ジュリア・クリステヴァ、インタビュー

以下はジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva、1941 -)のインタビュー(仏語に英語のサブタイトル)から、その一部を筆者が翻訳したものを、投稿用に抄訳、一部加筆し再編集したものである。インタビューでクリステヴァは言語学の問題点を指摘しながら、詩的言語の内部に潜むデュナーミク(ダイナミック)の秘密を簡潔に論じている。

まだ精神分析へと向かう前、初めて詩的言語に興味が沸いたとき、私はそれが子供の反響言語にも似た特定の問題に占拠されていることに気がついた。詩的言語はリズムや調べ(音楽)に占拠されている。実際に詩的言語は音楽的であり、それによって意味が独占されることもあり得るのだということはよく知られた事実である。マラルメ(Stéphane Mallarmé、1842 - 1898)を例に取ると、その調べを理解することができても意味を解せないことがよくあるのだが、そうした調べによる詩的言語の支配が、そこに含まれる前言語や子供の反復言語のような調べの復権を、私に想起させることになった。

フロイト的解釈では、幼児の言語から二つの意味を取り出すことができるのだが、そのひとつは前エディプス的と呼ばれる段階を示すものである。それはエゴの最も外側における不安定さに加えて、抑うつと精神的な病の可能性を示す段階で、ナルシシズムに関するすべての問題を包含する重要な時期だと言えるだろう。それは幼児が母親に依存し、その依存の痕跡を記憶に留める時期でもある。もし詩的言語の中に前言語的な音楽性が見つけられるとするならば、それは、そこにわれわれの断片化されたナルシシズムと母と子の関係との証が内包されているからに違いない。それは詩人の女性的な母性的素性、あるいは、それは必ずしも必要ではないが、ホモセクシュアリティーにも関連する事柄で、彼らの主張によっても明確に知られている。

ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 - 1941)を例に取ると、それはMollyの独白における彼の女性的なイメージへの深い傾倒にあらわれているし、またフィネガンズ・ウェイク(Finnegans Wake)にも、それは読み取れるだろう。それらは私がいうところの、かばん語(portmanteau words)のかたちを取り、言語の声歌のような、あるいは幼児言葉のような様相を示している。そのようにして現代の文学は自身を前エディプス期と母性とに依存させながら、言語の原初的な段階の探求へと身を投じるのである。

現代の言語理論に誤りがあるとは思わない。だが、それらは自身のゴールと対象を詳細に叙述しようとする認識論的伝統に従属しながら、その枠組みの内で多くの成果を得ようとしているのだ。私の考えでは、そうした言語理論は社会的にも精神分析的にも重要だと思われる主観的症状のダイナミックには触れていない。現代の言語学の背後にある認識主義的伝統は、チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928-)によって、デカルト(René Descartes、1596-1650)の「ゆえに我あり」のように説明されている。また、Searle's Speech Actsやオースチン(John Langshaw Austin、1911 - 1960)、そしてフランスの論述理論のような言説の理論は、デカルト的言語学から発展したものであると言い進めることもできるだろう。それらはフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)その他の現象学における超越論的エゴに近いものである。チョムスキーにせよSpeech Actsにせよ、こうした言語理論は主体と客体との分離と同時に、会話における意識の孤独を予見させる。正確にそうした孤独と分離こそが、病的ともいえる状況下における争いや、革命、革新、あるいは新しい世の中が創設される時のように、社会的規範が流動的な状況にある場合を示す状態なのである。そこで私は意味が必ずしも与えられないような、ダイナミックな状況に適する用語(モデル)を提唱した。それが、私が「ance」というサフィックスを伴いシニフィアンと呼ぶ、かつてダイナミックな過程を強調するために中世の言語学で使われていた用語である。

私はダイナミックをよりよく理解するために、シニフィアンの二つの様相を分離することにした。そのひとつはセミオティックだが、これは反響言語または記号や文法以前の幼児の発話を説明するだろう。そしてもうひとつは、記号と文法、あるいは私がシンボリックと呼ぶものであり、この二つによる明確な表現が言語のダイナミックを作り出すのである。

