西欧社会である。凡庸なブルジョアが主導する市民社会で、自由、平等、博愛という言葉に導かれた、中庸な分別と優柔不断さに満ちた消極的な共同体を形成した。ブルジョアとは、国家が与えた広く浅い知識しか持たない、凡庸で実践への意思にも乏しい階級で、決して自ら行動することを望まない。甘言に満ちた情報だけを選択、享受し、それへの熱狂と忘却とを繰り返す中、彼らは結局無関心を貫き通す。彼らにとって凡庸と無関心は重要で、それらとの引きかえに集団への帰属が許される。ブルジョアは消極的な共同体の中で生の意味を錯覚し、自ら世界史に欺かれ、一方、単独者としての実存は頑なに拒否する。日々孤独への恐怖に怯えながら群集に同化する、独創性も革命のスキームも放棄したブルジョアに委ねられた社会。そのような社会に哲学者は対峙した。

とりわけキルケゴールが危懼したもの、それは背徳感に芽生えはじめたブルジョアの形相である。日頃は楽天的な群集でしかないブルジョアだが、日々の倦怠が次第に喧騒の希求へと変貌し、強い意志を持つリーダーの出現と、それへの忠誠を求めるようになる。そこではじめて具現化される彼らの改革的努力の方向は、自己の改革にではなく、社会に対する暴力を通じた支配の野望へと振り向けられると予想される。それに対する危機感がキルケゴールを隠者へと駆り立て、進歩的な世界変革を超現世的意思に頼り、世界の生起全体を還元するという行動へと向かわせた。

ブルジョアの身体は二つの世界大戦を経て消滅したが、その精神は次代の中産階級へと引き継がれ、次なる凡庸が平準化を反復し、新たな支配的イデオロギーを社会に蔓延させている。

(*)本文の執筆にあたり参照した書籍の著者であるカール・レーヴィット(Karl Löwith、1897 - 1973)は、平準化を「民主主義による平均化が必然的に最後にたどりつく結末」であると定義する。平準化された社会では、「制服を着て毎日が太鼓の連打で始まり連打で終わる」ような、「一定程度の監視された悲惨と前身」によって、市民の生活が制限される。ある程度の制限は民主社会を維持するために必要だが、平準化は支配者のアプリオリに依存する。

注)執筆にあたり、レーヴィットの著書を参照した。個々の出典は省略する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977

ニーチェキルケゴールヘーゲル、ブルクハルト(単行本文庫

キルケゴール、単独者の時間感覚

キルケゴール(Søren Kierkegaard、1813 - 1855)は彼が住む西欧社会を、優柔不断な大衆によって支配され、その大衆が率先して行う平準化が進行する、消極的で欺瞞に満ちた世界であると認識していた。分別と反省、差異の水平化に覆われた社会。キルケゴールはそのような社会に深く絶望し、ひとりキリスト教的殉教者として単独者への道を志した。単独者とはある種の場所としても機能する超現世的意思のことで、それを契機に世界の生起全体が還元される。単独者は超越者として自己を歴史的に理解し、自己を時代と共にある者として、歴史的意思の抹消を画策する。そのような単独者の超現世的意思を支えるのが、彼独自の時間感覚だ。

時間感覚は全体的な時間の考察を通じて、彼を取り巻く時間がそれへと浸透してゆく有様を考察することで確認される。単独者は時間を永遠の中へと浸透してゆくものだと前提するので、永遠性=永遠的なものを、世界を計る尺度にする。単独者は時間を考察する際に、まず永遠的なものと時間的なものとを互いに相反するものだとして切り離し、次に両者を再び結合することで、理想とする時間の姿を描き出す。

切断と再結合の過程において、時間のあらゆる時点とその総和は、単なる通過点であると規定され、時間の現在、過去、未来といった区分は否定される。どの時点も、時点の総和も、それらはみな等しく通過し、過ぎ去ってゆく一瞬の時にしか過ぎない。したがって、そこには現在性が見出せないので、時間はこうした区分けが不可能な、動く進行として理解される。時間は無限の連続として連なるものであり、そこに何らかの視点を持たせることができない以上、時間は無意味な無限の連続体だと解釈される。

