ロラン・バルト、日本文化とエクリチュール

日本に関心を示す西洋の文化人は少なくないが、ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)もそのひとりで、彼はいくつかの論文で日本の文化に触れている。中でも重要なのは、1970年に出版した、「L'Empire des signes(表徴の帝国)」で、彼は日本の印象をその一冊にまとめている。本書は、すきやき、箸、すもう、俳句や庭園から学園紛争に至るまで、日本を代表する文化を、各章ごとに描いてゆく。だが本書は紀行文や東洋文化論等とは異なるもので、1957年出版の「Mythologies(神話作用)」を彷彿とするが、しかし今回は個々の内容が西洋と東洋の差異の中に展開される「エクリチュールの本」として、異なる観点を下地にして書き上げられている。

1966年代半ば、バルトは当時関心のあったエクリチュールの問題に取り組むための詩的素材を探していたが、フランス文化使節の一員として招聘された日本の文化にそれを発見した。首都からして、すでに中心が空虚な国。そこに展開する諸々の記号は意味の空白に戯れ、意味=中心から隔たる周縁で生を得ている。バルトはそのような日本の文化に、脱中心化の意味を据え付ける。彼は日本の文化を「革命的実践」だととらえ、そこに散在する「無」をテコにして、西洋的な表徴=記号体系を揺さぶろうと画策する。哲学をテクストとして読み込むデリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)に対し、バルトは本書で文化においてそれを実践する。

バルトは出版後に行われたプロメス誌とのインタビューで、本書の意図に触れている。もっとも誌はインタビューを、「記号内容を展開し、詰め込むための修辞学的様式」を踏襲するものだとして、それに否定的な見解を示している。そこで誌は対談に、「もうひとつのテクスト的セリー(音列)の展開を可能にする」、読書のしおりとしての役割を期待する。下記にその内容を、前半部を中心にまとめてみた。

インタビューをはじめるにあたり、誌はまず本書の主題を規程する。東洋を物質的地勢から切断し、そのテクスト的解釈を通じて西洋のイデオロギー的姿勢、東洋を見る目に寄り添う帝国主義やキリスト教的思考とともに、それへの無知と思い込みにクサビを入れること。本書はそのような主題に沿って、日本を「象徴的なものの裂け目」を記す、問題解決への糸口を探るためのテクストとして再考する。したがって、各章では諸文化を「象徴体系の固有性の変革」を示唆する事象、「抑圧された外部への抜け穴」として紹介する。

本書は西洋を「意味の帝国」だとする一方、日本を異なる象徴体系を擁する「記号の帝国」だと解釈し、テクストの織物、エクリチュールという「別個の記号表意的結合関係」として再読することで、両者の対立構造を解明する。記号空間とは「記号表現と記号内容と指向対象からなる記号の基本的階層組織」を意味するが、諸々の解読において、その組織は凌駕されてゆく。そこでは意味は定まる「と同時に逆流し、与えられると同時に拒否され」、すべての記号内容が瞬時に記号表現へと収束することで、「諸コードの正確な編物でありコードの概念を基礎づける階層関係」は、空虚な記号の素性によって消滅する。

バルトはそのような誌の解読を受けて、本書における試みの出発点を、フォルマリスムにおける文学的隠喩との共通点に基づく、東洋に対するフォルマリスト的視点の再考であると解説する。フォルマリスト的視点は内容、主体、原因や主義主張という、その記号内容によって批判される。批判は形式による内容の転位と後退を目的とするが、彼はそれが行う内容の相対化や時間の延期に着目し、そのような「基準枠の不確定性」に文学的な隠喩との共通点を感じ取る。文学は、唯心論的で固定的な哲学や神学という記号内容から回避するために隠喩を用いてきたのだが、それは起源の消滅へとたどり着く。

そのような隠喩はテクストのエクリチュールに潜む無(空虚)として、中心の欠如を示すのだが、本書の核心部分もそこにある。悟りとして読まれる東洋のエクリチュールはパロールを無にすると同時に、その空虚なパロールがエクリチュールを構成する。その無化と空虚が、西洋との差異を集約する。内部が「男根の、父の、呪文の強迫によってこれを埋めるように促される」西洋の知性は、そのような主体を揺るがす「無意識的回収」を伴う空虚を拒否せざるを得ず、それをひとつの中心へと改変する操作、いわゆる「神秘的還元」を実行する。そこで誌はバルトの解読をそれに打ち勝つ「空無化の実践」として、その「空虚を表現することなしに書く」という手法に賛同する。