ダイナミックは、例えばジョイスの場合のように、詩的言語のいくつかのケースにおいて、たいへん明白に認められる。だがそれだけではなく、バルザック(Honoré de Balzac、1799 - 1850)のような古典的な作家の中にも存在する。彼は読者に文章のリズムを聴き取るよう求めているのである。そのリズムはたとえ文章の前面に押し出されていなくても、読者には聴き取ることができるだろう。ダイナミックはバルザックの主要な目的ではないが、確かに存在するのである。また、付け加えるならば、ダイナミックは潜在的にではあるけれども、情動と動機が斬新的に抑制されている、教示的、科学的または政治的な論説にも存在する。

私たちはそうしたセミオティックとシンボリックの考えに基づいて、人間的な経験に関連する論説の類型学を構築できるだろう。そこでは言語の批判的状況、変化と進化の可能性を見定めることが可能となる。つまり言語学は、思い違いをしているわけではないが、明確な歴史の中での限定的な主体しか持たないということだ。

マラルメフロイトジョイスフィネガンズ・ウェイクFinnegans Wakeチョムスキーデカルトオースチンフッサールバルザック

他者に関して

人間はどのようにして自己同一性(アイデンティティ)を確立してゆくのだろうか。その第一段階としてよく指摘されるのが、ジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901 - 1981)が1936年に提唱した「鏡像段階」である。人間は当初、限定された視覚の中に自身を断片的に見ているが、やがて鏡に映る自分や他人の姿の中に統一した自身を発見する。生後6ヶ月から18ヶ月の間に味わうその体験を起点にして、幼児は対象への思考を開始し、自我への意識を芽生えさせ、言語を取得する。言語を取得することで世界は象徴的次元へと移ってゆくが、差異に覆われるこの世界においては、自己の同一化さえもが「他者」との差異を起点とする。ちなみに、ラカンは構造主義を下地にした精神分析で著名な学者である。

「私は他人の存在なしでは生きられない」とはよく聞く言葉だが、それは奇しくもフロイトが指摘する他者の実存と合致する。フロイトは他者をまず欲望との関わりから考察する。彼の考えでは、わたくしの欲望とは対象へと直接的に進むものでは決してなく、必ず他者を経由する。そこで、わたくしの欲望は他者の欲望、他者の欲望の模倣にしか過ぎないのだと示唆される。わたくしは無意識のうちに他者の欲望を模倣し、他者に従属するのだが、それが唯一のわたくしを主体として実存させる方法なのであり、その点において、実存における他者の重要性が際立ってくる。

両者の存在は関係の中で希釈化し無化されてゆくが、そこには無化に対抗し続けるわたくしの姿があり、その姿の中にこそ、わたくしの実存が発見される。フロイトはそれを拡張し、わたくしの他者への組み込みを、他者と共に言語や文化を共有する、つまり他者が自ら確定する象徴的領域に接近する契機であると指摘する。

フロイトの他者=欲望の図式はラカンの鏡像段階と同様に広く知られるものだが、ドゥラカンパーニュ(Christian Delacampagne、1949 - 2007)は、フロイトのアイデアの源流をヘーゲルの中に発見する。ヘーゲルは意識を精神が共に知る能力だと規定するが、その能力とは言語を通じて行われるコミュニケーションとしての内的対話を維持する力のことである。その力には外的他者の現前が含まれており、外的他者に別の意識が定義されることで、それが連鎖的に外部へと拡散し、言語や文化、ひいては国家という到達点へと達してゆく。

そのように、形而上学においても他者は常に登場してきたが、それが独立した問題として幅広く論じられるようになった今、他者の問題に関してある種の方向性を与えてくれるのが、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906 - 1995)の思想である。彼が掲げる他者の概念は多少の難解さを伴うが、その神学的とも言える語りは示唆に富んでいる。