対して、永遠的なものには動きが伴わないので、その進行は現在的だ。永遠的なものも同様に時制の区別を持たないので、時間的に推量することは不可能だが、内容豊かな表象がそれを保守する。永遠的なものの動きの無さは、それを止揚された連続として留まったまま定立させる。そこで、永遠的なものは同時に現在的なもの、連続性を失った連続だとする解釈が可能になる。時間的なものと永遠的なものとは相反するが、両者の谷間に瞬間(Augenblick)という概念を配置することで、結合の道が模索され、それを通じて時間は充実を取り戻す。

瞬間とは、単なる過去の断片とは異なるものだ。瞬間は時間を規定してしまうので、現在的なものにはなり得ない。また、瞬間を時間の内部に発見しようとしても、そこに映る時間や永遠は抽象的なものにしか過ぎないので、それらの真の姿を通じて瞬間を確認することは不可能だ。だが今問われている瞬間とは、そのような萎縮した瞬間ではなく、両義的な存在として時間に充実をもたらし、その中に時間と永遠とを結合させる、そんな開かれた瞬間である。そこでは時間と永遠との間で互いの遮断と浸透が繰り返され、その繰り返しが時間性の概念を定立させ、過去、現在、未来という時間の区分を実現する。そのような瞬間を媒体として、時間に時間的なものと永遠的なものを据え付けることで、時間は区分され永遠へと浸透する。時間は過去から現在そして未来へと続く流れのうちに置き換えられて、無意味な無限の連続体から脱却し、その充実を獲得する。

参考文献
ブルクハルト:カール・レーヴィット、西尾幹二・堀内槇雄(訳)、TBSブリタニカ、1977
死に至る病:キェルケゴール、斎藤信治(訳)、岩波文庫、1957

キルケゴール、ブルクハルト(単行本文庫

ドゥルーズ、ベルクソンの記憶と芸術

記憶

ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)は運動それ自体の土台となる固定したモノの存在を否定する。運動とは物質的な動くモノではなく、動きそのものなのだとベルクソンは解釈する。身体は環境の中に位置するが、環境とはモノが集積する特権的な中心を持たない場所である。運動は身体を中心に作用し、身体は運動により他との交信が可能になる。そのような動きそのものとしての運動による交信は知覚によって行われるが、その知覚に宿るのが記憶である。ベルクソンにとって知覚とは記憶であり、その中に思い出を伴う持続である。したがってモノは空間だけではなく、時間にも絶えず関与する。

ジル・ドゥルーズ(1925 - 1995)は、そのような記憶を「思い出としての記憶」と「収縮としての記憶」として、ベルクソンを考察する。前者は現在と過去との深い断絶、知覚と思い出との間の性質の差異であり、後者は現在と過去とを統合し未来へと開かれる時間存在だ。それは、科学に基づく量的な差異は、知覚においては質的な差異として現れる働きなのだということを意味している。ベルクソンが述べる持続とは真の時間であり、そこでは過去と現在の質的差異や深刻な亀裂が示される一方、相互の交感と亀裂を越える力が示さる。そのような記憶は実際には不可視であり、普段は見えない差異として現れる現実の、存在根拠になっている。今知覚される感性的性質の差異の根元で働いているのが記憶であり、記憶は過去からも現在からも、差異を存在させるものとして常に要求され、モノの時間の交信に関与する。

芸術

ベルクソンは、持続としての記憶が抱かえる時間的な観点から芸術を定義する。現実とは差異そのものであり、それを見ることは不可能だ。しかしその存在は記憶によって示される。今知覚されている感性的性質の差異の足元では、常に記憶が働いている。したがって記憶は過去からも現在からも、差異を存在させるもの、モノの時間に関与するものとして、常に要求されている。