バルトは空虚が示す観念を、「脱中心化の観念」を支えるものとして、その下部に据え付ける。彼の言う空虚は充実する。一般的に「充実したもの」とは、忘れ得ぬ過去や父のような主観的な記憶、神経症的な反復、大衆文化的なステレオタイプなどとして例示される一方、空虚はそれに相反する「肉体、事物、感情、語などの」欠如であると定義される。しかしバルトはそのような分類を、「旧物理学」の侵食がもたらしたものだとして一蹴する。世界を起源によらない「一時的な差異の体系」だとする構造主義に根ざす彼の思考の中で、空虚は「新しいものへの回帰」、「世界の自己生成性」と呼ばれるものへと読み替えられる。

バルトが示す空虚の意を受けて、誌は本書に登場する俳句を例に取る。俳句においては、記号表現と記号内容が完全に一致する。一方、西洋の詩的ディスクールにおいては、その「活発な多様性、記号表現の深さ」によって、記号は戯れ疲弊する。誌の指摘に対してバルトは、「記号の反対物、非記号、無意味」のような一連の反対物による正面的な攻撃、意味の廃棄、言語の転覆といった手法の非力を例示する。彼が求めるのは、固有性の希釈化による廃棄、パロディー化、模擬といった、「ごまかし、盗み、かすめとる」といった手法なのであり、彼はそれらと俳句の機能との一致を強調する。俳句は、「ある種のテクニック、韻律的コードによって、記号内容を消滅させる」と同時に、その「最後の反転によって読み得るものの仮面を着け、良い(文学的)メッセージの属性、つまり明晰さ、簡潔性、優美、繊細さを模倣しながら、実はこれらのものから一切の指向を」剥奪する。そのような能力は彼の言う「古典的エクリチュール」にも存在するが、そこには現代的な、「パラグラム、剽窃、テクスト相互関連性、偽りの読みとり可能性」などの、「理論的可能性」が欠けている。

誌はバルトの言葉に対し、「日本という語が示すエクリチュールの唯物論的係留の問題」に触れる。係留とは「成層組織をなし、相互の支配・限定関係に規制された、わりあいに自律的な諸系列」による「文節された複合的実践」を意味するが、バルトはそれを言語の内側から開始する。彼が行うのは、「あらゆるイデオロギー的なもの、無意識的なもの」を包含し、それらを中心として伝達により強迫を仕掛けて来る言語の脱中心化である。そのような前提において各章では、諸々の文化に存在する身振りや痕跡といった、「一般的エクリチュール」を示す言語が検証されてゆくのだが、そこでバルトが問題としているのは、「標定された種々の記号表意的実践の、弁証法的に秩序立てられた射程内における、その位置」である。

インタビューはまだ継続し、より包括的に本書の概要が示されてゆく。

本書が語る核心は、日本という物質文明のテクスト化を出発点としているが、バルトにそれを引き出させたのは、他国にひとり置かれた外国人が味わう特殊な疎外感である。本書の各所に示されているように、バルトは日本に滞在中、常に自らを外国人として疎外し続けた。だが、その疎外の原因、彼を取り巻く不可思議な言葉や作法、その無意味、理解不能性が、彼を意味の強度から解放し、「悦楽」という重要な感覚を彼に目覚めさせてゆく。本書における日本のテクスト化とそのエクリチュールとしての読み込みは、そのような疎外がもたらす「悦楽」を起点とするものだ。

かつてバルトは、ある種の西洋文化における記号の明瞭さが示す意味の透明化、そこでのシニフィアンとシニフィエのみごとな癒着の表象を、現実生活とは異なる現代の神話として解読した。一方、シニフィアンがシニフィエ=意味を超越する日本においては、そのようなシニフィアンの豊かさが、シニフィエとの結合を不要なものにしてしまう(記号が空虚なのでシニフィエへと導かれない)。それが西洋人であるバルトを意味の理解から開放し、そこはかとない「悦楽」を彼に提供した。

参考文献
Empire of Signs: Roland Barthes, Richard Howard (trans.), Hill and Wang, 1982
物語の構造分析:ロラン・バルト、花輪光(訳)、みすず書房、1979
神話作用:ロラン・バルト、篠沢秀夫(訳)、現代思潮新社、1967