レヴィナスは他者をわたくしに同化することのない他者、指向性によって対象化、概念化されることのない絶対的な他者として規定する。他者とはわたくしの想像が及ばない、視覚を越えた存在であり、目によって存在が確かめられるものではない。そのような物質を越えた現象である他者を、レヴィナスは「ヴィザージュ(visage)」=顔(顔貌)と呼ぶ。「顔」と表現される他者とわたくしとの間にはアプリオリな前提は存在せず、両者はその場で対面し問い掛けるのだが、物質を越えた現象との交わりとは、まさに超越した語りそのものでしかない。わたくしにとって「顔」とは未知の理解を越えたモノであり、有限から解き放たれた「無限」であると考えられる。認識すら不可能な無限との差異は絶対的で、あらゆる問いかけにおいて、すでに共通の基盤は失われている。わたくしと他者の間に横たわるのは意味作用だけなのだとすると、わたくしにはただ無限の彼方から響きわたる他者からの語りかけに耳を傾けるしか術がない。

フロイトとヘーゲルの関係を指摘したドゥラカンパーニュだが、彼も他者に関して独自の概念を展開する。彼は他者を二つの相反する経験を通じてわたくしに与えられる、両義的な存在であると定義する。両義的な他者とは、わたくしを自己破壊へと導くような、情念的な関係を構築する鏡面反射的な他者と、そうした鏡の戯れから逃れさせてくれるような第三者として、法の番人のようにその外部に存在する他者という、ふたつの他者を擁する他者のことである。他者がこのように両義性を帯びるのは、わたくし=自己の両義性に対応するからであり、したがって、わたくしには主体の凋落からの救済が見込まれるのである。

ドゥラカンパーニュによると、そのような他者の両義性が最も顕著に現れるのが芸術だ。芸術において、凋落へと突き進む主体を、同時に奈落から引き上げ救済するという他者の両義性が、最も顕著にあらわれる。芸術は表現に対する衝動とそれを抑える法則とが同居することによって成し遂げられる。それが可能になるのは、ふたつの他者が一体化することで芸術を善悪の彼岸にとどまらせ、主体に自己の同一性の回復をもたらしているからに他ならない。芸術がどのような感覚に身を委ねようとも、他者の両義性が、死の淵からの生還を可能にする。

注)執筆にあたり、「現代フランス哲学12講、浜名優美その他訳、青土社、1986」及び、筆者のノートを参照した。個々の出典は省略する。

ジャック・デリダ、声と現象

「声と現象」はジャック・デリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)初期の代表作といわれる論文で、彼自身による評価も高い。デリダは本論において、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)の現象学と構造主義の解読を通じて形而上学の脱構築を試みる。

現象学は内的言語の哲学として、意味は内的意識から発生する。一方、言語と文化の関係を説く構造主義では、意味は言語の単位から発生する。異なる場に意味の発生源を求める両者は一見無関係に見えるが、共に形而上学的な仮定に頼っている。デリダはその点に着目し、彼が「ロゴス中心主義」として批判する哲学、プラトンからデカルト、ヘーゲルを経て現象学へと至る形而上学の基底に揺さぶりをかける。脱構築は対象に対立したり、それを論破したりするものでも、また逆にそれらを確証、擁護するものでもない。脱構築は単にテクストの裏側に潜む不安定な場所、あるいは不決定性が機能する場所を探し出すために、ただそこを通過する。

脱構築を始めるにあたり、デリダはまずフッサールが求めた純粋意識が提示できる可能性をその根本から除外する。フッサールは意識の基盤を探求するために、単に周縁的なものや偶発的なものをすべて排除する。彼にとって特殊な個人や特殊な状況に属するものすべては、個別の心理学の問題である。根源的な精神構造は普遍であり、また超越的でなければならない。

フッサールが掲げる現象学的還元では、対象をそれ以外のあらゆるものから遠ざけることで、基本的な様相(Aspect)を独立させる。厳格かつ詳細な排除が、意識の本質的な評価には必要だ。意味は内面的なものとして理解され、はじめて自身へと描かれ提示された意味となる。意味のそのような状況は、単一の孤立した精神生活が生み出すものであり、その孤立の中では一切の外部を必要とせず、基本的な意味は自身との対話による意識に関する質疑だけに限定される。精神の普遍的構造の基礎、存在の形而上学においては、存在は自身へと開かれる。そこで語られるあらゆる体系は、内部と外部という形而上学的対立に頼らなくてはならなくなる。