現実にかけられた覆いを剥ぎ取るのが芸術の役割なのだと仮定すると、芸術による隠蔽からの解放は、知覚の拡張だと言い換えることができる。そのような拡張が可能なのは、知覚に連接する物質世界が未定な要素から成るもので、動きそれ自体によって構成されているからだ。運動とは物質的なモノが動くということではなく、動きそのもののことである。そのような前提において、運動と時間とは離れることなく動き絡み合いながら差異を生みだす多様体として、持続をつくり出してゆく。そこで、持続は新たなものの源泉として、創造性そのものであると解釈される。したがって芸術とは予見不能性へと開かれたもの、そして創造性とは予知できないものだと定義することができる。

時間論的な考察において、予知できないものは、未来へと帰結する。ベルクソンは未来を「予見不能な無」と定義するが、予見できる現在の延長でも過去の投影でもないそれは、まさしく芸術の創作過程に類似する。芸術作品を、知性の働きを介し物質へと昇華されるモノだとするならば、細かな記憶しか持たず、新たに何かを加えるわけでもなく現状をただ反復するという予見不能な物質と、すべてを既知なものとして予見可能なモノとする知性との間に生じる緊張感関係によって生み出されるのが、芸術だということになる。

参考文献
ベルクソンの哲学:ジル・ドゥルーズ、宇波彰(訳)、法政大学出版局、1974

ベルクソンの哲学ベルクソン

マルクス主義に関するノート

以下は、マルクス主義を考察する際に必要と思われる基本的事項のうちのいくつかを、廣松渉(ひろまつ わたる、1933 - 1994)の著書を参照し、簡単にまとめたものである。

社会の定義

「対自的存在」として生きる人間、それを包み込むのが社会である。ヘーゲルの「社会実在論」では、「社会」が固有の実在する実体であると示されるが、マルクス主義における「社会唯名論」では、「社会」は名目的な仮の存在であると規定され、「個人」が実体として示される。「社会実在論」においては社会が有機的実体としてあらわれるのに対して、「社会唯名論」では個人が単子的実体としてあらわれる。

社会とは個人によって構成される集合体、個人が相互に関係する諸関連の総体である。マルクス主義は、そのような社会の現実的編成や秩序構造を、経済(流通や消費ではなく生産としての経済)の論理を通じて検証する。そこで重要なことは、人々の「意識」が彼らの社会的存在を規定すると同時に、人々の社会的存在が彼らの「意識」を規定するという図式である。

人間と意識

マルクス主義では人間のありかたが、無意識を含む広義の「意識」によって決定される。「意識」によって「人間の存在」が感知され、「意識」としての思い入れによって、人間の「現実的生活」がつくられる。そこで「意識」は、周囲に関わる自己の関係として解釈される。

人間の「意識」は「間主観的」なもの、周囲との関係そのものである。そのような意識を持つ人間とは、「対自的(自覚的、意識的)かつ相互間的な関係を内なる対自的本質とし、対自的に生きる存在」である。そこで「意識」を通じて社会関係を内面化する「人間の本質」は、「現実」の社会的諸関係の総体として定義される。

支配的な思想

マルクス主義は「現実」の世界を基準にして、独自の思考を展開する。ここでいう「現実」とは、経済的な下部構造や政治的に統合秩序された場において、現体制が、「支配、被支配の構造」として安定的に維持され存続している現状という意味である。

そのような「現実」のもとにおける一般的な社会的、政治的、精神的な生活の過程は、物質的生活の様式によって規制される。人々は社会的生産の場において、物質的生産緒力の発展段階に対応した生産関係へと入り込み、彼らの意思や必然性とは別の独立した諸関係へと組み込まれる。

このように人々は現体制を、自らが合理化したり、正当化したりすることが可能な枠内に留まるものとして容認し、それを精神の内に自ら反映させる(内面化する)のだが、それが社会における「支配的な思想」、つまり支配階級の思想となる。「支配的な思想」とは、人々の容認によって支えられる支配的現実としての物質的諸関係を観念的に表現したものである。

上部構造(法制的、政治的上層部と道徳、宗教、芸術、学問などの一定の社会的意識形態)が下部構造(階級関係をも含む物質的生産の経時的諸関係の一総体)に反作用(政治的、思想的支配体制への作用)して、逆に規定する。この公式によって、上記の図式が説明される。