ロラン・バルト

ジュリア・クリステヴァ、インタビュー

以下はジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva、1941 -)のインタビュー(仏語に英語のサブタイトル)から、その一部を筆者が翻訳したものを、投稿用に抄訳、一部加筆し再編集したものである。インタビューでクリステヴァは言語学の問題点を指摘しながら、詩的言語の内部に潜むデュナーミク(ダイナミック)の秘密を簡潔に論じている。

まだ精神分析へと向かう前、初めて詩的言語に興味が沸いたとき、私はそれが子供の反響言語にも似た特定の問題に占拠されていることに気がついた。詩的言語はリズムや調べ(音楽)に占拠されている。実際に詩的言語は音楽的であり、それによって意味が独占されることもあり得るのだということはよく知られた事実である。マラルメ(Stéphane Mallarmé、1842 - 1898)を例に取ると、その調べを理解することができても意味を解せないことがよくあるのだが、そうした調べによる詩的言語の支配が、そこに含まれる前言語や子供の反復言語のような調べの復権を、私に想起させることになった。

フロイト的解釈では、幼児の言語から二つの意味を取り出すことができるのだが、そのひとつは前エディプス的と呼ばれる段階を示すものである。それはエゴの最も外側における不安定さに加えて、抑うつと精神的な病の可能性を示す段階で、ナルシシズムに関するすべての問題を包含する重要な時期だと言えるだろう。それは幼児が母親に依存し、その依存の痕跡を記憶に留める時期でもある。もし詩的言語の中に前言語的な音楽性が見つけられるとするならば、それは、そこにわれわれの断片化されたナルシシズムと母と子の関係との証が内包されているからに違いない。それは詩人の女性的な母性的素性、あるいは、それは必ずしも必要ではないが、ホモセクシュアリティーにも関連する事柄で、彼らの主張によっても明確に知られている。

ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 - 1941)を例に取ると、それはMollyの独白における彼の女性的なイメージへの深い傾倒にあらわれているし、またフィネガンズ・ウェイク(Finnegans Wake)にも、それは読み取れるだろう。それらは私がいうところの、かばん語(portmanteau words)のかたちを取り、言語の声歌のような、あるいは幼児言葉のような様相を示している。そのようにして現代の文学は自身を前エディプス期と母性とに依存させながら、言語の原初的な段階の探求へと身を投じるのである。

現代の言語理論に誤りがあるとは思わない。だが、それらは自身のゴールと対象を詳細に叙述しようとする認識論的伝統に従属しながら、その枠組みの内で多くの成果を得ようとしているのだ。私の考えでは、そうした言語理論は社会的にも精神分析的にも重要だと思われる主観的症状のダイナミックには触れていない。現代の言語学の背後にある認識主義的伝統は、チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928-)によって、デカルト(René Descartes、1596-1650)の「ゆえに我あり」のように説明されている。また、Searle's Speech Actsやオースチン(John Langshaw Austin、1911 - 1960)、そしてフランスの論述理論のような言説の理論は、デカルト的言語学から発展したものであると言い進めることもできるだろう。それらはフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)その他の現象学における超越論的エゴに近いものである。チョムスキーにせよSpeech Actsにせよ、こうした言語理論は主体と客体との分離と同時に、会話における意識の孤独を予見させる。正確にそうした孤独と分離こそが、病的ともいえる状況下における争いや、革命、革新、あるいは新しい世の中が創設される時のように、社会的規範が流動的な状況にある場合を示す状態なのである。そこで私は意味が必ずしも与えられないような、ダイナミックな状況に適する用語(モデル)を提唱した。それが、私が「ance」というサフィックスを伴いシニフィアンと呼ぶ、かつてダイナミックな過程を強調するために中世の言語学で使われていた用語である。

私はダイナミックをよりよく理解するために、シニフィアンの二つの様相を分離することにした。そのひとつはセミオティックだが、これは反響言語または記号や文法以前の幼児の発話を説明するだろう。そしてもうひとつは、記号と文法、あるいは私がシンボリックと呼ぶものであり、この二つによる明確な表現が言語のダイナミックを作り出すのである。

ダイナミックは、例えばジョイスの場合のように、詩的言語のいくつかのケースにおいて、たいへん明白に認められる。だがそれだけではなく、バルザック(Honoré de Balzac、1799 - 1850)のような古典的な作家の中にも存在する。彼は読者に文章のリズムを聴き取るよう求めているのである。そのリズムはたとえ文章の前面に押し出されていなくても、読者には聴き取ることができるだろう。ダイナミックはバルザックの主要な目的ではないが、確かに存在するのである。また、付け加えるならば、ダイナミックは潜在的にではあるけれども、情動と動機が斬新的に抑制されている、教示的、科学的または政治的な論説にも存在する。