ところで、フッサールはこの現象学的還元において、言語をどのように扱っているのだろうか。言語はその性格上純粋意識に適応できないので、言語の、少なくともその周縁をフッサールは棚上げする。言語の周縁、その外面的側面としての構成、形式、音声、大意(物質)、記号(痕跡)を彼はいったん除外する。思考との関係において、彼は言語を階差的な段階に支配されたものだと定義する。言語は指示記号と表現(表示)記号という二つの段階において二項対立するからだ。指示記号とは意味を示しはするが、自身は動的な、意味的な意志を持たない記号のことで、例えば数学記号がこれに相当する。彼にとって指示記号の機能とは劣化したもので、その記号化(象徴化)にはある種の危機を孕むのだが、数学記号の場合のように、その記号化が何らかの使用に供されるのを別段邪魔するというわけではない。対照的に表現記号は自ら意識的に意味付けする、意識の力を持つ正統な意味に満ちた記号である。

フッサールが生の意志を語るとき、彼はその意志に命を吹き込む生の制作者を想定するのだが、それはそのような表現記号の特権的形式と重複する。その特権とは話す「声」である。声は静寂に満ちた内的な意識の内部、隣接した場所にあるので他のいかなる形式よりも優れたものとなる。自身を表現すること。それは記号の後ろに隠れ、誰かの話に付き添い、その助けになるということなのだが、そこでは生きた声だけが、その優越性と威厳でそれ自身を補佐することができる。生きた声だけが表現なのであり、従属的な記号ではない。

そのようなフッサールの音声中心主義に対し、デリダは記号や音声等、言語を外部から支持するものに着目し、現象学の脱構築を進めてゆく。デリダにとって記号や音声は現在の意志から切り取られた、個別の役割を演じるものである。言語の外部は必要なものであり、それらは常にその内側に住み着いているのである。デリダは脱構築の手順として、次にソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)に始まる構造主義に着目する。

ソシュールは言語に対するそれまでの通時的な考え方を改め、言語を共時的に扱うことで、他との関係の中にその構造を位置づけた。構造主義では各言語要素は他との関係、それらの差異において意味を産出する。言葉は紙の表と裏のような二つの概念で構成されている。その一方のシニフィアンは、語る言葉が聞かれ、書かれる言葉が見られるように、感覚的な知覚や認識を表現する。他方のシニフィエは、その知覚あるいは認識に関連する意味や概念を表している。われわれが感じる、考える、理解するという意味で、記号はそれを記号として成り立たせるために、その両面を必要とする。

デリダは、そのようなシニフィアンとシニフィエの階差的な差異をプラトン的制度、つまり哲学の中で展開される支配形式と同様なものだと考える。彼は記号の二項対立的な特性には疑問を呈するものの、ソシュールの記号論における表裏一体となったふたつのメタファーの要求、独立して存在できない両者、シニフィアンとシニフィエの癒着を、現象学の批判材料として温存する。シニフィアンとシニフィエによる表裏の構成とは、まさにライティングにおける表面と支持に相当するものだ。

概念や意味は、たとえ脳内でそれを思い浮かべることができるにせよ、その物理的な聞かれる声や書かれる印(しるし)、つまり感覚的様態としてのシニフィアンを要求する。したがって、そこではその外部にある形(フォーム)が純粋な内在(本質)のイデア(観念)を侵食していることになる。だが、それはまさにシニフィアンの隠蔽(抑圧)という、西洋哲学の古典的性向に対立する動きではないだろうか。西洋哲学において、シニフィアンは概念を打ち壊すものでしかなく、基本的概念のシニフィエに対して全く不要なものとして扱われてきた。フッサールも言うように、シニフィアンの消滅によってこそ、超越的シニフィエとしての純粋思考が立ち現れる。では、この消滅が最も完全に遂行されるのはどこかというと、それは話す声の中ではなかったか。声は表現された意識の力によって溶かされる。