唯物史観

「唯物史観」とは個々の人間相互の関わりや、自然との関わりに注目して、歴史の構造と動態を観察する姿勢のことである。「現実」の生産と再生産は、「唯物史観」の歴史における究極的な歴史的契機として示される。(マルクス主義は、動物の生態系と人間の生態系との違いを、環境や主体同士の構成の基軸が物質的生産関係に置かれているかどうかで判断する)

参考文献
今こそマルクスを読み返す:廣松 渉、講談社、1990 

マルクス

ロマン主義と芸術

ロマン主義は、芸術と密接につながる思想である。思想の起点を古代、とりわけギリシャ神話の中に配置しつつ、芸術における絶対性の獲得に倣い、精神の自由としてのイロニー的自我の実現を、その一つの目標として企てる。その原動力となるのは、人間と自然との失われた統一、その統一を回復させる創造力、そしてそのような創造力によって獲得される精神の絶対的自由への憧憬である。

そのような衝動を導いたのは、近代社会を支配する自然の放逐や精神の機械化が引き起こす不満や喪失感で、それが古代の神話を憧憬させた。ロマン主義は神話を、有限性からの脱出を導くテクストとして参照する。神話とは、有限と無限、人間、自然、神とが融合する宇宙の形成のことであり、そこではあらゆるものが意識の上に直感されることで自然が再現され、全体性が回復される。そのような神話を追放したのがキリスト教で、地上にあった神話世界を駆逐し、神を天上へと向かわせ、宇宙を歴史へと塗り替えた。ロマン主義は、包括的な自然把握と、自然に宿る神性の直感を通じて、世界の神話化(生命化)を企てる哲学で、分析的で理性的な思惟とは一線を画する思想である。

このようなロマン主義において、芸術思考はそれを全体的に把握する「ポエジー」として語られる。ポエジーとは分析的悟性から切り離された想像力のことであり、その力が包括的な世界構想の鍵となる。想像力とは、有限と無限、実在と観念とを同一化し、有限な世界を無限なものとして象徴化する構想力のことで、それは芸術の定義と一致する。ロマン主義おいて美と趣味は、芸術としてのポエジーによって記される。

ポエジーによって示される自我と世界との神秘的な交信を通じて、両者が分裂する以前に存在した根源的自我との再会が模索される。そして、主体と客体、精神と自然の二元論が、ポエジーによって成し遂げられる、芸術の絶対化による世界の神話化を通じて克服される。

イロニー

ロマン主義を語る際に必須となる用語のひとつに、「イロニー」がある。「イロニー」とは、精神における絶対的自由への願望の現れのことであり、現実の自己と世界とを俯瞰する。ロマン主義的な想像力としての「ポエジー」は、イロニー的自我の表出としても捉えられる。「イロニー」において、創作と反省、自己創造と自己破壊、芸術と批評とが一つになる。ロマン派の哲学は、「イロニー」という絶対的自由への願望に神話を加味することで、世界と自我との調和を要求する。(イロニー的戯れの典型がアラベスクで、それはポエジーの本質を表現する。)

ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)はこのようなイロニーを病的憧憬として糾弾する。「イロニー」のいう宇宙とは主観化された宇宙であり、すでに虚構と化している。「イロニー」とは主客関係が消滅した、すべてが主観の世界であり、外界との接点を欠く、単に肥大化した自我にしか過ぎない。

ロマン主義は現実から離れ、非現実を内面化し、それを精神内部に創造させることによって、目的の完遂を目指す思想である。したがって、それに属する芸術は空想とのからみで現実を失い、現実から遊離することに加え、美の自律性は曖昧になる。ロマン主義は過剰に浸され、内部に哲学的な矛盾を抱える近大思想のひとつだが、その影響力は絶大で、様々な再解釈を通じて、次世代の思想や芸術へと受け継がれいった。

参考文献
美の変貌:当津武彦(編)、世界思想社、1988
ボードレール:ベンヤミン著作集、川村二郎・野村修(訳)、晶文社、1975

ベンヤミン

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