私たちはそうしたセミオティックとシンボリックの考えに基づいて、人間的な経験に関連する論説の類型学を構築できるだろう。そこでは言語の批判的状況、変化と進化の可能性を見定めることが可能となる。つまり言語学は、思い違いをしているわけではないが、明確な歴史の中での限定的な主体しか持たないということだ。

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他者に関して

人間はどのようにして自己同一性(アイデンティティ)を確立してゆくのだろうか。その第一段階としてよく指摘されるのが、ジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901 - 1981)が1936年に提唱した「鏡像段階」である。人間は当初、限定された視覚の中に自身を断片的に見ているが、やがて鏡に映る自分や他人の姿の中に統一した自身を発見する。生後6ヶ月から18ヶ月の間に味わうその体験を起点にして、幼児は対象への思考を開始し、自我への意識を芽生えさせ、言語を取得する。言語を取得することで世界は象徴的次元へと移ってゆくが、差異に覆われるこの世界においては、自己の同一化さえもが「他者」との差異を起点とする。ちなみに、ラカンは構造主義を下地にした精神分析で著名な学者である。

「私は他人の存在なしでは生きられない」とはよく聞く言葉だが、それは奇しくもフロイトが指摘する他者の実存と合致する。フロイトは他者をまず欲望との関わりから考察する。彼の考えでは、わたくしの欲望とは対象へと直接的に進むものでは決してなく、必ず他者を経由する。そこで、わたくしの欲望は他者の欲望、他者の欲望の模倣にしか過ぎないのだと示唆される。わたくしは無意識のうちに他者の欲望を模倣し、他者に従属するのだが、それが唯一のわたくしを主体として実存させる方法なのであり、その点において、実存における他者の重要性が際立ってくる。

両者の存在は関係の中で希釈化し無化されてゆくが、そこには無化に対抗し続けるわたくしの姿があり、その姿の中にこそ、わたくしの実存が発見される。フロイトはそれを拡張し、わたくしの他者への組み込みを、他者と共に言語や文化を共有する、つまり他者が自ら確定する象徴的領域に接近する契機であると指摘する。

フロイトの他者=欲望の図式はラカンの鏡像段階と同様に広く知られるものだが、ドゥラカンパーニュ(Christian Delacampagne、1949 - 2007)は、フロイトのアイデアの源流をヘーゲルの中に発見する。ヘーゲルは意識を精神が共に知る能力だと規定するが、その能力とは言語を通じて行われるコミュニケーションとしての内的対話を維持する力のことである。その力には外的他者の現前が含まれており、外的他者に別の意識が定義されることで、それが連鎖的に外部へと拡散し、言語や文化、ひいては国家という到達点へと達してゆく。

そのように、形而上学においても他者は常に登場してきたが、それが独立した問題として幅広く論じられるようになった今、他者の問題に関してある種の方向性を与えてくれるのが、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906 - 1995)の思想である。彼が掲げる他者の概念は多少の難解さを伴うが、その神学的とも言える語りは示唆に富んでいる。

レヴィナスは他者をわたくしに同化することのない他者、指向性によって対象化、概念化されることのない絶対的な他者として規定する。他者とはわたくしの想像が及ばない、視覚を越えた存在であり、目によって存在が確かめられるものではない。そのような物質を越えた現象である他者を、レヴィナスは「ヴィザージュ(visage)」=顔(顔貌)と呼ぶ。「顔」と表現される他者とわたくしとの間にはアプリオリな前提は存在せず、両者はその場で対面し問い掛けるのだが、物質を越えた現象との交わりとは、まさに超越した語りそのものでしかない。わたくしにとって「顔」とは未知の理解を越えたモノであり、有限から解き放たれた「無限」であると考えられる。認識すら不可能な無限との差異は絶対的で、あらゆる問いかけにおいて、すでに共通の基盤は失われている。わたくしと他者の間に横たわるのは意味作用だけなのだとすると、わたくしにはただ無限の彼方から響きわたる他者からの語りかけに耳を傾けるしか術がない。