しかし上述したように、ソシュールも音声中心主義に陥っている。では記号を取り除くために、それはどのようにして使われるのだろうか。そこで登場するのがソシュールの差異の概念である。

シニフィアンとシニフィエが接合する中で、シニフィアンかシニフィエ、そのどちらを引き合いに出そうとも、言語体系の外部では概念も音声も持ち得ない。そこでは概念的な、あるいは音声的な差異だけが体系から提起される。意味の産出は単にシニフィアンとシニフィエの関係だけではなく、他との差異にも依存する。言語学的音声の地平では、言葉の中にある音を、他の音に代変えすることが許される。音声自体に意味が無くても、あるいは同じでも、それぞれの違いを指摘することはできるというわけなのだが、それはその違いによる異なる概念の産出へと繋がってゆく。だがデリダにとってはまさにそのことが、存在に対する疑問となる。

ある語が話し言葉として流通するときには、そのすべての音が発話されなければならず、それらはすべてそこに存在する。一方そこに表記されていない語、発音されていない語は当然不在のままであるか、あるいはそのように理解される。しかしその語の意味が差異によって解釈されている以上、その意味は不在の語に依存していることになる。それは単にそこに「ない」というわけではなく、また逆に単に「ある」というわけでもない。それは「痕跡」として必然的な不在の中に、余儀なく存在する。痕跡とは単なる存在でも不在でもない、決定不能な要素である。差異の系統は、元の意味の上での存在と不在の戯れによって、つまり構造的な決定不能性によって支えられているのである。

書かれたものであるにせよ、話されたものであるにせよ、いかなる要素もそれ自体は不在の他の要素との関連なしでは機能しない。それぞれの要素の基本は、構造の他の要素の中に含まれている痕跡で構成される。その要素あるいは構造の中で、何ものも単に存在したり不在であったりすることはない。

言語はそこにあるものとそこにないものとの交差的な動きの中で前提される。言語は常に織物のように交錯し、すべての言語は決定不能性を条件とする。痕跡の戯れとは、言語が逃れることができない生来的な不安定さであり、ある種の変形、改変、ずれである。それは哲学的な言語にも応用できる。哲学の語彙(存在、真実、中心等)は語彙として理解されなければならず、それは言葉の集成なのであり、痕跡の戯れから逃れることはできない。痕跡が留まることなく存在と不在の間を横滑りし続けるのであれば、哲学を語る言葉も、その存在を再構成し続け、それを完全に確立することは不可能だ。そうした事実が形而上学上での概念、手続きとして完全な存在を要求する西洋哲学の根源を揺るがすことになる。これがデリダが本書で行う哲学に対する脱構築である。

ー ー ー ー ー

上記は「声と現象」英訳版とその「Introduction」を参照し、論文の概要を短くまとめたものである。なお、ここで参照した英訳版には二編の関連する論文が添えられているが、そのひとつ「Differance」の冒頭で、原文にはない一節が誤まって訳出されている。フランス語の原文では「I SHALL SPEAK, THEN, OF A LETTER - 」で始まる節が冒頭になる。この論文は、本論で触れられている言葉の戯れを、補足、詳述する。ここで参照した「声と現象」は古くからある英訳版だが、異なる訳者による新版もある。

参考文献
Speech and Phenomena and Other Essays on Husserl's Theory of Signs: Jacques Derrida, David B. Allison(Trans.), Northwestern University Press, 1973

ジャック・デリダフッサールフェルディナン・ド・ソシュールSpeech and Phenomena and Other Essays on Husserl's Theory of Signs

脱構築と中心

デリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)が行う脱構築の対象はさまざまだが、それを「中心」という言葉を介して、集約的に捉えることも可能である。「中心」はデリダの各論に登場し、彼はそれぞれの場所でその概要を述べているが、ここではその構造主義批判の中で説かれる「中心」を通じて、その意味を眺めてみる。論文の主旨は構造主義を通じた形而上学への批判であり、したがってそこでは構造の問題を土台にして議論が行われる。以下はそれを簡単にまとめたものである。

構造主義はソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)が示した、言語を共時的な並びの中で、それを恣意的な音の区別で構成される差異の体系だとする理論をもとに、言語を対立する記号のシステムとして捉え、それらが演じる差異の戯れの中に事物の関係を確認してゆく思想である。構造主義は対象をテクストとして読み直し、その裏側に潜む構造の理解を通じて、その真意を解読する。テクスト表面にある字義的な意味を軽視し、その裏側に潜む構造を重用することで、テクストの権威と共にそこで語られてきた真理や主体も解体され消滅する。

構造主義は現代の哲学に多大な影響を及ぼした思想だが、デリダはそこに潜む矛盾を指摘する。まずその構造だが、デリダはそれを、自身に「ひとつの中心を与え、ある現前点に、ある固定した起源にそれを引き戻そうとすることによって成立する行為」であると考察する。構造はその与えられた中心によって組成されることで方向付けられ均衡が保たれるのだが、同時に中心は構造を組成する原理それ自体が行う行為に制限を加えてもいる。デリダはこの行為を「ゲーム」と呼ぶ。彼は構造における中心を、「さまざまの内容や要素や関係の代替がもはやできなくなるような点」として、構造を組織し必要な方向に導きつつ、その諸要素のゲームを可能にすると同時に閉じるものだと規定する。

しかし、そうした構造における中心には矛盾が存在する。中心は不変かつ独自なものとして構造内部から全体を支配するのだが、「構造性から逃れてしまうものそれ自体を構成する」というその特性が、それを外部へと移動させてもいる。したがって中心は中心に位置すると同時に、全体から離れた位置にも存在する。構造と中心との関係にはそうした矛盾が付きまとうが、デリダはそのような統一関係が「ある欲求の力」を表現すると主張する。「中心のある構造という概念」は、確固とした形態に加え、ゲームからの逸脱から生じる「確信」によっても構成されているのだが、その確信が、そうした構造に補足され、そのゲームの渦中から抜け出せないという苦悩を制限する。

そのような構造概念は歴史の姿を表象する。繰り返し、代替、変形、変換、そのいずれもが中心から発し、その内部と外部に同時に存在するという特性から、起源と終末の両端を起点として「現前の形のうち」にいつでも両者を翻訳する。歴史とはまさに「隠喩と換喩の歴史」なのであり、我々は常にそれに捉えられている。

そのような「中心から中心へと行われる一連の代替、連鎖的に行われる中心の決定作用」とは、中心の様々な名称への、また様々な形への変形を意味するが、それこそが構造概念を、また形而上学を成立させてきたのである。形而上学においてはそのような操作によって、存在が「あらゆる意味における現前として」決定され、その中心、基底、原理に授けられる本質、存在、主体、真実、超越性、神、人間といった事柄によって、その普遍性が保証される。

参考文献
エクリチュールと差異(下):ジャック・デリダ、阪上脩その他訳、法政大学出版局、1983

ジャック・デリダ

ロラン・バルト、日本文化とエクリチュール

日本に関心を示す西洋の文化人は少なくないが、ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)もそのひとりで、彼はいくつかの論文で日本の文化に触れている。中でも重要なのは、1970年に出版した、「L'Empire des signes(表徴の帝国)」で、彼は日本の印象をその一冊にまとめている。本書は、すきやき、箸、すもう、俳句や庭園から学園紛争に至るまで、日本を代表する文化を、各章ごとに描いてゆく。だが本書は紀行文や東洋文化論等とは異なるもので、1957年出版の「Mythologies(神話作用)」を彷彿とするが、しかし今回は個々の内容が西洋と東洋の差異の中に展開される「エクリチュールの本」として、異なる観点を下地にして書き上げられている。