フロイトとヘーゲルの関係を指摘したドゥラカンパーニュだが、彼も他者に関して独自の概念を展開する。彼は他者を二つの相反する経験を通じてわたくしに与えられる、両義的な存在であると定義する。両義的な他者とは、わたくしを自己破壊へと導くような、情念的な関係を構築する鏡面反射的な他者と、そうした鏡の戯れから逃れさせてくれるような第三者として、法の番人のようにその外部に存在する他者という、ふたつの他者を擁する他者のことである。他者がこのように両義性を帯びるのは、わたくし=自己の両義性に対応するからであり、したがって、わたくしには主体の凋落からの救済が見込まれるのである。

ドゥラカンパーニュによると、そのような他者の両義性が最も顕著に現れるのが芸術だ。芸術において、凋落へと突き進む主体を、同時に奈落から引き上げ救済するという他者の両義性が、最も顕著にあらわれる。芸術は表現に対する衝動とそれを抑える法則とが同居することによって成し遂げられる。それが可能になるのは、ふたつの他者が一体化することで芸術を善悪の彼岸にとどまらせ、主体に自己の同一性の回復をもたらしているからに他ならない。芸術がどのような感覚に身を委ねようとも、他者の両義性が、死の淵からの生還を可能にする。

注)執筆にあたり、「現代フランス哲学12講、浜名優美その他訳、青土社、1986」及び、筆者のノートを参照した。個々の出典は省略する。

サルトルの実存主義と芸術

概要

サルトル( Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905 - 1980)が説く実存主義は、意識の絶対的な真理としてのコギトを出発点にする、唯心論的な哲学である。実存主義は無神論を下地にして個をひとまず無に帰すことで、人間の運命を人間自身の内部に戻し、人間をその行動から定義する、楽観主義的な哲学である。ここでいう無神論とは、神を否定する論理ではなく、神の存在の無意味さを示す論理である。

実存主義が定義する個々の人間は、神の存在とは関係なく、人間という普遍的な概念の特殊な一例として、その実存を本質に先立たせて存在する。人間はあらゆる概念的定義の前に位置する存在として世界内に実在し、他者との出会いを契機に、その実存の定義付けを開始する。神の不在を前提とする世界において、まずは本性の記録を持たない素の存在、何者でもない定義不可能な存在として登場し、未来へと向かって自らを自らの手でかたちづくるのが人間の真の姿である。人間とは主体的に自己を生きる投企であり、自らが造形するそのもの以外の何者でもない。

このように「実存が本質に先立つ」人間は、自らの造形を実行してゆくなかで、間断なく選択行動に直面する。加えて人間には「アンガージュマン」が要求されるが、個々のアンガジェは単独の行動としてではなく、万人のアンガジェとして展開される。個々の人間による選択は、全人類の選択と同義であり、そこに万人に対する責任が発生する。

実存主義は不安や孤独といった概念が寄り添う思想だが、その発生は実存主義独特の「アンガージュマン」や無神論に結び付く。不安とは、「アンガージュマン」における選択と、そこに発生する責任に対する不安、孤独とは、神の不在や先験性の消滅による諸価値発見の可能性の喪失が生み出す孤独を、それぞれ意味している。

人間はそれ自身の内部にしか存在しえず、したがって孤独のなかで自身を決定する。神の不在はすべてを許容するが、それに伴う支えの喪失が人間を孤独にする。神の不在は人間に完全な自由をもたらすと同時に、行為の是非を問うものや、拠り所となる個の本性を失わせ、それが孤独感を誘発する。それは自己選択を起因とする孤独であり、したがってそこには不安が伴なうことになる。実存主義における人間は、常に不安と孤独に苛まれている。

孤独であるとはいえ、人間は自己存在の確認を、コギトと共に他者をその条件として遂行する。人間は他者の信任なくしては何者にも成り得ず、個の真実の把握には他者の存在が必須となる。他者は個の認識と存在にとって不可欠であり、個の内奥はその前方にある他者という一つの自由として発見される。(相互主観性として、人間はコギトのなかに自分自身と他者を同時に発見する)

自己の自由は他者の自由に依拠し、また他者の自由は全体のそれに依拠している。アンガジュマンは、私の自由と同様に他者の自由を目的とする。自己の目的は自己の反省ではなく、その契機を自己の外部に求めることで実現する。

実存主義的な芸術

実存主義は、「実存は本質に先立つ」という前提において、人間をまず無という完全に自由な存在として旅立たせる。主体の造形は主体自身の意識的な選択行動に一任されるが、その造形は客体(他者)によって保証される。「意識はすでに何者かの意識」であると規定する実存主義においては、自己(対自)と外界(即時)との結合を通じて、世界における個の形成が確認される。