1966年代半ば、バルトは当時関心のあったエクリチュールの問題に取り組むための詩的素材を探していたが、フランス文化使節の一員として招聘された日本の文化にそれを発見した。首都からして、すでに中心が空虚な国。そこに展開する諸々の記号は意味の空白に戯れ、意味=中心から隔たる周縁で生を得ている。バルトはそのような日本の文化に、脱中心化の意味を据え付ける。彼は日本の文化を「革命的実践」だととらえ、そこに散在する「無」をテコにして、西洋的な表徴=記号体系を揺さぶろうと画策する。哲学をテクストとして読み込むデリダ(Jacques Derrida、1930 - 2004)に対し、バルトは本書で文化においてそれを実践する。

バルトは出版後に行われたプロメス誌とのインタビューで、本書の意図に触れている。もっとも誌はインタビューを、「記号内容を展開し、詰め込むための修辞学的様式」を踏襲するものだとして、それに否定的な見解を示している。そこで誌は対談に、「もうひとつのテクスト的セリー(音列)の展開を可能にする」、読書のしおりとしての役割を期待する。下記にその内容を、前半部を中心にまとめてみた。

インタビューをはじめるにあたり、誌はまず本書の主題を規程する。東洋を物質的地勢から切断し、そのテクスト的解釈を通じて西洋のイデオロギー的姿勢、東洋を見る目に寄り添う帝国主義やキリスト教的思考とともに、それへの無知と思い込みにクサビを入れること。本書はそのような主題に沿って、日本を「象徴的なものの裂け目」を記す、問題解決への糸口を探るためのテクストとして再考する。したがって、各章では諸文化を「象徴体系の固有性の変革」を示唆する事象、「抑圧された外部への抜け穴」として紹介する。

本書は西洋を「意味の帝国」だとする一方、日本を異なる象徴体系を擁する「記号の帝国」だと解釈し、テクストの織物、エクリチュールという「別個の記号表意的結合関係」として再読することで、両者の対立構造を解明する。記号空間とは「記号表現と記号内容と指向対象からなる記号の基本的階層組織」を意味するが、諸々の解読において、その組織は凌駕されてゆく。そこでは意味は定まる「と同時に逆流し、与えられると同時に拒否され」、すべての記号内容が瞬時に記号表現へと収束することで、「諸コードの正確な編物でありコードの概念を基礎づける階層関係」は、空虚な記号の素性によって消滅する。

バルトはそのような誌の解読を受けて、本書における試みの出発点を、フォルマリスムにおける文学的隠喩との共通点に基づく、東洋に対するフォルマリスト的視点の再考であると解説する。フォルマリスト的視点は内容、主体、原因や主義主張という、その記号内容によって批判される。批判は形式による内容の転位と後退を目的とするが、彼はそれが行う内容の相対化や時間の延期に着目し、そのような「基準枠の不確定性」に文学的な隠喩との共通点を感じ取る。文学は、唯心論的で固定的な哲学や神学という記号内容から回避するために隠喩を用いてきたのだが、それは起源の消滅へとたどり着く。

そのような隠喩はテクストのエクリチュールに潜む無(空虚)として、中心の欠如を示すのだが、本書の核心部分もそこにある。悟りとして読まれる東洋のエクリチュールはパロールを無にすると同時に、その空虚なパロールがエクリチュールを構成する。その無化と空虚が、西洋との差異を集約する。内部が「男根の、父の、呪文の強迫によってこれを埋めるように促される」西洋の知性は、そのような主体を揺るがす「無意識的回収」を伴う空虚を拒否せざるを得ず、それをひとつの中心へと改変する操作、いわゆる「神秘的還元」を実行する。そこで誌はバルトの解読をそれに打ち勝つ「空無化の実践」として、その「空虚を表現することなしに書く」という手法に賛同する。