実存主義的人間は、不安や孤独とそれを導く虚無のなかに、自己の存在を確信する。その地点を臨界点とする極限的な状況を描き出すのが、芸術家の役割である。実存主義的な芸術は、生に寄り添う不安と孤独を意識的に示しつつ、世界の創成としての絶対的全体を自由な想像を通じて表現する。

芸術の制作主体としての芸術家は、その自由な判断において、作品の内部に身を投じる。その結果としての作品は、それが完結した後にはじめてあらわれるものであり、事前に用意された芸術価値からは切り離されている。実存主義は、芸術における先験的な美的価値を否定する。

実存主義的な作品は、それが行なうの対象の鈍化によって、人間を絶対的全体へと導く媒介としてあらわれる。諸々の作品において、対象は心眼のみが写し取ることができる、無から立ち上がる事物の本質として、核心的かつ抽象的に示される。対象の抽象化とは、理想主義や写実主義に対する否定である。抽象化は人間が持つ合理的なものへの反抗と同時に、非合理的なものへの憧憬として、人間を対象へと還元する。

参考文献
実存主義とは何か:サルトル全集、伊吹武彦(訳)、人文書院、1955
Paris Post War: Frances Morris, Tate Gallery, 1993

ロラン・バルト、写真と映画

ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)の「明るい部屋」は、彼がこれまで各所で行ってきた写真論の集大成として、またバルト最後の著書として、今も広く読み継がれている、この分野を代表する書籍のひとつである。本書の主題は写真であるが、写真との比較において映画(ここでいう映画とは主に劇映画のような虚構を意味する)のことがいくつかの場所で述べられている。本書では、より穏やかで自然なものとして登場する映画だが、バルトにおいて写真と映画とは、対極する位置にありながらも、決して切り離すことのできない存在である。

以下は本書のなかからその映画に関して述べられている部分のいくつかを、簡単にまとめたものである。

*)映画は動画として留まることなく進行するので、写真のように映像に何かを付与する時間的な余裕がない。そこで映画は、思考性を持たない媒体になる。そのような映画における有効性の一つとして挙げられるのが、隠れた場の存在である。映画に映る像の背後には隠れた場が存在するが、スクリーンが単なる枠組みとしての役割を超えて、その場所として機能を代理する。このような場の二重性が、登場人物にそこから這い出て生き続けることを可能にする。

*)映画とは写真の集積物だが、映画になる段階で個々の写真にある「それは - かつて - あった」というノエマは変化する。そこで、写真を解読しようとする意思が行きつく終点という意味での「ポーズ」は、映画特有の連続性によって否定される。写真とは異なり、映画には俳優の「それは - かつて - あった」を意味する「ポーズ」と役柄の「ポーズ」という二つの「ポーズ」が存在する。このような二重性が、すでに故人となった俳優を観たときに生ずるメランコリーを惹起する。映画は事物の過去の存在を、隠喩として出現させる。

*)映画の絶えざる動きは、その素材である写真の自己完結性を奪い去る。そこで写真ある被写体は鑑賞者にとりつくことを止め、自己のかつての存在を主張しなくなる。それが示すのは、映画の未来性である。フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)は、現実世界における「経験の流れは絶えず同じ構成様式に従って過ぎ去るだろう」と予測したが、同様に映画の世界もそのような予測によって支えられている。そのような構造によって、映画は人生と同じく自然なものとなり、その未来性が約束される。

*)写真における「まなざし」とは、鑑賞者を注視しているようで実は見ていない、そのような視線のことをあらわしている。映画は写真の集積物ではあるが、映画にはそのような「まなざし」が存在しない。「まなざし」の非在は、映画における「狂気」(見ているようで見ていないという、そような「まなざし」を告げる狂気)が、いかに人為的に装われたものであるかということを立証する。映画は「狂気」を文化的記号として提示することはできるが、それがもつ「映像の本質規定」によって、真の「狂気」になることはできない。映画は幻覚(狂気)とは正反対なもの、つまり単なる錯覚である。映画の視像は追想性幻覚(アクムネジー)ではなく、単なる夢想にしか過ぎない。

参考文献
明るい部屋:ロラン バルト、花輪 光(訳)、1997
Roland Barthes: Camera Lucida, Richard Howard(Trans.), Vintage, 1993

ロラン・バルト

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