バルトは空虚が示す観念を、「脱中心化の観念」を支えるものとして、その下部に据え付ける。彼の言う空虚は充実する。一般的に「充実したもの」とは、忘れ得ぬ過去や父のような主観的な記憶、神経症的な反復、大衆文化的なステレオタイプなどとして例示される一方、空虚はそれに相反する「肉体、事物、感情、語などの」欠如であると定義される。しかしバルトはそのような分類を、「旧物理学」の侵食がもたらしたものだとして一蹴する。世界を起源によらない「一時的な差異の体系」だとする構造主義に根ざす彼の思考の中で、空虚は「新しいものへの回帰」、「世界の自己生成性」と呼ばれるものへと読み替えられる。

バルトが示す空虚の意を受けて、誌は本書に登場する俳句を例に取る。俳句においては、記号表現と記号内容が完全に一致する。一方、西洋の詩的ディスクールにおいては、その「活発な多様性、記号表現の深さ」によって、記号は戯れ疲弊する。誌の指摘に対してバルトは、「記号の反対物、非記号、無意味」のような一連の反対物による正面的な攻撃、意味の廃棄、言語の転覆といった手法の非力を例示する。彼が求めるのは、固有性の希釈化による廃棄、パロディー化、模擬といった、「ごまかし、盗み、かすめとる」といった手法なのであり、彼はそれらと俳句の機能との一致を強調する。俳句は、「ある種のテクニック、韻律的コードによって、記号内容を消滅させる」と同時に、その「最後の反転によって読み得るものの仮面を着け、良い(文学的)メッセージの属性、つまり明晰さ、簡潔性、優美、繊細さを模倣しながら、実はこれらのものから一切の指向を」剥奪する。そのような能力は彼の言う「古典的エクリチュール」にも存在するが、そこには現代的な、「パラグラム、剽窃、テクスト相互関連性、偽りの読みとり可能性」などの、「理論的可能性」が欠けている。

誌はバルトの言葉に対し、「日本という語が示すエクリチュールの唯物論的係留の問題」に触れる。係留とは「成層組織をなし、相互の支配・限定関係に規制された、わりあいに自律的な諸系列」による「文節された複合的実践」を意味するが、バルトはそれを言語の内側から開始する。彼が行うのは、「あらゆるイデオロギー的なもの、無意識的なもの」を包含し、それらを中心として伝達により強迫を仕掛けて来る言語の脱中心化である。そのような前提において各章では、諸々の文化に存在する身振りや痕跡といった、「一般的エクリチュール」を示す言語が検証されてゆくのだが、そこでバルトが問題としているのは、「標定された種々の記号表意的実践の、弁証法的に秩序立てられた射程内における、その位置」である。

インタビューはまだ継続し、より包括的に本書の概要が示されてゆく。

本書が語る核心は、日本という物質文明のテクスト化を出発点としているが、バルトにそれを引き出させたのは、他国にひとり置かれた外国人が味わう特殊な疎外感である。本書の各所に示されているように、バルトは日本に滞在中、常に自らを外国人として疎外し続けた。だが、その疎外の原因、彼を取り巻く不可思議な言葉や作法、その無意味、理解不能性が、彼を意味の強度から解放し、「悦楽」という重要な感覚を彼に目覚めさせてゆく。本書における日本のテクスト化とそのエクリチュールとしての読み込みは、そのような疎外がもたらす「悦楽」を起点とするものだ。

かつてバルトは、ある種の西洋文化における記号の明瞭さが示す意味の透明化、そこでのシニフィアンとシニフィエのみごとな癒着の表象を、現実生活とは異なる現代の神話として解読した。一方、シニフィアンがシニフィエ=意味を超越する日本においては、そのようなシニフィアンの豊かさが、シニフィエとの結合を不要なものにしてしまう(記号が空虚なのでシニフィエへと導かれない)。それが西洋人であるバルトを意味の理解から開放し、そこはかとない「悦楽」を彼に提供した。

参考文献
Empire of Signs: Roland Barthes, Richard Howard (trans.), Hill and Wang, 1982
物語の構造分析:ロラン・バルト、花輪光(訳)、みすず書房、1979
神話作用:ロラン・バルト、篠沢秀夫(訳)、現代思潮新社、1967

ロラン・バルト

Top